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ep.9 君をこの世界へ(前編)

 涙は静かに、エリの頬を伝っていった。


 あれほど近くにいたのに、彼女が“自分のために泣く姿”を見たのは、これが初めてだった。

 痛みでも後悔でもない。ただ、“心が動いた”という理由で流れる涙。

 それは紛れもなく、彼女がこの世界の一部になりつつある証だった。


 ——いや、もうなっている。

 きっと、僕がそう信じることこそが、“彼女を世界に繋ぎとめる”最後の鍵なんだと思った。


「……陽人くん」


 エリは、涙を指で拭ってから、僕の目をまっすぐに見た。

 その瞳に、曇りはなかった。


「私ね、決めたよ」


「……なにを?」


「“卒業”するの。君の想像から、記憶から、そして依存から。私、ちゃんと、“私として”生きてみたい」


 その言葉は、静かな強さに満ちていた。

 それがどんなに怖いことか、彼女が誰よりも知っている。

 けれど、それでも「進む」と言えることが、なによりも尊かった。


「そっか……」


 僕は少しだけ目を伏せて、拳を握りしめた。


「……それって、もう僕が君を想像しなくてもいいってこと?」


「ううん。“想ってくれてたら”嬉しい。でも、私の存在は、君の想像力じゃなくて——」


「君自身で、形づくるってことだよな」


「うん。陽人くんの心の中で、ずっと生きるだけじゃなくて。私は、“現実に足跡を残したい”」


 その言葉を聞いた瞬間、不意に胸の奥がぎゅっと締めつけられた。

 まるで、大切な人を送り出す家族のような気持ち。

 寂しさと、誇らしさと、胸を張るべきなのに泣きたくなるような矛盾が渦巻いていた。


「じゃあ、……送らせてくれ。ちゃんと最後まで、君の“出発”を見届けたい」


 エリは一瞬だけ驚いた顔をして、それから、涙に濡れた頬で笑った。


「ありがとう、陽人くん」



 それから数日間、僕とエリは“最後の時間”を丁寧に過ごした。


 川沿いの桜並木を歩いた。

 駅ビルの屋上から街を見下ろした。

 無人の校舎に忍び込んで、黒板に「またね」と落書きした。


 どれも、ささやかな出来事ばかりだった。

 でも、その一つひとつが、彼女にとっては“世界とのつながり”だった。


「ねえ、陽人くん」


 夕暮れの河川敷。土手の上に並んで座りながら、エリが言った。


「私、たぶん、今日で“完全な存在”になれる」


「どうしてそう思うの?」


「わかるの。“自分の体の中にあるもの”が、もう全部、私のものになってきてる感じがするの」


「それって、すごいことだな……」


「うん。ずっと誰かの想像や記憶の中に“間借り”してたのが、ようやく“自分の名前で住めるようになる”って感じ」


「エリ……」


「だから、明日。私、陽人くんと別れる」


「……!」


 その言葉に、僕は反射的に息を飲んだ。

 けれど、エリは静かに続ける。


「さよならじゃない。ただ、一緒にいるのをやめるってこと。依存するのをやめるってこと。——だって、私が誰かの夢だったとしても、“これからの私”は、私が選んで生きたいんだ」


 その声は震えていなかった。

 空想の少女だった彼女が、初めて“未来”を語った瞬間だった。


 僕はゆっくりと頷いた。


「……わかった。明日、ちゃんと見送るよ。君がこの世界で生きるために」


「ありがとう。ほんとうに、ありがとう」


 ふたりの間に、夕陽の光が落ちていった。

 長く伸びた影が、静かに重なっていた。



 翌朝。

 三月末の海辺。まだ誰もいない早朝の砂浜。


 僕とエリは、並んで立っていた。


「この場所、覚えてる?」


「もちろん。……初めて、私が“自分のことを怖い”って言った場所」


「そして、君が“人間になりたい”って言った場所だ」


 海は穏やかだった。

 春の海はどこか無防備で、優しく、すべてを受け入れてくれる気がした。


「エリ。君は、僕の空想だった。僕の孤独が産んだ、一番美しい嘘だった。……だけど、いまの君は、もう“本物”だよ」


 エリは何も言わなかった。ただ、じっと僕を見つめていた。


「もし、もう一度誰かに会えるなら——もう一度、僕に会ってほしい」


 その言葉に、エリは微笑んだ。

 そして、ゆっくりと一歩、海に向かって踏み出した。


「陽人くん」


「……なに?」


「ありがとう。私を、世界にしてくれて」


 その声が、風に溶けた瞬間。


 彼女の姿は、波のようにゆっくりと、淡く、消えていった。


 でも。


 僕の目には、ちゃんと彼女が“残った”。


 泣きはしなかった。

 でも、涙が流れた。


 悲しみじゃない。喪失でもない。

 それは、誇りの涙だった。


 僕の空想は、いま——世界を歩いている。

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