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3 この世の性質


カフェの窓ガラスに、札幌の五月の空が淡く映っていた。

 まだ蕾の固い桜並木が、風にわずかに揺れる。美咲はストローをくわえたまま、最後のオレンジジュースを音を立てて吸い上げた。氷が溶けた薄い液体が、グラスの底で小さく渦を巻く。

 「自分で立って、超えろって……あんた、子どもたちに言ってたことと同じじゃん」

 彼女の声は穏やかだったが、目には十年来の疲れと、それでも消えない優しさが混じっていた。俺は答えずに、窓の外に視線を逸らした。言葉を返せば、また同じ場所をぐるぐると回り始める気がしたからだ。

 美咲が立ち上がり、バッグを肩に掛ける。

 「じゃあ、またね。次はちゃんと飲もうよ」

 彼女の後ろ姿がドアの向こうに消えるまで、俺は動かなかった。店内に一人残され、冷めた空気が肩にまとわりつく。スマホの画面には、まだ先ほどの投稿が残っていた。

 《銀河連合。止まらない計画。》

 俺は左の手のひらをテーブルの下でそっと開いた。古い傷跡が、じんわりと熱を持っている。まるで昔の記憶が、皮膚の下でまだ生きているかのように。

 家に帰ると、妻が台所で鼻歌を歌っていた。

 「今日はカツオみたいに元気いっぱいだったのよ! ほら、この大根、びゅんって太いでしょ!」

 エプロンの紐を勢いよく結び、彼女はくるりと跳ねるように振り返る。大きな目が笑い、足が軽やかに床を蹴る。スーパーの袋を振り回しながら俺の顔を覗き込む。家の中が、彼女の動きだけで一瞬にして明るく回り始める。

 俺は玄関の靴を脱ぎながら、ただ小さく頷いた。

 笑う前に、息を止める。

 胸の奥が、いつものように固く締めつけられる。昔からこうだ。誰かの声が少しでも高くなると、体を縮めて存在を薄くする。欲を言えば怒られる。欲を出せば嫌われる。部屋の隅で息を殺し、親の機嫌が直るまで、自分を空気のように消してしまう。それが、俺が幼い頃から身につけてしまった生き方だった。

 妻は俺のその沈黙を、いつもの疲れだと受け止める。

 「ねえ、今日も美咲ちゃんに会ったんでしょ? 帰りに何か美味しいもの買ってきてよ!」

 彼女は冷蔵庫の扉を勢いよく開け、野菜を次々と放り込んでいく。

 そのとき、妻がスーパーの袋から取り出したのは、鮭の切り身だった。

 鮮やかなオレンジ色の身が、包装トレイの上で濡れて光っている。脂がのった厚みのある切り身は、台所の照明の下でぬらぬらと輝いていた。

 その瞬間、左の手のひらが熱くなった。

 ――鮭の赤橙色の身。血の色。羽ばたき。断末魔の声。

 96歳になる父の、自転車を漕ぐ姿が脳裏に重なった。

 錆びたチェーンがぎしぎしと鳴る音を聞いた途端、遠い記憶が一気に蘇った。

 まだ幼児の頃、俺は父の自転車の荷台に乗せられて、石狩の僻地の小学校近くの農家へ連れていかれた。

 道は砂利混じりの未舗装路で、自転車はガタガタと激しく揺れた。父の広い背中が、俺の小さな体を守る壁のように見えた。

 父が農家のおじさんと話をしている間、俺はその場にぽつんと立っていた。

 土の匂いと、鶏小屋の独特の臭いが鼻を突く。すると目の前で、農家のおじさんが鶏を一羽捕まえ、慣れた手つきで木の台に首を乗せ、ギロチンで落とした。

 血が勢いよく噴き出し、首のない鶏の体が地面の上で激しく羽ばたきながら飛び跳ねる。

 血の飛沫が俺の足元近くまで飛び、温かい感触が残った。

 農家のおじさんは鍋に鶏肉を入れながら、にこにこ笑って俺を見た。

 「ほら、食え食え。うまいぞ。今日は新鮮だ」

 その笑顔が、幼い俺の目に焼き付いて離れなかった。

 白い歯が目立ち、目尻に深い皺が寄っていた。鍋から立ち上る湯気と鶏肉の匂いが、胃の奥を締めつける。俺は箸を持つこともできず、ただ体を小刻みに震わせていた。父は何も言わず、俺を再び自転車の荷台に乗せ、静かに家までの道を漕いで帰った。

 あのときの血の色と、農家のおじさんの笑顔、そして「食え」という言葉が、今も俺の左の手のひらに疼きとなって残っている。

 俺は台所で立ち尽くしたまま、左の手のひらを強く握りしめた。

 妻が鮭の切り身を冷蔵庫に入れる音が、遠くに聞こえる。オレンジ色の身が、冷蔵庫の白い光に照らされて、まるで生きているように見えた。

 この世には、底知れない『性質』がある。

 目に見えない何か、理解しようとすればするほど逃げていく、得体の知れない性質。

 鶏の断末魔、農家のおじさんの屈託ない笑顔、96歳の父が自転車を漕ぐ頑固な姿、そして俺の左の手のひらに宿る疼き——すべてが、その『性質』の一部のように感じられる。

 昔、断酒会で知り合った男が教えてくれたヘミシンクの音源を、俺は何度も聞いたことがある。

 両耳に異なる周波数の音を流し、脳を同期させるという技術だ。

 深いリラックス状態に入り、意識を広げようとする。

 UAPや銀河連合の投稿を見た夜にも、ヘッドホンを付けて何時間もそれを流した。

 だが、脳が同期した瞬間に感じるのは、恐怖だった。

 この世の底知れない『性質』が、音の向こう側からじっと俺を見つめているような、得体の知れない戦慄。

 ヘミシンクは俺を安心させてくれなかった。むしろ、その『性質』をより鮮明に浮かび上がらせるだけだった。

 俺は左の手のひらをもう一度撫でた。疼きは熱を増している。

 今、うちのサトシは近所の小学校の自立支援学級に通っている。

 妻はそれを「特別なクラス、楽しみだね!」と明るく言う。朝、サトシがランドセルを背負って玄関を出る時、妻は「いってらっしゃーい!」と大きく手を振って跳ねる。俺は玄関で小さく「気をつけろ」とだけ声をかけ、ドアが閉まるのを静かに見送るだけだ。

 サトシが、俺と同じように息を殺して生きていないといい。

 妻のカツオのような無邪気さが、サトシを優しく包んでくれているといい。

 俺はそう願うことしかできない。

 妻が後ろから明るい声をかけた。

 「行ってらっしゃい! 何か美味しいもの持って帰ってきてね!」

 その声に、俺は小さく手を振り返した。

 玄関のドアを閉めると、外の五月の風が冷たく頰を撫でた。桜の蕾はまだ固く、膨らみきっていない。俺の首も、まだたるんだまま重くのしかかっている。

 左の手のひらが、じんわりと熱を帯び続ける。

 手帳に書くべき「その二十八」は、今夜もまた、空白のままになるかもしれない。


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