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ep.10 君をこの世界へ(後編)

 彼女が消えた海を、僕はひとりで見つめていた。

 空は晴れ渡り、春の風が頬をなでていく。

 彼女の気配が、そこに残っているような気がして、僕は動けなかった。


 “ありがとう。私を、世界にしてくれて”


 その言葉だけが、今も胸の奥で鳴っている。


 僕の空想だった少女、菰野エリ。

 彼女は、もう僕の想像の中にはいない。

 でも、だからこそ、あのときの涙は誇らしかった。

 僕が創った存在が、自分で考え、選び、そして僕から離れ、自分だけの道を歩こうとした。


 それは、創造主としての僕にとって——最大の祝福だった。



 四月になった。

 大学の入学式を終え、僕は見慣れないキャンパスに立っていた。


 人混みのなかに、自分の居場所を探すように目を走らせる。

 スーツ姿の新入生たちが交わす会話、未来に対する漠然とした不安と期待の入り混じる空気。

 僕もまた、その一人になった。


「安曇くん?」


 振り返ると、そこにいたのは見知らぬ女子学生だった。


「えっと……同じクラスの、城田です。さっきオリエンテーションで、席近かったよね?」


「……あ、うん。覚えてる。よろしく」


「うん。ここのキャンパス、めっちゃ広いよね……一人だと迷いそう」


 そう言って彼女は笑った。

 その自然なやりとりに、僕の心が少しだけほぐれていく。


 僕はもう、“ひとり”じゃないのかもしれない。



 大学生活は、目まぐるしかった。

 新しい講義、課題、サークルの勧誘。毎日が慣れないことの連続だったけれど、退屈はしなかった。


 ふと気づくと、僕の生活のなかで、エリのことを思い出す時間は少しずつ減っていた。

 それは忘れたのではなく、きっと“胸の奥にしまった”からだと思う。


 時々、駅のホームや夕暮れの影の中に、彼女の姿を探す自分がいる。

 だけど、もう彼女は現れない。

 それでも——寂しさよりも、不思議な安心感がある。


 きっと、彼女は今もどこかで生きてる。

 僕が見えなくなっただけで、ちゃんとこの世界に存在している。


 空想は終わった。でも、記憶と希望は、終わっていない。



 季節はめぐり、夏が来た。

 僕は大学で教育実習の準備に追われながらも、あるノートを開くことが増えていた。


 それは、高校時代に書いていた“空想ノート”。

 端のページには、最初に描いたエリの横顔が、シャーペンで雑に落書きされている。


 ——はじめて彼女を描いた日。


 あのときは、まさか彼女と“出会う”なんて思ってもいなかった。

 だけど今では、それが僕の人生を変えた“奇跡の始まり”だったと、はっきり言える。


 ページをめくると、そこにはこんな言葉が書いてあった。


 > 「空想は、現実になることを願っている。」


 当時の僕が書いたものか、それともエリが最後に書いたものか、もうわからない。

 だけど——それは確かに真実だった。



 八月のある日。

 僕はふと、海へ向かった。


 あの日、エリを見送った海。

 もう一度だけ、彼女に“報告”をしたかった。


 電車を乗り継ぎ、あの砂浜に着いた頃には、空はオレンジに染まっていた。

 潮風が心地よく、波の音が静かに耳に届く。


「久しぶり、エリ」


 誰もいない海辺。

 それでも、確かにそこにいるような気がして、僕は語りかける。


「大学に入ったよ。友達もできたし、毎日忙しいけど、それなりにやってる。……少しずつ、自分のことも好きになれそう」


 立ち止まり、波打ち際を見つめる。

 海はあのときと変わらず、静かだった。


「ねえ、エリ。君は今、どこにいるの?」


 答えは、もちろん返ってこない。

 だけど、その代わりに——風が吹いた。

 あの日と同じ、春の匂いが混じる風。


 その瞬間、胸の奥に、小さな“声”が届いた気がした。


 「陽人くん、ありがとう」


 僕は思わず、空に向かって笑った。


「……こちらこそ、ありがとう」


 あの空想の季節は、確かに終わった。

 でもその物語は、僕の中で、生き続けている。


 そしていつか——


 世界のどこかで、また君に会えたら。


 僕はもう、躊躇せずに言える気がする。


 **「久しぶり。今度は現実で会えたね」**って。


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