ep.11 名前のない日々
四月の風が、新緑の香りを運んでくる。
大学のキャンパスは若々しい空気に満ちていた。
けれどその中で、僕の心はまだどこか、ぽっかりと空白を抱えていた。
エリがいなくなって、三週間が経った。
目を閉じればすぐに浮かぶ。笑う顔も、寂しげな目も。
でももう彼女は隣にいない。
話しかけても、返事はない。
それでも、不思議と“寂しさ”は薄れていた。
彼女が自分の意志で、世界へと歩き出したことを、誇りに思えるからだ。
——だけど、ぽっかりと空いた時間。
それにどう向き合っていいかわからず、僕は毎日をただ、こなしていた。
*
ある日、大学の中庭で、僕は偶然ユカリと再会した。
「陽人くん」
「……ユカリ?」
「久しぶり。元気?」
「……うん。まあ、ぼちぼち」
彼女は変わっていなかった。いや、少しだけ、印象がやわらかくなった気がする。
「この大学、広いのにすぐ再会するね」
「エリちゃんが引き寄せてるのかもよ?」
「……そうかもしれない」
どちらともなくベンチに座り、春の光を浴びながら、少しだけ沈黙が続いた。
「陽人くん、元気そうに見えて、少し止まってる気がする」
「……わかる?」
「うん。“次に何をすればいいかわからない”って顔、してる」
その言葉に、僕は思わず笑ってしまった。
「たしかに。いままでずっと、彼女と一緒に“生きてた”気がするから。……その先に、何があるか考えてなかったんだ」
自分の声が少し震えているのがわかった。
情けない。でも、それが本音だった。
「でもね、陽人くん。エリちゃんがいなくなった今こそ、“君自身の物語”が始まるんじゃない?」
「……俺自身の、物語?」
「君が彼女に“世界を見せた”ように、君もこれから、自分の世界を見つける番だと思う」
その言葉は、まっすぐに胸に刺さった。
誰かのために生きるのではなく、自分の“輪郭”を、自分の意志で描くこと。
それは、エリが最後に見せてくれた姿だった。
「ねえ、陽人くん。……最近、また空想してる?」
僕は首を横に振った。
「いや、してない。……怖かったんだ、また誰かを作り出して、今度こそ消せなくなる気がして」
「でも、空想って、悪いことばかりじゃないよ」
「……うん。そうだな」
「もしまた空想するとしたら、次は“誰かのため”じゃなく、“自分のため”にしてみて」
ユカリの言葉は、ふわりとした風のようにやさしかった。
「それが、“生きる”ってことだと思う」
*
その夜、僕は久しぶりにノートを開いた。
何も描かれていないページの真ん中に、シャープペンをゆっくりと走らせる。
線は震えていた。
けれど、確かに進んでいた。
浮かんできたのは、エリでもユカリでもない、“誰でもない誰か”。
僕の中にだけいる、僕のまだ知らない未来の姿。
描くという行為が、こんなにも息苦しく、こんなにも自由だったことに、僕は初めて気づいた。
描きながら、自然と独り言がこぼれる。
「……ありがとう、エリ。君のおかげで、僕はまた歩ける」
何もない部屋の中、静寂が返事をくれた。
それでよかった。
もう“声”が聞こえなくても、僕にはちゃんと、彼女が残してくれたものがある。
それは、“自分の世界に立つ勇気”だった。
*
五月の風が新緑を揺らす頃、僕は大学の課題でとある教育実習レポートを書くことになった。
テーマは、「子どもたちに“想像”をどう教えるか」。
何を書こうか迷っていたとき、ふとノートに書かれた言葉が目に留まった。
> 「空想は、現実になることを願っている」
エリがいた世界の、原点だった。
あの言葉にこそ、今の僕が教えたい“想像力のかたち”が詰まっている気がした。
ただ逃げるためじゃない。
現実を補うものでもない。
空想は、いつか現実になるために存在している。
——それを信じられる力こそが、生きることなんだ。
僕は、ゆっくりとレポートの1行目を書き始めた。




