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1 ただ息をするだけの残骸

プロローグ


夜中二時二十三分。

天井の黄ばんだ染みが、俺の腐った脳味噌を嘲笑うように蠢いている。

スマホを三脚に固定し、配信ボタンを押した瞬間、指がガクガクと震えた。

「こんばんは、還暦の何でも屋です」

声が腐ってる。埃とタバコと死にかけの諦めの味がする。

士業の資格なんか、とっくに死体だ。

今は代筆、役所回り、浮気調査、動画編集、会社のコンサル、社員の送迎——

吐き気のする仕事を全部貪り食って、這いつくばって今日も生き延びてる。

視聴者数は六人。

コメントが飛び込んでくる。

【還暦ジジイが配信とかキモすぎワロタ】

【士業の資格持っててこのザマとかマジ死ねよ】

【ロゼッタ投げてやるけど正直見るに堪えねえ】

【お前みたいな残骸が生きてるだけで公害】

俺は画面を睨みつけ、喉の奥で笑った。

笑うしかねえ。

笑いながら頭の中で何かがブチブチと切れていく。

……これが俺だ。

還暦過ぎて、ただ息をするだけの腐った残骸。

夜中に一人でライブ配信してる、臭くて汚くて救いようのない人間の残骸。

それでもまだ疼く。

まだ疼くんだよ、この腐った体が。

そして今夜、俺は完全にイカれたことを始める。

小説を、書き始めた。

この先、俺が何を吐き出すのか——

腐った内臓、腐った過去、腐った妄想、腐った欲望、腐ったままの全部を、

血反吐みたいにぶちまける。

興味ある奴だけ、ついてこい。

嫌なら今すぐ閉じろ。

俺はもう止まらない。

ただ息をするだけの残骸が、最後に頭ん中ブチ壊して暴れようとしてるだけだ。



四月の円山裏参道は、朝の光を柔らかく含んでいた。北海道神宮の森を背に、南1条通の西20丁目から西27丁目にかけて続く細い道は、まだ朝霧が薄く残る中、桜の枝がうっすらと淡いピンクの粒を膨らませ始めていた。風がそっと吹くたび、木々の梢が微かにざわめき、昨夜の雨で濡れた路面が淡い光を反射していた。西の空には大倉山のジャンプ台がくっきりと浮かび、冷たく澄んだ空気が肺の奥まで染み込む。


 俺はマルヤマクラス近くのマンションを出て、事務所までの短い道をゆっくり歩いた。最近、この距離が妙に長く感じる。


 ミヒマル市場の古びたアーケードの下、惣菜屋のオヤジが油の染みたエプロン姿で立っていた。


「おっ、今日も朝からご苦労さん。いつものコロッケと唐揚げでいいかい?」


 熱々の紙袋を受け取りながら、オヤジは遠くを見るような目で続けた。


「松尾さんよ、外は熱々でカリッとしてるけど、中はまだ冷えてるんじゃないか?」


 俺は苦笑した。笑顔を浮かべるたび、胸の奥に小さな棘が刺さる。本来、俺は暗い人間だ。ひとりで静かに考えごとをしている方が性に合う。けれども、食べていくためには愛想を振りまき、人脈を絶やしてはならない。それでも朝の市場でこうして声をかけられる瞬間、俺はこの街にまだ繋がれていることを、奇妙に実感する。


 ローソンの前では常連のおばさんたちが集まっていた。


「松尾さん、今日も姿勢がいいわね」「若い子には相手にされないくせに、私たちには優しいのよね」


 俺はコーヒーのカップを受け取りながら軽く受け流した。この距離感が、俺にはちょうどいい。


 事務所のドアを開けると、キーボードの静かな音が響いていた。美咲がパソコンに向かっている。十年来、唯一のスタッフだ。彼女の横顔を見た瞬間、胸の奥が疼いた。


 十年前のあの夜、俺はあの人に、ただ一言だけ伝えられなかった。あの一言が、今も喉の奥に小石のように残り、すべてを止めたままにしている。


 Googleの時代はまだ士業の仕事も何とか成り立っていたが、AIの登場で書類作成の多くが奪われ、収入は確実に細っている。だから今は土建会社の見積もり相談、現場での汗、スタッフの送迎、浮気調査、ライバル企業の偵察まで、何でも請け負う。資格を持った何でも屋。還暦を過ぎて、こんな生き方になるとは思わなかった。


 先月、モンロー研究所のセミナーでは、還暦前後のおばさんたちに囲まれながらヘミシンクを体験した。身体がふわりと浮く感覚に慌てて目を開けた瞬間、周囲の小さく笑う声が聞こえた。


 夕方、コーイチから連絡があった。事務所の斜め向かいにある片山キッチンで待っているという。


 カウンターに並んで座ると、コーイチは水のグラスを傾けながら言った。


「下のサトシがまだ小6だからな。俺はまだまだ稼がないとならないんだよ」


「俺もよ、辞めどきなんて、とっくに見失っちまった」


 俺が返すと、彼は小さく笑った。


 テレビではトランプ元大統領がUAPの公開を発表するニュースが流れていた。


「空に何かがいるかもしれないのに、俺たちは地面にへばりついたまま、終われない理由を数えてる……それが、一番の未確認現象かもしれないな」


 子供が小さいから。


 妻もまだ若いから。


 上の息子はようやく就職したばかりだから——


 我ながら、実に陳腐で、実に情けない言い訳である。昔、アルコールに溺れていた頃の自分と、まるで同じ匂いがする。


 夜の裏参道を事務所に戻る道で、スマホが鳴った。父からだった。


「大生か。……這って歩いてるんだよ、今日は」


 いつもの言葉に俺は苦笑した。


「這ってるわりには元気そうだな。琴似のバーのマスターに聞いたぞ。綺麗どころのいるカラオケスナックに自転車で通ってるって本当か?」


 電話の向こうで父は照れくさそうに咳払いをした。


「歌うと気分がいいし、若い子に『おじいちゃん元気だね』って言われるのも悪くない」


「這って歩いてるって言ってる奴が、自転車で夜の街を走ってるなんて……よくいけるな」


 俺が嫌味を言うと、父は平然と返した。


「自転車の方が這ってる感じがしないんだよ。お前こそ、笑顔貼り付けて毎日往復してるくせに、人のこと笑う暇があるなら自分の人生を考えろ」


 電話が切れた後も、俺はしばらくスマホを握りしめていた。


 夜風が指先に触れた瞬間、胸の奥で十年前のあの声が蘇った。


 伝えられなかった一言が、今も俺を地面に縫い止めている。


 96歳の父は自転車で夜を切り裂き、琴似の街をうろうろしている。


 這って歩いていると言いながら、なお生き急ぐ父と、


 笑顔を貼りつけたまま、ただ往復するだけの俺。


 どちらが、本当により遠くへ行っているのか。


 答えなど、最初から出ていない。


 古くからの友人たちは、次々とこの世を去っていく。


 同じ頃に事務所を構えていた同期は、管だらけのベッドから恨めしげに俺を睨み返したという。


 ——お前が言うなよ。


 俺はまだ、終われない。


 終われない理由を数え続けることだけが、俺の生きる理由になっているのかもしれない。


 桜の蕾は、固いままだった。



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