王都 10
やがて馬車は孤児院の前で止まった。
「着いたぞ」
レオの声に続き、三人は馬車を降りた。
庭では子どもたちが元気よく遊んでいた。
馬車に気付いた一人の女性が、玄関から姿を現す。
「あら」
穏やかな笑みを浮かべた女性は、ルナを見ると目を細めた。
「ルナ様、お久しぶりですね」
「ご無沙汰しております」
ルナは優雅に一礼する。
「最後にお伺いしてから、もう一年くらいになるでしょうか」
「ええ」
院長は懐かしそうに頷いた。
「子どもたちも、『最近ルナ様が来られないね』と少し寂しがっていたんですよ」
その言葉に、ルナは少し申し訳なさそうに微笑む。
「学園に入る準備などもあり、なかなか時間が取れなくて……」
「そうでしたね」
院長は優しく笑った。
「でも、またお会いできて嬉しいです」
ルナも自然と笑みを返す。
「私もです」
そして改めて頭を下げた。
「今回は急なお願いにもかかわらず、護衛依頼まで出していただいて、本当にありがとうございました」
院長には事情をすべて話したわけではない。それでも、ミアとレオの頼みを聞き、二人の旅のためという形で護衛依頼を出してくれた。
「すべてを聞くつもりはありません。けれど、二人がよく考えた上で決めたことだというのは分かりましたから」
その言葉に、ルナは胸の奥がじんわりと温かくなる。
「ありがとうございます」
「さあ、立ち話も何ですから中へどうぞ」
「はい」
三人は院内に足を踏み入れた。
中は決して広くはないが、隅々まで丁寧に掃除されている。
子どもたちの笑い声が聞こえ、どこか温かな空気が流れていた。
「じゃあ俺は荷物を運んでくる」
レオはそう言うと、馬車に戻っていく。
「お願い」
ミアはルナに向き直り、小さな包みを見せた。
「ルナ様……いえ、ルナ」
少し照れ笑いを浮かべながら言い直す。
「着替えを用意してあるから、先に着替えよう」
ミアに案内され、ルナは奥の部屋に入った。
ベッドと机、それに姿見が一つ。
決して広くはない部屋だったが、きれいに整えられている。
「服はここに置いておくね」
ミアが包みを机の上に置く。
「着替えが終わったら呼んで」
「分かった」
ミアが部屋を出ると、ルナはゆっくりとドレスに手を掛けた。
何度も袖を通した、フィールズ家の令嬢としての服。
丁寧に畳み、椅子の上に置く。
もう、この服に袖を通すことはないのかもしれない。
代わりに包みを開くと、丈夫な生地のブラウスと動きやすいスカートが現れた。
装飾はほとんどない。
王都を歩けば、どこにでもいる平民の娘の服だった。
着替えを終え、姿見の前に立つ。
「……これが私」
思わず小さく笑う。
鏡の中には、いつもの令嬢姿ではない自分が映っていた。
不思議と違和感はない。
むしろ、どこか肩の力が抜けるような気がした。
「動きやすそう」
くるりと一回転してみる。
スカートは軽く、靴も歩きやすい。
「旅をするなら、こっちの方がずっといいわね」
そう呟くと、扉を開けた。
「ミア、着替え終わったよ」
部屋に入ってきたミアは、一瞬目を丸くする。
「……似合ってる」
「本当?」
「うん」
ミアは嬉しそうに何度も頷いた。
「ぱっと見ただけなら、貴族令嬢には見えないと思う」
「よかった」
ルナもほっと笑う。
その時、姿見に映る自分を見つめながら、ふと思いつく。
「ミア」
「ん?」
「もう一つお願いがあるの」
「何?」
ルナは自分の髪にそっと触れた。
「髪を切ってくれない?」
ミアは驚いて目を見開く。
「えっ!? 本気?」
「うん」
ルナは頷いた。
「せっかく新しい人生を始めるんだから。それに……」
一度言葉を切り、優しく微笑む。
「この髪だと、私だって気付く人もいるかもしれない」
ミアは寂しそうな顔をした。
ルナの髪は、子どもの頃から大切に手入れされてきた。
艶のある茶色の髪は、令嬢らしい長さまで伸びている。
「……分かった。私が切る」
椅子に座ったルナの後ろに回り、髪を手に取る。
「緊張する?」
ルナはくすっと笑った。
「少しだけ」
ミアもつられて笑う。
「私も」
小さなはさみが、静かな部屋に軽い音を響かせる。
長かった髪が、一房、また一房と床に落ちていく。
やがて最後の一房を整え終えると、ミアは姿見をルナの前に向けた。
「どうかな」
ルナは鏡を見つめる。
肩にかかるくらいの短い髪。
先ほどまでとは、ずいぶん印象が違って見えた。
そっと毛先に触れる。
「……うん」
自然と笑みがこぼれた。
「これでいい」
鏡の中の自分に向かって、小さく呟く。
「今日からは、ただのルナ」
その一言に、迷いはもうなかった。
ルナが部屋を出ると、廊下で荷物を整理していたレオが顔を上げた。
「着替え——」
そこまで言って、思わず言葉を止める。
「……お」
短く声を漏らしたまま、しばらくルナを見つめていた。
長かった髪は肩の辺りで揺れ、動きやすい平民の服に身を包んでいる。
先ほどまでの貴族令嬢とは、まるで別人だった。
「一瞬誰か分からなかった」
その一言に、ルナも自然と笑みを返した。
「似合う?」
「ああ」
レオは迷いなく頷く。
「その方が旅人らしい。目立たなくなったし、いいと思う」
その言葉に、ルナはほっと胸をなで下ろした。
すると、院長も部屋から出てきた。
ルナの姿を見ると、穏やかに目を細める。
「とてもよくお似合いですよ」
「本当ですか?」
「ええ」
院長は優しく微笑んだ。
「新しい髪型も、とても素敵です」
「ありがとうございます」
ルナは照れたように笑った。
院長は大きな布包みを差し出した。
「どうぞ。お昼を用意しておいたんです」
布の中には、焼きたてのパンや干し肉、果物、それに水筒がきれいに詰められていた。
「道中で召し上がってください」
「こんなに……」
ルナは驚いて院長を見る。
「ありがとうございます」
「遠慮しなくていいんですよ。子どもたちにも手伝ってもらって用意したんです」
その言葉に、ルナは胸が温かくなるのを感じた。
「子どもたちにも、お礼を伝えてください」
「もちろん」
院長は嬉しそうに頷いた。
レオは布包みを受け取ると、馬車に積み込む。
「これなら途中で腹が減っても安心だな」
「うん」
ルナは孤児院の温かな空気を胸いっぱいに感じながら、小さく頷いた。
荷物を積み終えると、レオは馬車の扉を閉めた。
「これで全部だな」
「うん」
ミアも頷く。
二人は自然と孤児院の方に振り返った。
いつの間にか、院長と子どもたちが玄関の前に集まっている。
「レオ兄ちゃん!」
小さな男の子が駆け寄ってくる。
「今度はいつ帰ってくるの?」
レオはしゃがみ込み、その頭を優しく撫でた。
「少し長い仕事になるからな。でも、ちゃんと帰ってくる」
「約束?」
「ああ、約束だ」
男の子は安心したように笑った。
一方、ミアの周りにも女の子たちが集まっていた。
「ミアお姉ちゃん」
「気をつけてね」
「またお話聞かせてね」
ミアは一人ひとりの頭を優しく撫でる。
「もちろん。みんなも院長先生の言うことをちゃんと聞くんだよ」
「はーい!」
その光景に、ルナも自然と頬を緩めた。
血の繋がりはなくても、ここには確かに家族がいた。
「ルナお姉ちゃん」
一人の女の子がルナに声をかけた。
「またね」
ルナも微笑みながら手を振った。
院長が二人に歩み寄る。
「ミア、レオ」
二人は姿勢を正した。
「行っておいで」
その一言には、送り出す人の優しさが込められていた。
「はい」
二人は揃って頭を下げる。
「院長先生」
ミアが少し照れくさそうに笑う。
「今まで、本当にありがとうございました」
「ありがとうございました」
レオも続けて頭を下げた。
院長は穏やかに微笑む。
「こちらこそ。二人とも立派になりましたね。困ったことがあったら、いつでも帰ってきなさい。ここは、あなたたちの家なんですから」
その言葉に、ミアは目を潤ませながら頷いた。
「……はい」
レオも少し照れたように笑う。
「また顔を出します」
「ええ」
院長はルナにも視線を向ける。
「ルナさん。どうか、お体には気を付けて」
「ありがとうございます」
ルナは深く頭を下げた。
「皆さんのおかげで、新しい一歩を踏み出すことができます」
院長は優しく微笑み返した。
やがて三人は馬車に乗り込む。
子どもたちは大きく手を振った。
「いってらっしゃーい!」
「またねー!」
元気な声が、青空に響き渡る。
ルナも窓を開け、小さく手を振り返した。
「行ってきます」
その言葉を合図にするように、馬車はゆっくりと動き始めた。
孤児院の人たちの姿が少しずつ遠ざかっていく。
それは別れではなく、また帰ってくる約束のように、どこか温かな旅立ちだった。
◇◇◇
馬車は街道を進み、やがて王都を囲む大きな城壁が見えてきた。
「もうすぐ門だ」
レオが窓の外を見ながら言う。
門の前には荷馬車や旅人たちが列を作っていた。
順番が来ると、門番が馬車に近付いてくる。
「代表者の身分証を」
レオは冒険者証を差し出した。
門番は軽く目を通し、馬車の中を一瞥すると小さく頷いた。
「通ってよし」
ゆっくりと門が開く。
馬車はそのまま王都の外へと進んだ。
石畳だった道は土の街道に変わり、目の前にはどこまでも続く景色が広がっている。
ルナは後ろを振り返った。
遠くには、王都の城壁が見える。
もう戻ることはないかもしれない。
それでも、不思議と涙は出なかった。
「……行こう」
小さく呟く。
その声を聞いたレオが笑う。
「ここからが本番だ」
その言葉に、ルナも自然と笑みを浮かべた。
「うん」
ここからは、フィールズ家の令嬢ではなく、一人の旅人として生きていく。
期待も、不安も、そのすべてを胸に抱きながら。
馬車は新しい未来に向かって、ゆっくりと走り続けた。




