5-1
サラスを出てから、ほとんど休むことなく馬車は街道を走り続けた。途中の町や教会で何度か馬を替えながら進み、翌日の夕方、ようやくリアたちは港町タリオンに到着した。
「ここが、タリオン……」
馬車の窓から外を眺め、リアが小さく呟く。
王都から遠く離れた大きな港町。
本来なら多くの人や荷馬車が行き交い、活気に満ちている場所だと聞いていた。
けれど今は、どこか落ち着かない空気が漂っている。
通りを歩く人はいるものの、足早に行き交う者が多い。
店先で話している人たちの表情にも、不安の色が見えた。
「リア様」
隣に座っていたノエルが心配そうに顔を覗き込む。
「大丈夫ですか?」
「ええ、少し疲れただけです」
「ずっと馬車に乗っていましたからね」
途中で何度か休憩は取ったものの、リアにとってこれほど長く王都を離れるのは初めてだった。
やがて馬車は、タリオンの教会に到着した。
大神殿から派遣されたのは、リアのほかにペトロ、二人の神官、そして世話役として同行するノエルの五人だった。
馬車を降りると、タリオンの神官たちが出迎えてくれる。
「お待ちしておりました」
疲れた顔をした神官が深く頭を下げた。
「遠いところをお越しいただき、ありがとうございます」
「詳しい状況をお聞かせいただけますか」
ペトロが尋ねる。
「もちろんです。こちらへ——」
「私も行きます」
リアがそう言うと、ペトロが振り返った。
「リア様は今日はお休みください」
「でも……」
「明日からはリア様にも治療をお願いすることになります。今夜は身体を休めることも仕事のうちです」
「……分かりました」
まだ話を聞くくらいならできると思ったが、ここまでの旅で疲れているのも事実だった。
「明日の朝、私からご説明いたします」
「はい。お願いします」
ペトロと二人の神官は、そのまま現地の神官たちと話をするため教会の奥へ向かった。
残されたリアはノエルに案内され、用意された部屋へ向かった。
長旅の疲れもあり、その日は早々に眠りについた。
翌朝。
朝食を終えたリアは、ノエルとともにペトロから昨夜聞いた話を教えてもらっていた。
「最初に異変が見られたのは、しばらく前のことだそうです」
ペトロが机の上の資料に目を落とす。
「身体がだるい、疲れやすい、食欲がない。そういった症状を訴える方が、少しずつ増え始めました」
「最初から今みたいにたくさんいたわけではないんですか?」
「ええ。それに、どれも珍しい症状ではありませんから」
疲れや食欲不振だけなら、様々な原因が考えられる。
特に最初の頃は、患者の多くが平民だったという。
「平民の方の中には、多少の不調なら仕事を休まず、治療を受けずに済ませる方も少なくありません。ですから、教会側もすぐには同じ病気だと考えなかったようです」
リアは黙って話を聞く。
「ですが、似た症状を訴える方が次第に増え、この教会にいる治癒スキル持ちの神官一人では対応できなくなりました。そのため、近隣の教会からもう一人、治癒スキルを持つ神官に応援を頼んだそうです」
「二人でも足りなかったんですね」
ノエルが尋ねる。
「はい。治癒スキルは便利ですが、一日に何人でも治療できるわけではありません。症状の重い方が多ければ、一日に五、六人診るだけでもかなりの負担になります」
無理をすれば、それ以上の人数を治療することもできる。しかし、治癒の力を使い果たしてしまえば翌日の治療にも影響する。
「それでも患者は増え続けました。さらに最近になって、症状にも変化が出ています」
「変化?」
「歯茎が腫れたり、そこから血が出たり。身体に痣のようなものが現れる方もいるそうです」
リアが眉を寄せる。
「それって……」
「船員病に見られる症状とよく似ています」
「船員病……」
リアもその名前くらいは知っていた。
長い航海をする船乗りがかかることのある病気だ。
「では、船員病なんですか?」
「それが分からないのです」
ペトロは静かに首を振った。
「患者の中には、船に乗ったことすらない方も大勢います」
「それなのに、船員病と同じ症状が?」
「はい。そのため、別の病気なのか、それとも船員病に何か変化が起きているのか……現時点では判断できていません」
原因については領主側でも調査しているという。
教会では患者への対応だけで手いっぱいになり、詳しく調べる余裕がなくなっていた。
「それから、もう一つ問題があります」
ペトロの表情がわずかに険しくなる。
「以前治療した方の中に、再び同じ症状を訴えて教会を訪れる方が出始めています」
「治したのに?」
リアは驚いて聞き返した。
「その時は確かに症状が改善したそうです。しかし、しばらくすると再び身体の不調を訴えるようになる」
「……どうして」
「それも、まだ分かっていません」
原因不明の病気。
増え続ける患者。
さらに、一度治療しても再び症状が現れる。
「ですから今は、病気そのものを治すというより、重症の方の命をつなぐことを優先しています」
ペトロはリアをまっすぐ見た。
「原因が分かるまで、一人でも多くの方を助け、時間を稼ぐ。それが私たちに求められていることです」
「……はい」
リアはしっかりと頷いた。
「私も頑張ります」
「ええ。ただし、無理はしないように」
ペトロがすぐに付け加える。
「昨日まで治療を続けていたお二人には、今日から少し休んでいただきます。代わりに、私たち四人で治療を担当します」
リアとペトロ、そして王都から同行した二人の神官。
「全員を一日で治そうとは考えないでください。私たちまで倒れてしまえば、助けられる方も助けられなくなります」
「分かりました」
自分にどれだけのことができるのかは、まだ分からない。
それでも、助けるためにここまで来たのだ。
リアは小さく息を吸うと、治療を始めるため立ち上がった。
◇◇◇
リアたちは、治療を行うため一階の礼拝堂に向かった。
普段は祈りを捧げるために使われている場所だが、今は病人を受け入れるための場所として開放されていた。
長椅子には治療を待つ人々が座り、壁際には毛布や簡素な寝具が並べられている。そこには、自力で身体を起こすことも難しい者たちが横になっていた。
入り口では数人の神官が訪れた者から症状を聞き、状態を確認している。
「こちらへどうぞ」
「この方は奥へ。先に治療をお願いします」
次々と人が訪れる中、神官たちは重い症状の者から治療を受けられるように振り分けていた。
「現在、重症と判断されている方だけでも四十人以上います。中等症まで含めれば、その数はさらに増えます」
ペトロの説明を受け、リアは礼拝堂を見回した。
(こんなに……)
患者が増え続けているとは聞いていた。
けれど、実際に目にすると想像していた以上だった。
「リア様」
ペトロに呼ばれ、リアはそちらを見る。
「まずは、こちらの方からお願いします」
「はい」
リアが最初の患者のもとに向かおうとした、その時だった。
入り口の方が急に騒がしくなった。
「ですから、現在は重い症状の方を優先しております!」
「私も具合が悪いと言っているだろう!」
大きな声が響き、礼拝堂にいた人々が一斉にそちらを見る。
リアも足を止めた。
数人の従者を連れた男が、神官と言い争っている。
身なりからして貴族だろう。
「どうしたんですか?」
ペトロが近くにいた神官に尋ねる。
「それが……治療を受けたいとおっしゃっているのですが」
「当然だろう!」
男がこちらに振り向いた。
「昨夜から身体が重い。私も例の病にかかったかもしれん」
そう言いながらも、顔色は悪くない。
大声で神官と言い争うだけの元気もある。
「ですが、今は命に関わる症状の方から治療しております。診察を受けていただき、緊急性がないようでしたら——」
「いつまで待てというのだ」
ペトロの言葉を遮り、男が不満そうに言う。
その視線が、やがてリアに向いた。
「あなたが王都から来た聖女候補か」
「はい。リアと申します」
「ならばちょうどいい。私を診てもらおう」
当然のように言われ、リアは少しだけ眉を寄せた。
「申し訳ありません。今は重症の方を優先して治療することになっています」
「私も具合が悪いと言っている」
「でしたら、まず神官に症状を確認してもらってください。その上で治療が必要だと判断されれば、私も治療いたします」
「私を待たせるつもりか?」
男の声が低くなる。
けれど、リアは目を逸らさなかった。
「はい」
静かに答える。
「今すぐ治療しなければ危険な方が待っていますから」
リアは礼拝堂の奥に視線を向けた。
横になったまま起き上がれない者。
家族に支えられながら、ようやく座っている者。
目の前の男よりも、先に治療しなければならない人たちがいる。
「もちろん、あなたの症状が重いと判断されれば、すぐに治療いたします。ですから、まずは神官の診察を受けてください」
「この……聖女候補だからといって——」
「神官の指示に従ってください」
背後から響いた声に、男の言葉が止まった。
リアが振り返る。
教会の入口には、数人の王宮の者を連れたジェームズが立っていた。
「ジェームズ殿下……」
男の顔色が変わる。
ジェームズはそのまま二人のそばまで歩いてきた。
「ここで治療の順番を決めるのは、患者の身分ではありません」
淡々とした声だった。
「症状の重さです」
「それは……」
「あなたも治療を希望するのであれば、まず神官の診察を受けてください。緊急性が高いと判断されれば、当然優先されます」
「……承知しました」
男はそれ以上何も言えず、先ほどまで話していた神官の方へ向かった。
従者たちも慌ててそのあとを追う。
リアは小さく息を吐いた。
「ありがとうございます、殿下」
「礼は必要ありません」
ジェームズは男の背中を一度見てから、リアに視線を戻した。
「あなたの判断は間違っていません」
「……はい」
「ですが、ああいう相手に長く付き合っていては、治療する時間がなくなります。必要なら周りの神官に任せてください」
「分かりました」
少し厳しい言い方だったが、リアを責めているわけではない。
むしろ、自分の判断を認めてくれたのだと分かった。
「殿下はどうしてこちらへ?」
「教会の状況を確認しに来ました」
ジェームズは礼拝堂を見回す。
「昨晩、領主からは話を聞きました。王宮から来た者たちも加わり、この病気の原因を引き続き調べます」
「原因、分かりそうですか?」
「まだ何とも言えません」
ジェームズはリアを見る。
「そちらは私たちに任せてください。あなたは治療を」
「はい」
「ただし、無理はしないように。あなたまで倒れれば、助けられる者も助けられなくなります」
「分かっています」
「ならいいです」
ジェームズはペトロと簡単に言葉を交わすと、同行していた王宮の者たちとともに教会を後にした。
リアはその背中を見送ってから、待っている患者たちに目を向ける。
「リア様」
ペトロに呼ばれ、リアは頷いた。
「はい。始めましょう」
原因を調べるのはジェームズたちの役目。
今の自分にできるのは、目の前で苦しんでいる人を助けることだ。
最初に案内されたのは、礼拝堂の奥に並べられた簡素な寝台の一つだった。
頬は痩せ、顔色も悪い。
近くには妻らしき女性が座り、不安そうに男性の手を握っていた。
「数日前からほとんど起き上がれなくなったそうです」
そばにいた神官が説明する。
「歯茎からの出血もあり、今朝からさらに身体が動かなくなったと」
「分かりました」
リアは男性のそばに膝をついた。
「今から治療しますね」
「……お願いします」
弱々しい声が返ってくる。
リアは両手をかざし、ゆっくりと魔力を込めた。
淡い光が手のひらから広がり、男性の身体を包み込んでいく。
神殿ではこれまでにも何度も治療をしてきた。
けれど、これほど症状の重い患者を治療するのは初めてだった。
(焦らないで……いつも通りに)
ペトロに言われたことを思い出しながら、慎重に魔力を流していく。
男性がゆっくりと目を開ける。
先ほどまで浅かった呼吸は落ち着き、力の入らなかった腕を動かして、自分で上半身を起こそうとした。
「あなた、無理しないで」
「いや……さっきより、ずっと身体が楽だ」
「本当?」
「ああ……」
リアはほっと息を吐いた。
「まだ無理に動かないでくださいね」
「ありがとうございます……」
男性がリアを見る。
「本当に、ありがとうございます」
隣にいた妻も何度も頭を下げた。
「聖女様が来てくださって、本当によかった……」
「あの、私はまだ聖女ではなくて、候補なんです」
リアが困ったように言うと、女性は涙を拭いながら笑った。
「それでも、私たちにとっては同じです。夫を助けてくださったんですから」
「……はい」
リアは少し照れながら笑った。
すぐに次の患者のもとに向かう。
その後も、リアはペトロたちと手分けして重症の患者を治療していった。
ペトロたちが何度かに分けて治療するような重い症状でも、リアの光は目に見えて身体の状態を整えていった。
それでも、重症者を一度の治療だけで完全に元通りにできるわけではない。
「ありがとう、ございます……」
「ずっと苦しかったのに……こんなに楽になるなんて」
「聖女様、本当にありがとうございます」
治療を終えるたびに、感謝の言葉をかけられる。
その度にリアは嬉しくなった。
聖女候補になってから、覚えることばかりの日々だった。
大変だと思うことも何度もあった。
けれど——。
(頑張ってきてよかった)
自分の力で誰かを助けられることが、素直に嬉しかった。
「リア様」
次の患者のところに向かおうとしたところで、ペトロに呼び止められた。
「今日はここまでにしましょう」
「でも、まだ治療を待っている人が……」
「明日も治療は続きます」
ペトロが穏やかに言う。
「魔力にはまだ余裕があるようですが、慣れない環境での治療です。無理をしてはいけません」
「……分かりました」
リアは少し迷ったものの、素直に頷いた。
今日だけで終わるわけではない。
明日も、その次の日も、自分にできることをすればいい。
治療を終えて礼拝堂を出る前に、リアは一度振り返った。
長椅子には、まだ治療を待つ人々が残っている。
病気の原因も、どうしてこれほど患者が増えているのかも分かっていない。
それでも今日、自分が治療した人たちは笑顔を見せてくれた。
(来てよかった)
タリオンに行きたいと言った時、少し迷いもあった。
けれど今は、そう思える。
それなのに、なぜかペトロから聞いた『再び同じ症状で戻ってくる患者がいる』という言葉が、リアの胸に残った。




