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ep.11 名前のない日々

 四月の風が、新緑の香りを運んでくる。

 大学のキャンパスは若々しい空気に満ちていた。

 けれどその中で、僕の心はまだどこか、ぽっかりと空白を抱えていた。


 エリがいなくなって、三週間が経った。

 目を閉じればすぐに浮かぶ。笑う顔も、寂しげな目も。

 でももう彼女は隣にいない。

 話しかけても、返事はない。


 それでも、不思議と“寂しさ”は薄れていた。

 彼女が自分の意志で、世界へと歩き出したことを、誇りに思えるからだ。


 ——だけど、ぽっかりと空いた時間。

 それにどう向き合っていいかわからず、僕は毎日をただ、こなしていた。



 ある日、大学の中庭で、僕は偶然ユカリと再会した。


「陽人くん」


「……ユカリ?」


「久しぶり。元気?」


「……うん。まあ、ぼちぼち」


 彼女は変わっていなかった。いや、少しだけ、印象がやわらかくなった気がする。


「この大学、広いのにすぐ再会するね」


「エリちゃんが引き寄せてるのかもよ?」


「……そうかもしれない」


 どちらともなくベンチに座り、春の光を浴びながら、少しだけ沈黙が続いた。


「陽人くん、元気そうに見えて、少し止まってる気がする」


「……わかる?」


「うん。“次に何をすればいいかわからない”って顔、してる」


 その言葉に、僕は思わず笑ってしまった。


「たしかに。いままでずっと、彼女と一緒に“生きてた”気がするから。……その先に、何があるか考えてなかったんだ」


 自分の声が少し震えているのがわかった。

 情けない。でも、それが本音だった。


「でもね、陽人くん。エリちゃんがいなくなった今こそ、“君自身の物語”が始まるんじゃない?」


「……俺自身の、物語?」


「君が彼女に“世界を見せた”ように、君もこれから、自分の世界を見つける番だと思う」


 その言葉は、まっすぐに胸に刺さった。

 誰かのために生きるのではなく、自分の“輪郭”を、自分の意志で描くこと。

 それは、エリが最後に見せてくれた姿だった。


「ねえ、陽人くん。……最近、また空想してる?」


 僕は首を横に振った。


「いや、してない。……怖かったんだ、また誰かを作り出して、今度こそ消せなくなる気がして」


「でも、空想って、悪いことばかりじゃないよ」


「……うん。そうだな」


「もしまた空想するとしたら、次は“誰かのため”じゃなく、“自分のため”にしてみて」


 ユカリの言葉は、ふわりとした風のようにやさしかった。


「それが、“生きる”ってことだと思う」



 その夜、僕は久しぶりにノートを開いた。

 何も描かれていないページの真ん中に、シャープペンをゆっくりと走らせる。


 線は震えていた。

 けれど、確かに進んでいた。


 浮かんできたのは、エリでもユカリでもない、“誰でもない誰か”。

 僕の中にだけいる、僕のまだ知らない未来の姿。


 描くという行為が、こんなにも息苦しく、こんなにも自由だったことに、僕は初めて気づいた。


 描きながら、自然と独り言がこぼれる。


「……ありがとう、エリ。君のおかげで、僕はまた歩ける」


 何もない部屋の中、静寂が返事をくれた。


 それでよかった。

 もう“声”が聞こえなくても、僕にはちゃんと、彼女が残してくれたものがある。


 それは、“自分の世界に立つ勇気”だった。



 五月の風が新緑を揺らす頃、僕は大学の課題でとある教育実習レポートを書くことになった。

 テーマは、「子どもたちに“想像”をどう教えるか」。


 何を書こうか迷っていたとき、ふとノートに書かれた言葉が目に留まった。


 > 「空想は、現実になることを願っている」


 エリがいた世界の、原点だった。

 あの言葉にこそ、今の僕が教えたい“想像力のかたち”が詰まっている気がした。


 ただ逃げるためじゃない。

 現実を補うものでもない。


 空想は、いつか現実になるために存在している。

 ——それを信じられる力こそが、生きることなんだ。


 僕は、ゆっくりとレポートの1行目を書き始めた。



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