ep.10 君をこの世界へ(後編)
彼女が消えた海を、僕はひとりで見つめていた。
空は晴れ渡り、春の風が頬をなでていく。
彼女の気配が、そこに残っているような気がして、僕は動けなかった。
“ありがとう。私を、世界にしてくれて”
その言葉だけが、今も胸の奥で鳴っている。
僕の空想だった少女、菰野エリ。
彼女は、もう僕の想像の中にはいない。
でも、だからこそ、あのときの涙は誇らしかった。
僕が創った存在が、自分で考え、選び、そして僕から離れ、自分だけの道を歩こうとした。
それは、創造主としての僕にとって——最大の祝福だった。
*
四月になった。
大学の入学式を終え、僕は見慣れないキャンパスに立っていた。
人混みのなかに、自分の居場所を探すように目を走らせる。
スーツ姿の新入生たちが交わす会話、未来に対する漠然とした不安と期待の入り混じる空気。
僕もまた、その一人になった。
「安曇くん?」
振り返ると、そこにいたのは見知らぬ女子学生だった。
「えっと……同じクラスの、城田です。さっきオリエンテーションで、席近かったよね?」
「……あ、うん。覚えてる。よろしく」
「うん。ここのキャンパス、めっちゃ広いよね……一人だと迷いそう」
そう言って彼女は笑った。
その自然なやりとりに、僕の心が少しだけほぐれていく。
僕はもう、“ひとり”じゃないのかもしれない。
*
大学生活は、目まぐるしかった。
新しい講義、課題、サークルの勧誘。毎日が慣れないことの連続だったけれど、退屈はしなかった。
ふと気づくと、僕の生活のなかで、エリのことを思い出す時間は少しずつ減っていた。
それは忘れたのではなく、きっと“胸の奥にしまった”からだと思う。
時々、駅のホームや夕暮れの影の中に、彼女の姿を探す自分がいる。
だけど、もう彼女は現れない。
それでも——寂しさよりも、不思議な安心感がある。
きっと、彼女は今もどこかで生きてる。
僕が見えなくなっただけで、ちゃんとこの世界に存在している。
空想は終わった。でも、記憶と希望は、終わっていない。
*
季節はめぐり、夏が来た。
僕は大学で教育実習の準備に追われながらも、あるノートを開くことが増えていた。
それは、高校時代に書いていた“空想ノート”。
端のページには、最初に描いたエリの横顔が、シャーペンで雑に落書きされている。
——はじめて彼女を描いた日。
あのときは、まさか彼女と“出会う”なんて思ってもいなかった。
だけど今では、それが僕の人生を変えた“奇跡の始まり”だったと、はっきり言える。
ページをめくると、そこにはこんな言葉が書いてあった。
> 「空想は、現実になることを願っている。」
当時の僕が書いたものか、それともエリが最後に書いたものか、もうわからない。
だけど——それは確かに真実だった。
*
八月のある日。
僕はふと、海へ向かった。
あの日、エリを見送った海。
もう一度だけ、彼女に“報告”をしたかった。
電車を乗り継ぎ、あの砂浜に着いた頃には、空はオレンジに染まっていた。
潮風が心地よく、波の音が静かに耳に届く。
「久しぶり、エリ」
誰もいない海辺。
それでも、確かにそこにいるような気がして、僕は語りかける。
「大学に入ったよ。友達もできたし、毎日忙しいけど、それなりにやってる。……少しずつ、自分のことも好きになれそう」
立ち止まり、波打ち際を見つめる。
海はあのときと変わらず、静かだった。
「ねえ、エリ。君は今、どこにいるの?」
答えは、もちろん返ってこない。
だけど、その代わりに——風が吹いた。
あの日と同じ、春の匂いが混じる風。
その瞬間、胸の奥に、小さな“声”が届いた気がした。
「陽人くん、ありがとう」
僕は思わず、空に向かって笑った。
「……こちらこそ、ありがとう」
あの空想の季節は、確かに終わった。
でもその物語は、僕の中で、生き続けている。
そしていつか——
世界のどこかで、また君に会えたら。
僕はもう、躊躇せずに言える気がする。
**「久しぶり。今度は現実で会えたね」**って。




