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4 左手の疼き


 市場の屋根の下は、午後三時を過ぎても蒸し暑さが残っていた。

 鉄骨むき出しの天井から垂れた蛍光灯が、油の煙で黄ばんでいる。地面のコンクリートは長年の油と水で黒く光り、足音が湿った音を立てる。常連のおばさんたちの声が、低く反響していた。

 俺はいつもの惣菜屋のカウンターに立った。

 指でコロッケを一本指し示す。声は息だけだった。

「いつもの……一個」

 オヤジの分厚い指が揚げたてを摘む。その隣、鶏の唐揚げの山。赤いソースがとろりと光っている。

 その赤を見た瞬間、左手の古傷が、ゆっくりと熱を持ち始めた。

 最初はただの疼きだった。

 油の跳ねる音が耳の奥に染み込むと、視界の端がわずかに歪んだ。

 何かがある。

 十歳の夏の記憶の欠片が、じわじわと浮かびかける。祖父の家、薄暗い廊下、開け放たれた障子。誰かの息を殺した足音、急に閉められた襖の音……そこまでははっきりする。

 だが、その先がいつも、すっぽりと抜け落ちている。

 そして、誰かの柔らかい、しかし冷たい感触のようなものが、記憶の底に沈んだままだった。

 ……違う。今は市場だ。

 油の煙が鼻の奥を焼く。地面の湿った臭いが靴底から這い上がる。左手の傷が、骨の髄まで脈打つ。指が勝手に開き、閉じ、また開く。俺は左手をかばうように腹に当てたが、疼きは腕全体に広がり、指先が小刻みに震え始めた。抑えようとするほど、力が入らなくなる。

 オヤジがソースのボトルを手に取った瞬間、疼きが鋭い波になって襲ってきた。

 体が無意識に引く。左手が避けるようにわずかに跳ね、指先がボトルを掠めた。赤い液体がカウンターに静かに飛び散り、俺のシャツの胸に血のような染みを作った。

「おい、松尾さん……大丈夫か?」

 オヤジの声が低く響く。近くにいたおばさんが二人、顔を寄せ合って小さくざわめいた。俺は左手を腹に押し当て、その場を離れた。市場の通路を、ゆっくりと、しかし確実に逃げるように歩く。人の肩が時折ぶつかり、プラスチック袋の音が耳にまとわりつく。視界が狭くなり、息が浅くなる。

 市場の裏手、自動販売機が並ぶ狭い路地裏に辿り着き、冷たい壁に背中を預けてしゃがみ込んだ。

 コンクリートの壁は湿気でじっとりと冷たく、地面には昨日の雨がまだ薄く残っている。自動販売機の低いモーター音だけが、長く耳の奥で唸っていた。

 左手を地面に押しつける。冷たさが熱を吸い取ってくれる。でも、胸の奥はまだざわついたままだった。

 足音が近づいてきた。肉屋の綺麗なおかみさんだった。白いエプロンのまま、俺のシャツの赤い染みを見て、目を細めた。

「……松尾さん、それ、血じゃないの?」

 彼女は近くの店舗から冷えたペットボトルの水を持って戻ってきた。無言で俺の手に押しつける。

「飲んで。顔色が悪いわよ」

 俺は震える右手でボトルを受け取り、喉を鳴らして水を飲んだ。冷たい水が食道を滑り落ちる感触が、妙に鮮明だった。

「……ありがとう。ただのソースです」

 おかみさんは俺の左手を見て、静かに言った。

「左手……前から時々、気になってたの。痛むの?」

 俺は首を横に振るしかなかった。

 おかみさんは心配そうに肩を軽く叩き、「無理しないでね」と残して、肉屋の方へ戻っていった。

 一人になった路地裏で、再び左手を地面に押しつける。

 十五年前の夜の感触が、ぼんやりと蘇る。元嫁と別れた後の公園のベンチ。左手だけが疼いて、朝まで動けなかった。

 今の妻とサトシがいる今も、疼きは消えない。

 美咲と出会った夜も、喉まで出かかった言葉が、なぜか詰まったままだった。

 左手の傷を、ゆっくりと撫でる。

 十歳の夏の、あの欠けた欠片。薄暗い廊下。閉まる襖の音。息を殺した足音。そして、あの柔らかく冷たい感触……。

 思い出せないこと自体が、俺をここに留めているような気がした。

 スマホが震えた。美咲からだった。

『松尾さん? 市場の人から連絡きたんだけど……今どこ?』

 俺は息を整えて、平坦に答えた。

「……市場の裏。ちょっと、座ってる」

『すぐ行く。動かないで』

 電話を切った後も、俺はまだ七、八分その場にいた。

 路地裏の空が橙色に染まり、遠くの車の音が低く響く。左手の熱が、ようやく少しずつ引いていく。

 十分後、美咲の軽自動車が路地の入り口に止まった。

 彼女は降りてきて、俺の左手をそっと掴んだ。冷たい指が、熱の残った皮膚に沈み込む。

「……また、来たの?」

 静かな声。責めているわけじゃない。ただ、知っている、と言っている目。

 俺は頷くことしかできなかった。

 事務所へ向かう車の中で、美咲はハンドルを握りながら、時々俺の左手を見た。

 窓の外に夕方の住宅街がゆっくり流れていく。道沿いのイチョウが黄色く色づき、落ち葉が路面に薄く敷かれていた。

 そのイチョウの並木は、十五年前、元嫁と別れた夜に何度も歩いた道と同じだった。あの頃も葉がこんな風に散って、足元を黄色く染めていた。

 今はサトシがいる家族の街並みなのに、左手の疼きは変わらない。美咲の横顔が、街灯の橙色の光に照らされて、静かに揺れる。

 この街路樹の下を、俺は何年、ただ歩き続けてきたのだろう。

 信号で止まったとき、彼女は小さく息を吐いた。

「今日は……片山のところ、寄ってみない? 気分転換に」

 俺は左手をポケットに押し込み、窓の外をぼんやり眺めていた。

 街灯が一つずつ灯り始めると、美咲がもう一度、声を落として言った。

「松尾さん……今日は、絶対に一人にしないから。いい?」

 俺は答えず、ただ小さく息を吐いた。

 イチョウの葉が、フロントガラスの向こうで風に舞っていた。

「……ああ、わかった」



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