6 綺麗なアル中
二十五年ぶりに、断酒会に参加した。
区民センターの三階会議室のドアを押し開けた瞬間、冷えた空気が頰に張りついた。
フローリングの床は長年の使用で傷だらけになり、ところどころ黒ずんだ染みが広がっている。黄ばんだ蛍光灯が、天井の埃や壁の古い傷を冷たく照らしていた。
部屋の中央にパイプ椅子が不規則に輪になって並び、壁際の長テーブルにはペットボトルの緑茶と紙コップが乱雑に置かれている。空調の低い唸りが、部屋全体に響いていた。
十人近い男たちが、それぞれ距離を取って座っていた。
誰もが自分の体を少し縮こまらせ、視線を床や自分の膝に落としている。
時折、誰かが小さく咳払いをする。椅子の脚が床を擦る音がする。
煙草の残り香と、安いコーヒーの匂いが混じっていた。
俺は一番端の椅子に腰を下ろした。
膝の上で指を組み、ゆっくり息を吐く。掌がわずかに湿っている。
順番が回ってきた。
俺はなるべく淡々と、短く話した。
美咲とコーイチとの関係、酒をやめられない自分、還暦を過ぎて士業の資格がただの飾りになり、何でも屋として日々を繋いでいること、小説を書き始めたこと——
全部、表面だけを整えて、品良く並べた。
話し終わると、部屋に重い沈黙が落ちた。
やがて、瘦せて頰のこけた男が、膝の上で指を組んだまま静かに口を開いた。
「……俺も入院したとき、看護師に言われたよ。
『あなたはレベルとプライドを混同してる』って。
レベルはいくら落としてもいいんですよ。社長だろうが無職だろうが、掃除のおばちゃんと同じレベルまで落ちたって、それはただの立ち位置に過ぎない。でもプライドは違う。
プライドはみんな同じ高さにあるんだって、みんな、同じなんだって……その言葉が今でも胸に残ってる」
その言葉が、部屋の空気にじわじわと染み渡った。誰もが息を潜めて聞いている。
次に、がっしりした体つきの男が、重い口調で話し始めた。
「俺は酒をやめるために、冷蔵庫に南京錠をかけた。鍵は妻が持ってる。
でも妻が外出すると、俺は冷蔵庫の前で正座して帰りを待つんだ。
床に膝をついて、冷たいドアに額をくっつけて、じっと待ってる。
自分でも馬鹿らしいと思う。でもやめられない」
男の声は低く、途中で一度途切れた。
誰かが小さく息を吐く音がした。
さらに、部屋の隅に座っていた白髪の老人が、突然ガラガラした声で立ち上がった。
「お前らとは違うんだよ。
お前らは酒を飲んだら暴れたり女に絡んだりするんだろ?
俺は違う。
飲んでも何も言わねえ。ただ黙り込んで、じっと耐えてるだけだ。
お前らみたいな下品なのとは違う!
おれは……綺麗なアル中なんだ」
老人の拳が膝の上で小さく震えていた。
その後、もう一人の男がぽつりと語った。
「俺は酒を飲みたくなるたびに、家の近くの橋を渡って戻るんだ。
1日で十四往復した日がある。
欄干に俺の手汗の跡が残ってる気がする……」
会議室に、乾いた笑いがいくつか漏れたが、すぐに消えた。
俺は笑えなかった。
断酒会が終わって地下鉄に乗った後、吊革がわずかに揺れた。
その揺れに合わせて、老人の「綺麗なアル中」という声が胸の奥で反響した。
足元が少しだけ浮くような感覚があって、俺は思わず手すりを握り直した。
家に着くと、俺は円山の4LDKの広いリビングの電気をすべて落とした。
ソファに深く腰を下ろし、古いヘッドホンを耳に当てる。
ヘミシンクを始めたのは去年の七月だった。あの頃はまだ前のアパートにいた。
左右の耳にわずかにずれた周波数が流れ込み、脳の状態を意図的に変えていく。
フォーカス10——身体は眠り、意識は目覚めている。
フォーカス12で意識が広がり、フォーカス21を越えると、そこはもうこの世界とは違う領域になる。
一週間ほど前、初めてフォーカス27に到達した。
そこは、すべてが「大丈夫だ」と包まれるような、巨大で静かな感覚だった。
左手 の疼きが、少しだけ遠のいた気がした。
だがヘッドホンを外し、目を開けると、そこはまたこの高い家賃の4LDKの部屋だった。
地下鉄円山公園駅から本当に近いこのマンションは、日当たりも良く、部屋は広くて快適だ。
前のアパートを大家に「自分が入るから」と追い出されて、裁判の末に賠償金で入った物件だ。
家賃は前のところより明らかに高くなった。
最近は仕事の売上が落ちてきて、毎月引き落とされる家賃を見るたびに、胃のあたりが重くなる。
広いリビングにソファを置いてもまだ余裕がある。
サトシは自分の部屋が広くなったのを喜び、友達を呼んで騒いでいる。
妻も「ここは住みやすいよね」と言う。
表向きは、いいところに引っ越せた——そう思わなければいけない。
俺はソファに深く沈み込み、天井の染みを見つめた。
部屋が広いほど、自分の影だけが長く伸びていく気がした。
フォーカス27で感じた感覚と、現実の口座残高の間で、静かに引き裂かれている。
昨夜もフォーカス27の入り口まで行った。
そこに何か大きなものがいて、俺をじっと見ている気がした。
目を開けた瞬間、左の手のひらの古傷がじんわりと熱を持った。
広い部屋は静かで、冷蔵庫の低い唸りだけが響いていた。
本当は、酒をやめたいのかどうか、自分でもわからない。
やめた後の自分が怖いだけなのかもしれない。
この快適な4LDKの中で、
俺はまだ、終われずにいる。




