王都後編 6.5
研究所から帰ってきたルナは、自分の部屋に戻ると、ようやく大きく息を吐いた。
「疲れた……」
国王と直接話すのは、クリーヴランド王国の王城へ呼ばれたとき以来だ。
リアムが一緒にいてくれたおかげで、途中からは少し緊張も解けたけれど、それでも普段とは違う疲れが残っている。
ルナは着ていたドレスを脱ぐと、皺にならないよう丁寧に広げた。
落ち着いたネイビーのドレス。
派手な装飾はないものの、王宮を訪れるのに失礼にならない、上品なものだった。
「マリアンナ様のおかげで、今日は助かったな」
このドレスがなければ、何を着ていくか随分悩んでいたはずだ。
ルナはドレスを整えながら、数日前のことを思い出した。
◇◇◇
リアムとマシューが帰ったあと。
ルナは、王宮に行くことになったとミアたちに話していた。
「国王陛下に会うの?」
ミアが驚いて目を丸くする。
「うん……。リアムはそんなに緊張しなくていいって言ってたけど」
「無理だろ」
レオが即座に言った。
「だよね」
ルナも頷く。
それから、ふと自分の服を見下ろした。
「それで、もう一つ困ってることがあって……」
「何?」
「服、どうしよう」
三人がルナを見る。
「正式な謁見じゃないって言ってたけど、国王陛下に会うのに、いつもの服で行くわけにはいかないよね?」
「あ……」
ミアも気づいたらしい。
今のルナが持っているのは、旅をしたり、料理をしたりするのに困らない服ばかりだ。
フィールズ家にいた頃に着ていたようなドレスは、一着も持っていない。
「買うしかないかな……」
王都なら、探せばすぐに見つかるだろう。
けれど、今後どれだけ着る機会があるかも分からないものを、この一度のために買うのは少しためらう。
「……あっ」
考え込んでいたミアが顔を上げた。
「マリアンナ様に相談してみたら?」
「マリアンナ様に?」
「うん。カレンさんに聞いてもらってもいいし。何かいい方法を知ってるかもしれないよ」
「でも、こんなことで相談していいのかな」
「聞くだけ聞いてみたら? 駄目だったら、そのとき買えばいいんだし」
「そうだね……」
確かに、相談するだけならいいかもしれない。
そこでレオが口を開いた。
「手紙を書くなら、俺が届けてこようか?」
「レオが?」
「ああ。侯爵家には訓練で何度か行ってるから、門番とは顔見知りだ。手紙を預けるくらいなら問題ないだろ」
「じゃあ、お願いしてもいい?」
「ああ、いいぞ」
ルナはさっそく手紙を書き、レオに託した。
王宮を訪れることになったものの、それにふさわしい服を持っていないため、どうすればいいか相談したいとだけ書いておく。
返事が届いたのは、その日の夕方だった。
「明日、ミアと一緒に来てほしいって」
「あたしも?」
隣にいたミアが目を丸くする。
「うん。何か考えてくださってるみたい」
「じゃあ、行ってみようよ」
「そうだね」
相談に乗ってもらえるだけでも十分ありがたい。
ルナはマリアンナからの返事を大切にしまった。
翌日。
ルナとミアは二人でオルソン侯爵家を訪れた。
「なんだか久しぶりに来た」
屋敷を見上げながら、ミアが言う。
「ミアもそう思うの?」
レオとミアは訓練のために何度か訪れているが、ルナは最初に一度ついてきただけだ。
「何か考えてくださってるみたいだけど、何だろうね」
「行けば分かるよ」
「そうだね」
ルナはミアとともに屋敷の中に入った。
案内された部屋の扉が開く。
「いらっしゃい、ルナさん。ミアさんも」
「マリアンナ様。急に相談してしまって、すみません」
「気にしなくていいのよ。手紙を読んで、ちょうど使ってもらえそうなものがあると思ったの」
「使ってもらえそうなもの?」
ルナが首を傾げると、マリアンナは楽しそうに笑った。
「ええ。とりあえず、中へどうぞ」
何のことだろう。
ルナはミアと顔を見合わせてから、マリアンナに続いて部屋の奥へ入った。
そこで、思わず足を止める。
「これ……全部ドレスですか?」
部屋には、色の違うドレスが数着用意されていた。
「ええ。私が結婚する前に着ていたものよ」
「マリアンナ様の?」
「今も実家に置いたままになっていたものを、何着か持ってきてもらったの。もう私が着る機会もほとんどないし、ルナさんなら合うものがあるんじゃないかと思って」
「私のために……?」
相談に乗ってもらえればと思っていただけなのに、まさかここまでしてもらえるとは思わなかった。
「ありがとうございます。でも、こんなに用意していただいて……」
「いいのよ。せっかくだから、似合うものを一緒に選びましょう」
マリアンナがそう言うと、そばに控えていたカレンが、一着ずつ見やすいようにドレスを広げていった。
「わあ……綺麗」
ミアはさっそくドレスのそばに寄った。
色も形も少しずつ違い、どれもきれいに手入れされている。
「これなんかいいんじゃない?」
ミアが真っ先に選んだのは、淡い紫色のドレスだった。
「ルナの瞳にも合いそう」
「そうね。私もそれがいいと思うわ」
マリアンナも楽しそうに頷く。
「マリアンナ様まで……」
「せっかくなのだから、まずは着てみましょう」
「でも、私は王宮に着ていくものを一着選べれば……」
「着てみなければ、似合うかどうか分からないでしょう?」
「それはそうですけど……」
ルナが言葉に詰まっている間にも、カレンは紫色のドレスを手に取っていた。
「では、こちらからお召しになりますか?」
「カレンさんまで……」
「よくお似合いになると思いますよ」
穏やかに言われてしまい、ルナは諦めるように息を吐いた。
「……分かりました。じゃあ、着てみます」
「うん!」
なぜかミアが一番嬉しそうだ。
カレンに案内され、ルナは着替えることになった。
「ミアさん、こちらをお願いできますか?」
「はい!」
カレンがドレスを広げ、ミアも慣れた様子で手を貸す。
その様子を見て、カレンが少し意外そうにした。
「ミアさん、慣れていますね」
「前はルナの着替えを手伝ってましたから」
「そうでしたね。ミアさんはルナさんの侍女をされていたのでしたね」
「はい。こういうの、久しぶりです」
ミアはどこか懐かしそうに笑った。
「ルナ、腕上げて」
「はいはい」
言われるままに腕を上げながら、ルナも少しだけ昔を思い出す。
フィールズ家にいた頃は、ドレスを着ることなど珍しくなかった。けれど、家を出てからは動きやすい服ばかりで、一度も袖を通していない。
カレンに細かな部分を整えてもらい、最後にミアが裾を直す。
「できた」
「いかがですか? 苦しいところはありませんか?」
「大丈夫です」
「では、マリアンナ様に見ていただきましょう」
ルナは二人に連れられるようにして、マリアンナの待つ場所に戻った。
「あら」
ルナを見るなり、マリアンナの表情が明るくなる。
「やっぱり素敵ね」
「本当ですか?」
ルナも鏡の前に立って、自分の姿を見る。
淡い紫色は、思っていた以上に自分の瞳によく馴染んでいた。華やかではあるものの、派手すぎるほどではない。
「うん。似合ってるよ」
ミアも満足そうに頷く。
「やっぱり紫にしてよかった」
「ミアが着るわけじゃないんだけど」
「でも、選んだのは私だもん」
嬉しそうなミアに、ルナは苦笑した。
久しぶりに着たドレスは、少し落ち着かない。
けれど鏡の前に立っていると、不思議と昔の感覚が戻ってくる。
王宮へ行くのなら、こうした所作も必要になるかもしれない。ルナは背筋を伸ばし、何となく確かめるようにドレスの裾を軽くつまんだ。
「……こうだったかな」
片足を後ろへ引き、静かに腰を落とす。
考えるより先に、体が動いた。
久しぶりだったにもかかわらず、幼い頃から何度も繰り返してきた所作は、まだしっかりと体に残っている。
ゆっくりと姿勢を戻すと、マリアンナが感心したようにルナを見ていた。
「とても綺麗ね」
「ありがとうございます」
「久しぶりとは思えないわ。きちんと身についているのね」
「ずっと練習していましたから」
ルナは少し照れながら笑う。
「やっぱり……」
隣から聞こえたミアの声に、ルナが振り返った。
ミアはどこか懐かしそうにルナを見つめていた。
「よくお似合いです、ルナ様」
「……ミア?」
「あっ」
呼び方に気づいたのか、ミアが目を丸くする。
「ごめん。久しぶりにドレス姿を見たら、つい……」
「ううん」
ルナは首を横に振った。
「なんだか懐かしいね」
「……うん」
ミアも笑った。
家を出てから、二人の関係は大きく変わった。
今では主人と侍女ではなく、一緒に暮らす仲間だ。
それでも、こうして昔を思い出すことを嫌だとは思わなかった。
そんな二人を見ていたマリアンナが、楽しそうに口を開く。
「紫も素敵だけれど、せっかくだから他のものも着てみましょうか」
「え?」
「そうですね」
すぐさまカレンも別のドレスへ目を向けた。
「こちらの水色も、ルナさんによくお似合いになると思います」
「あ、それ私も思った!」
ミアまで水色のドレスを手に取る。
「ちょっと待って。まだ着るの?」
「もちろん」
「せっかくだもの」
ミアとマリアンナがほとんど同時に答えた。
その横では、カレンがすでに次のドレスを準備し始めている。
「……一着決めればいいだけなんだけど」
どうやら誰にも止めてもらえそうにない。
ルナは小さく息を吐きながらも、どこか楽しそうな三人を見て笑った。
その後、水色のドレスにも袖を通した。
紫とは違って明るく軽やかな印象で、ミアたちからは好評だったが、王宮へ着ていくことを考えると、ルナにはもう少し落ち着いたものの方がしっくりきた。
用意されたドレスに目を向ける。
その中で、一着のドレスが目に留まった。
「次は、あれを着てみてもいいですか?」
ルナが指したのは、深いネイビーのドレスだった。
「もちろんよ」
再びカレンとミアに手伝ってもらい、ネイビーのドレスに袖を通す。
着替えを終えて鏡の前に立ったルナは、先ほどまでより少し長く自分の姿を眺めた。
派手な装飾はなく、色合いも落ち着いている。
それでも地味すぎることはなく、王宮へ着ていくにも十分きちんとして見えた。
「……うん」
ルナは小さく頷く。
「私、これがいいかも」
「やっぱり?」
ミアが笑った。
「ルナはこういう落ち着いた色を選ぶと思った」
「私もこれが一番落ち着く」
「よく似合っているわ」
マリアンナも賛成してくれた。
ルナはもう一度鏡を確認してから、マリアンナを見る。
「あの、マリアンナ様。このドレスを王宮に行く日にお借りしてもいいですか?」
「もちろん。でも、貸すのではなく、そのまま持っていってちょうだい」
「え?」
思わぬ言葉に、ルナは目を瞬いた。
「いただいてもいいということですか?」
「ええ」
「そんな、それは駄目です。今日こうして用意していただいただけでも十分なのに……」
「気にしなくていいのよ。結婚してから着る機会もなくて、ずっと実家に置いたままだったものだから」
「でも……」
これだけ上質なドレスだ。
着なくなったものだからと言われても、簡単にもらうわけにはいかない。
「これからも何かの機会に必要になるかもしれないでしょう? 一着くらい持っていた方がいいわ」
「それは……そうかもしれませんけど」
今回のようなことが、今後絶対にないとは言い切れない。
それでもルナが迷っていると、マリアンナが少し考えてから笑った。
「それなら、今度私のお願いを聞いてもらおうかしら」
「お願い?」
「ええ。私、ルナさんの作る料理に興味があるの」
「私の料理に?」
「マシューからもいろいろ聞いているわ。以前ミアさんからいただいたムギボも美味しかったし」
そう言われ、ルナはミアを見る。
ミアは否定することなく微笑んでいた。
「だから、そのうち料理のことでお願いをするかもしれないわ。そのときは聞いてもらえる?」
「もちろんです。私にできることなら」
「では、それでいいでしょう?」
「でも、それとドレスは……」
「ルナさん」
マリアンナが笑顔のまま名前を呼ぶ。
どうやら、これ以上断っても受け取ってくれそうにない。
ルナは少し迷った末、もう一度自分が着ているドレスを見る。これからも使える一着があるのは、確かにありがたい。
「……分かりました。ありがとうございます。大切にします」
「ええ。そうしてちょうだい」
「よかったね、ルナ」
「うん」
嬉しそうなミアに、ルナも笑い返した。
◇◇◇
そこまで思い出したところで、ルナは手にしていたドレスに視線を戻した。
「大切にしないとね」
ルナはもう一度ドレスを眺めてから、丁寧にしまった。
これから着る機会がどれくらいあるのかは分からない。
それでも一着持っていれば、今回のように慌てることもないだろう。
何より、今日無事に王宮へ行けたのは、このドレスのおかげでもある。
(今度、改めてお礼を言わないと)
そう思いながら、ルナは扉をそっと閉じた。




