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5 片山キッチンにて

事務所に戻ってからも、左手の疼きは完全に引いていなかった。

 熱が骨の髄まで染み込み、指先が小刻みに震える。美咲が淹れてくれたコーヒーの湯気が、指の熱とゆっくり混じり合う。俺はカウンターの椅子に腰を下ろしたまま、左手だけを膝の上に置いていた。握ろうとしても力が入らず、ただ熱だけが脈打っている。市場で飛び散った赤いソースの匂いが、まだ指の間に薄く残っていた。あの赤は、血のように見えた。拭ったはずなのに、掌の奥にねばつく感触が残り、指を曲げると古い傷のあたりが引きつるような痛みが走り、胸の奥まで響いた。息を吸うたびに、その熱が全身に広がっていくような気がした。

「本当に、大丈夫?」

 美咲が隣に座り、俺の左手に視線を落としたまま静かに聞いた。

 その声は優しいが、底に探るような響きがあった。俺はただ頷いた。言葉を出すのがひどく億劫だった。

「じゃあ、行こうか。片山のところ。気分転換になると思うよ」

 彼女は俺の左手をもう一度、そっと握った。冷たい指が熱を持った皮膚に沈み込む感触が、妙に胸の奥に染みた。俺は黙って立ち上がり、美咲の後をついていった。足取りが重く、市場での出来事がまだ身体に残っている。歩くたびに左手の熱が波のように広がり、膝が少し震える。外の風がシャツの赤い染みを冷やし、肌に張りつく感触が不快だった。

 車は市場から数分、円山の路地に入った。

 片山キッチンは、古びた小さな店だった。木造の外壁は雨風で黒ずみ、看板の文字は半分剥げ落ち、路地の奥にひっそりと佇んでいる。のれんをくぐった瞬間、油と醤油とタバコの混じった濃厚な匂いが、俺の体を深く包み込んだ。店内の空気は油と汗と古い木の匂いが淀んでいて、息をするたびに肺の奥にねばつく。カウンターの端は長年の油で黒光りし、俺の肘が触れると少しべたつく。換気扇の低い唸りが、店全体を低く震わせ、時折鉄板のジュウジュウという音が遠くから響いてくる。照明の光が油煙で黄ばみ、店全体が古い写真のようにくすんでいる。

「よぉ、松尾! 美咲ちゃんも久しぶりじゃねえか!」

 カウンターの奥からコーイチが出てきた。

 ビール腹をエプロンの下に押し込み、ハゲ上がった頭をてかてかと光らせ、いつもの大声で笑う。

 彼はホテルの皿洗いの仕事帰りらしく、白い作業着の袖をまくり上げ、汗と油の匂いをまとっていた。額に汗が浮き、腹の肉が作業着の下で重そうに揺れる。

「今日は松尾の顔色悪いぞ。酒でも飲むか? それともいつもの烏龍茶か?」

 美咲が「烏龍茶でお願いします」と答える。

 俺はカウンターの端に座り、左手だけを膝に隠すようにした。疼きはまだ引かず、時折熱い波が指先まで這い上がってくる。

 コーイチはジョッキを片手に近所の話を始めたが、二杯空けた頃、急に目が据わってきた。

 彼は俺を真正面から見据え、腹をドンと叩いて恍惚とした笑みを浮かべた。

「なぁ、松尾。お前、俺のことどう思うよ?」

 俺が答えられないでいると、コーイチはニヤニヤと笑いながら、声を低くして語り始めた。目が潤み、身体全体で熱を帯びていく。

「俺はよ……レズなんだよ。本物の女が好きな、女装親父が……レズなんだよ!」

 店内の空気が一瞬で凍りついた。

 コーイチは全く気にする様子もなく、腹の肉を両手で掴むように撫でながら、恍惚とした表情で続ける。その指先は、自分の欲望を確かめるようだった。

「もともと柔道部に行った体育会系の男だったけど、今は太っちゃって腹が出て、ハゲてる。

 でもそれが逆にいいんだ。」

 彼はそこで一度息を吸い、カウンターに肘をついた。木の表面がべたつき、コーイチの肘が軽く音を立てる。換気扇の唸りが、さっきより少し大きく聞こえた。

「俺の理想は、女装した汚い年上のじじいにぐちゃぐちゃにされたい。

 男が好きなんだよ。わかるか?

 同じ女として、女装した本物の女、汚いじじいに、おかされたいんだよ。」

 コーイチは腹をゆっくり撫で、目を細めた。息が荒くなり、額の汗が一筋、頰を伝う。誰も箸を動かさず、氷だけがグラスの中で小さく鳴った。

「還暦過ぎて老いてきたこの身体が、逆に武器になるとわかるんだな。

 自分よりよっぽど汚え、臭え、シワだらけのじじいに、スカートをめくられて、化粧が崩れるまで、容赦なく犯される……それが欲しくてしょうがねえんだ!」

 彼はそこで少し間を置き、ジョッキの縁を指でなぞった。その指先は震えていた。左手の熱が、カウンターの木目にじわりと移っていく気がした。

「夢の中では、60過ぎた俺が新妻なんだよね。新妻、わかる?

 安アパートに住んでいて、たまにやってくる公務員大家さんが『家賃払えないのかい?』って言って、非常にね……その新妻である俺にちょっかいかけてくる。

 『家賃払わないと、わかってるよねー』みたいなさ。」

 コーイチの声が熱を帯び、店内の空気を震わせる。

 彼は腹をドンと叩き、恍惚と目を細めた。

「俺はほつれたような安いブラウスとか、ヨレヨレのワンピースを着てさ、生活感丸出しの自分がたまらなく色っぽいと思うんだよ。

 大家さんに押し倒されて、汚い手で胸を揉まれて、化粧が崩れるまで犯される……それが俺の理想だ。

 若い頃は綺麗に女装して若い男に相手してもらおうとした。でも年を取るにつれてわかった。

 俺は若いだけじゃ満足できねえ。自分より年上で、汚くて、臭くて、だらしのないじじいに、徹底的にめちゃくちゃにされたい。

 ホテルで皿洗いやって、汗と油と汚れまみれの体で帰ってきても、夜は女装してその妄想に浸る。

 それが俺の生きがいだ。

 俺はホモでもゲイでもなく、レズなんだよ!」

 コーイチの声は大きく、堂々と店内に響き渡った。

 恍惚とした表情で腹を叩き、まるで自分の欲望を愛おしむように語り続ける。

 常連の一人がグラスを置く音がした。誰も笑わなかった。

 俺の左手が、再び強く疼き始めた。

 疼きは、言葉より先に胸の奥を叩いた。

 コーイチの熱い告白が、俺の言えないものを抉るように響く。市場で赤いソースをぶちまけたときと同じ感覚だった。

 美咲が、テーブル下で俺の左手を静かに握った。

 冷たい指の感触が、熱い疼きを少しだけ和らげてくれる。

 しかし、それが逆に俺の胸を締め付けた。

 美咲はグラスの縁を指で何度もなぞり、親指の爪が白くなるほど力を込めていた。

 彼女は視線を少し落とし、喉を小さく動かしてから、ぽつりと言った。

「……コーイチさんって、すごいね。自分のことが、ちゃんと好きなんだね」

 コーイチが目を丸くする。

「ん? まあ、進化している自分が好きなんだよ。昔の体育会系の俺も、今のこの汚えレズ親父も、全部俺だもんな」

 美咲は薄く笑ったが、その笑いはどこか遠かった。

 彼女はグラスを軽く回し、指先で水滴を拭うようにしながら続けた。

「私は……逆なんだよね。

 いつも『これでいいのかな』って、自分を監視してる。」

 美咲の指が止まり、グラスの中で烏龍茶が小さく揺れた。

「朝起きて、仕事に行って、普通に笑って、普通に挨拶して……」

 彼女はそこで息を一つ吐き、視線をカウンターの木目に落とした。

「でもね、その全部を、どこかで冷めて見てる自分がいるの。

 『この普通って、本当に意味あるの?』って。」

 美咲はそこで言葉を切り、喉を小さく上下させた。

「誰かと一緒にいても、相手の喜びとか日常の話が、なんだか遠くて……浅くて。

 もっと深く繋がりたいのに、近づけば近づくほど『この人とは本当のところ、わかり合えない』って思っちゃう。

 愛されたいって、すごく思うのに、愛されるのが怖い。

 私が本当の私を見せたら、きっと嫌われるって……ずっと、そう思ってる。」

 店内が静かになった。

 コーイチは珍しく真剣な顔で美咲を見た。

「美咲ちゃん……お前、俺と全然違うな。おれは単純なんだよ。進化している自分が好きなんだ。

 汚えじじいに犯されたいって欲望も、全部受け入れて『これが俺だ』って生きてる。

 お前は……なんか、ずっと自分を責めてるみたいだな」

 美咲は小さく首を振った。

 彼女はグラスを置くと、指先を軽く握りしめた。

「責めてるっていうより……どこにも居場所がない感じ。

 家族の中でも、普通の女の子として生きる道でも、自由に生きる道でも、全部半端で。

 頑張って『いい子』になろうとすると、醒めた自分が『そんなの偽物だ』って冷笑する。

 本当に、ずっと……この胸の中で、二人が喧嘩してるみたい。」

 俺は何も言えなかった。

 言葉を出すと、何かが崩れそうだった。

 左手の疼きが、胸の中心まで這い上がってくる。息が浅くなり、店内の音が遠く聞こえる。

 ただ左手だけが、静かに、激しく、疼き続けていた。

 コーイチはジョッキを置き、満足そうに腹を揺らして笑った。

「ま、いいさ。急がねえよ。

 いつか吐きたくなったら、いつでも来い。

 俺はここで、ずっとこのレズ親父をやってるからな」

 美咲が小さく息を吐いた。

 俺は左手だけを握りしめ、カウンターの木目に視線を落とした。

 その三十

 還暦を超えたレズ親父の、恍惚とした叫びと、美咲の静かな告白を聞きながら、左手の疼きはまだ続いている。

 イチョウの落ち葉のように、俺の言葉は、路面に散ったままだった。


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