ep.9 君をこの世界へ(前編)
涙は静かに、エリの頬を伝っていった。
あれほど近くにいたのに、彼女が“自分のために泣く姿”を見たのは、これが初めてだった。
痛みでも後悔でもない。ただ、“心が動いた”という理由で流れる涙。
それは紛れもなく、彼女がこの世界の一部になりつつある証だった。
——いや、もうなっている。
きっと、僕がそう信じることこそが、“彼女を世界に繋ぎとめる”最後の鍵なんだと思った。
「……陽人くん」
エリは、涙を指で拭ってから、僕の目をまっすぐに見た。
その瞳に、曇りはなかった。
「私ね、決めたよ」
「……なにを?」
「“卒業”するの。君の想像から、記憶から、そして依存から。私、ちゃんと、“私として”生きてみたい」
その言葉は、静かな強さに満ちていた。
それがどんなに怖いことか、彼女が誰よりも知っている。
けれど、それでも「進む」と言えることが、なによりも尊かった。
「そっか……」
僕は少しだけ目を伏せて、拳を握りしめた。
「……それって、もう僕が君を想像しなくてもいいってこと?」
「ううん。“想ってくれてたら”嬉しい。でも、私の存在は、君の想像力じゃなくて——」
「君自身で、形づくるってことだよな」
「うん。陽人くんの心の中で、ずっと生きるだけじゃなくて。私は、“現実に足跡を残したい”」
その言葉を聞いた瞬間、不意に胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
まるで、大切な人を送り出す家族のような気持ち。
寂しさと、誇らしさと、胸を張るべきなのに泣きたくなるような矛盾が渦巻いていた。
「じゃあ、……送らせてくれ。ちゃんと最後まで、君の“出発”を見届けたい」
エリは一瞬だけ驚いた顔をして、それから、涙に濡れた頬で笑った。
「ありがとう、陽人くん」
*
それから数日間、僕とエリは“最後の時間”を丁寧に過ごした。
川沿いの桜並木を歩いた。
駅ビルの屋上から街を見下ろした。
無人の校舎に忍び込んで、黒板に「またね」と落書きした。
どれも、ささやかな出来事ばかりだった。
でも、その一つひとつが、彼女にとっては“世界とのつながり”だった。
「ねえ、陽人くん」
夕暮れの河川敷。土手の上に並んで座りながら、エリが言った。
「私、たぶん、今日で“完全な存在”になれる」
「どうしてそう思うの?」
「わかるの。“自分の体の中にあるもの”が、もう全部、私のものになってきてる感じがするの」
「それって、すごいことだな……」
「うん。ずっと誰かの想像や記憶の中に“間借り”してたのが、ようやく“自分の名前で住めるようになる”って感じ」
「エリ……」
「だから、明日。私、陽人くんと別れる」
「……!」
その言葉に、僕は反射的に息を飲んだ。
けれど、エリは静かに続ける。
「さよならじゃない。ただ、一緒にいるのをやめるってこと。依存するのをやめるってこと。——だって、私が誰かの夢だったとしても、“これからの私”は、私が選んで生きたいんだ」
その声は震えていなかった。
空想の少女だった彼女が、初めて“未来”を語った瞬間だった。
僕はゆっくりと頷いた。
「……わかった。明日、ちゃんと見送るよ。君がこの世界で生きるために」
「ありがとう。ほんとうに、ありがとう」
ふたりの間に、夕陽の光が落ちていった。
長く伸びた影が、静かに重なっていた。
*
翌朝。
三月末の海辺。まだ誰もいない早朝の砂浜。
僕とエリは、並んで立っていた。
「この場所、覚えてる?」
「もちろん。……初めて、私が“自分のことを怖い”って言った場所」
「そして、君が“人間になりたい”って言った場所だ」
海は穏やかだった。
春の海はどこか無防備で、優しく、すべてを受け入れてくれる気がした。
「エリ。君は、僕の空想だった。僕の孤独が産んだ、一番美しい嘘だった。……だけど、いまの君は、もう“本物”だよ」
エリは何も言わなかった。ただ、じっと僕を見つめていた。
「もし、もう一度誰かに会えるなら——もう一度、僕に会ってほしい」
その言葉に、エリは微笑んだ。
そして、ゆっくりと一歩、海に向かって踏み出した。
「陽人くん」
「……なに?」
「ありがとう。私を、世界にしてくれて」
その声が、風に溶けた瞬間。
彼女の姿は、波のようにゆっくりと、淡く、消えていった。
でも。
僕の目には、ちゃんと彼女が“残った”。
泣きはしなかった。
でも、涙が流れた。
悲しみじゃない。喪失でもない。
それは、誇りの涙だった。
僕の空想は、いま——世界を歩いている。




