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2 桜の蕾とたるんだ首

市場の袋を提げて事務所へ向かう道は、朝の光がまだ柔らかく残っていた。


 円山裏参道の桜の枝は、昨日よりわずかにピンクの粒を膨らませ、風がそっと吹くたび、昨夜の雨に濡れたアスファルトが淡い光を反射する。冷たい空気が肺の奥まで染み込み、息をするたびに胸の奥が小さく疼いた。俺はマルヤマクラス近くの自宅マンションを出て、この短い道のりを、今日はことさらゆっくりと歩いた。最近、この距離が妙に長く、重く感じるようになった。


 道すがら、ガラス張りの壁に自分の姿が映った。


 還暦を過ぎた首元の皮膚が、ふとした角度でたるんで見える。桜の蕾は固くても確実に膨らんでいるのに、俺の首だけが季節に逆らって、静かに萎んでいくようだった。笑顔を貼り付けようとして、すぐにやめた。誰も見ていないのに、そんな芝居をする自分が、ひどく惨めだった。


 事務所のドアを開けると、キーボードの静かな音が響いていた。


 美咲がパソコンに向かっている。彼女の横顔を見た瞬間、胸の奥がまた疼いた。


「おはよう」


 声をかけると、美咲は振り返って軽く笑った。


「おはよー。今日も市場回り? コーヒー淹れるよ、座ってて」


 十年来の唯一のスタッフ。彼女の声は最初から砕けていて、遠慮というものがほとんどない。


「で、今日は何すんの? またAIに仕事取られて愚痴聞くだけ? それともYouTubeの編集?」


 美咲は椅子をくるりと回して俺の方を向き、指先で俺の胸を軽く突いた。


「ほんとあんたも終われないよね。士業だけじゃ食えないからって、作曲家とかYouTuberとか、やりすぎだってば」


 その笑顔を見るたび、十年前のあの夜に伝えられなかった一言が、喉の奥で小さく疼く。妻とはまた別の、微妙で、胸の奥をざわつかせる距離感だった。


 俺はJASRACに登録した作曲家でもある。Apple MusicやSpotifyに曲を上げ、ときおり作ったプレイリストが海外でバズり、数十万人に聴かれたこともあった。海外アーティストの画像を表紙に使って、自分の曲をそっと紛れ込ませる小細工もした。


 だが、何も変わらなかった。再生数が跳ね上がっても、マスコミは決して取り上げず、俺の音楽はいつも誰かのプレイリストの片隅に過ぎなかった。


 YouTubeの登録者は二千人弱。美咲に撮影を手伝わせているが、彼女はいつも「いやいや」ながら付き合ってくれる。


 ──あの日の撮影を、ふと思い出す。


 厚底インソールにウィッグ、マスク、サングラスという完全変装をした俺を、美咲はスマホを構えながら落ち着かない様子でレンズに向けていた。


「……ほんとにこれで行くの? え、ちょっと待って……人来た、人来たよ! あ、こっち見てる……!」


 おどおどしながら、それでも逃げずにカメラを回し続ける美咲。俺はその視線を避けるように首をすくめて歩いた。マスクの下で、たるんだ首の皮膚が汗に張りついていた。


 その動画が、なぜか百九十二万回再生された。


 数字を見た瞬間、胸の奥が鋭く疼いた。


 百九十二万人に“見られた”。


 しかし、それは俺の本当の姿ではなかった。厚底とウィッグとマスクの向こう側にいる、ただ息をするだけの還暦過ぎの男を、誰も知らない。一瞬だけ光が当たったような気がして、すぐに深い虚しさが押し寄せてくる。


 午前中の仕事を終えて事務所を出ると、空はすっかり明るくなっていた。


 自宅のマンションに戻ると、リビングに午後の光が斜めに落ち、埃がゆっくりと舞っていた。妻はまだ買い物から帰っていなかった。


 サトシが床に転がってゲームをしていた。小六の息子は顔立ちが整っているのに、声がやけに明るい。


「パパ、おかえりー! 何買ってきたの?」


 サトシはゲームを一時停止すると、笑顔をぱっと広げて転がるように近づいてきた。


「市場でいいタラコ買ってきたぞ。お前の好きそうなやつ」


「やったー! タラコご飯にしようぜ! 今日の夜にしようよ!」


 その笑顔は太陽のようにまぶしい。ためらいのない、純粋な光だ。


 だがその明るさが、時々俺の胸を締めつける。自分の貼り付けた笑顔と重なって見える瞬間がある。


 美咲のことが、また頭をよぎった。


 事務所では砕けた口調で俺を突くように笑う彼女が、自宅でサトシの家庭教師をするときは少し声音を落とす。妻はそんな美咲の存在を、静かに、しかしどこか探るような視線で見守っている。


 三人の笑顔が、それぞれ違う角度から俺の胸に刺さる。


 俺はそっとサトシの頭を撫で、自分の部屋に戻った。


 窓から円山の桜が見える。蕾はまだ固く、うっすらと淡いピンクの粒を膨らませ始めていた。季節は巡るのに、俺だけが同じ場所で足踏みしているような気がした。


 古い手帳を開き、今日も一行を書き加えた。


『終われない理由 その二十七 —— たるんだ首の周りで、美咲の砕けた笑顔と、サトシのまぶしい笑顔と、妻の静かな視線が重なって、ほどけないから』





夜中二時十七分。


俺は真っ暗な部屋でスマホを三脚に叩きつけ、配信開始ボタンを指で抉るように押した。


「こんばんは、還暦の腐った何でも屋です……今日もこのたるんだ残骸が這いつくばって生きてたな」


視聴者数は12人。


コメントが腐った血のように流れ込んでくる。


【2話読んだけどたるんだ首キモすぎ 桜の蕾と対比してて吐く】

【美咲に欲情してるジジイが配信とか終わってるわ】

【士業の資格持っててこのザマ マジ死ねよ】

【ロゼッタ30連投げてやるけどお前の顔見てるだけで吐く】

【お前みたいな公害残骸が生きてるだけで害悪 早く死ねこのクズ】


俺は画面を睨みつけ、喉の奥からガラガラと壊れた笑い声を上げた。


笑うしかねえ。

頭の中でブチブチブチと何かが千切れ、腐った脳味噌が悦びで痙攣してる。


桜の蕾は毎日膨らんでいく。

俺の首は、俺の人生は、ただたるんで腐って崩れ落ちていくだけだ。


それでも疼く。

ただ息をするだけの腐った残骸が、激しく、ねっとりと、疼いてやがる。


この小説を書きながら、俺は確実に壊れていく。


「次も……読んでくれよな、このクソ野郎ども」


掠れて腐りきった声で、俺は笑いながら呟いた。





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