Ep.6 これ、わたしの?
翌朝。
目を覚ますと、最初に視界へ入ったのは水色だった。
「…………。」
少女の顔がある。
近い。
ものすごく近い。
俺は数秒、その顔を見つめた。
少女も瞬きをしながら俺を見つめている。
「……何してる」
「まってた」
「何を」
「おじさんがおきるの」
「いつから?」
「わかんない」
嫌な予感がした。
身体を起こし、時計を見る。
午前6時12分。
窓の外はすでに明るくなり始めている。
「お前、結局寝なかったのか?」
「うん」
即答だった。
昨日と何も変わらない。
目の下に隈もない。
眠そうな様子もない。
それどころか、俺よりよほど元気そうだった。
「……そうか」
ベッドから降りる。
少女が俺の後ろをついてくる。
洗面用に置いてある水を少量使って顔を拭き、歯を磨く。
その間も、背後から視線を感じる。
振り返る。
少女が見ている。
「……何」
「それ、なにしてるの?」
「歯磨いてる」
少女が自分の口元を触る。
俺は手を止めた。
こいつ、歯磨きもしたことないのか。
当然といえば当然か。
食事すら知らなかったんだから。
「やってみるか?」
「うん!」
予備の歯ブラシなんてものはない。
仕方なく物資の中を漁る。
以前、病院内の売店跡から回収しておいた未開封のものが一本だけ残っていた。
袋を破り、少女へ渡す。
「これ、お前のな」
少女が歯ブラシを見る。
「わたしの?」
「ああ」
少女はしばらく歯ブラシを見つめていた。
昨日、自分の物はないと言われたことを覚えているらしい。
「これ、わたしの?」
「そう言ってるだろ」
少女の顔がゆっくり笑顔になる。
「わたしの!」
「歯ブラシ一個でそんな喜ぶなよ」
「これ、わたしの!」
「分かったって」
少女は嬉しそうに歯ブラシを握った。
空っぽだった布袋を持ってくると、その中へ入れる。
「いや、今使うんだよ」
「…………。」
少女が袋から取り出す。
少し残念そうだった。
俺は磨き方を簡単に教えた。
少女は俺の動きを見ながら真似をする。
最初は持ち方すら怪しかったが、数十秒もするとそれなりに形になっていた。
『学習速度は良好です』
ピコが言う。
「昨日も聞いた」
『昨日も良好でした』
少女は歯ブラシを口に入れたまま胸を張った。
「ふごい?」
「喋るな。泡飛ぶだろ」
「ふごい?」
「すごいすごい」
満足したらしい。
磨き終わると、少女は歯ブラシを布で丁寧に拭いた。
そして、空っぽの袋へしまう。
今度は止めなかった。
少女が袋を覗き込む。
昨日まで何も入っていなかったそこに、小さな歯ブラシが一本。
たったそれだけだ。
それでも本人にとっては、何か違うらしい。
袋を閉じると、大事そうに肩から掛けた。
俺は保存食を口へ入れながら、今日の予定を確認した。
「ピコ。東のガソリンスタンドまでの距離は?」
『現在地から約4.8キロメートルです』
「昨日通った道から行けるか?」
『途中までは可能です。約1.3キロメートル先から東へ進路を変更します』
「哨戒型は?」
『現時点で検知していません』
「現時点では、か」
M-68を手に取る。
残弾9発。
できれば今日は一発も使いたくない。
目的は戦闘じゃない。
燃料の確認だ。
地下施設で見つけた非常用設備が動かせるなら、病院で使える電力を増やせる可能性がある。
そのためにも、まず燃料を確保する必要がある。
マガジンを戻す。
工具袋を確認。
携帯用の燃料容器。
ホース。
簡易ポンプ。
ライト。
その他、最低限必要なものを詰めていく。
少女がその様子を見ていた。
「どっかいくの?」
「ああ」
「ばいく?」
途端に目が輝いた。
「バイク」
「いく!」
「お前も連れてく」
「ほんと!?」
「ああ。ただし」
俺は少女を指差した。
「勝手に離れるな」
「うん!」
「俺の見えるところにいる」
「うん!」
「危ないって言ったら止まる」
「うん!」
「触るなって言ったものには触らない」
「うん!」
「本当に分かってるか?」
「うん!」
全部同じ返事だった。
不安しかない。
『主様』
「なんだ」
『少女を病院へ残す選択肢もあります』
「昨日のこいつ見てただろ」
『はい』
「俺が戻ってきたら、病院なくなってそうだ」
「なくならないよ?」
「お前ならやりかねない」
「なくさないよ!」
『建造物全体を消失させることは困難と推定します』
「そういう話じゃない」
俺は荷物を持った。
「行くぞ」
「ばいく!」
少女が真っ先に部屋を飛び出した。
「走るな!」
「はーい!」
返事だけはいい。
階段を降りる。
昨日あれだけ面白がっていた階段も、今日は普通に駆け下りていく。
一度覚えたものへの興味は薄れるのも早いらしい。
裏口へ出る。
朝の空気は冷たい。
昨日より少し雲が多い。
バイクのカバーを外す。
少女はすでに横で待っていた。
「のる!」
「待て」
「のる!」
「荷物載せてからだ」
「のる!」
「分かったから」
荷物を固定する。
少女を自分の前へ座らせる。
昨日と同じ位置だ。
「ちゃんと掴まってろ」
少女がハンドルを掴んだ。
「そこじゃない」
「じゃあどこ?」
「……俺でいい」
少女が俺の腕にしがみつく。
「これ?」
「ああ」
『主様』
ピコが飛んできた。
「なんだ」
『私の搭乗位置がありません』
「飛べよ」
『移動効率が低下します』
「じゃあ後ろ乗れ」
『安定性に問題があります』
「知らん」
ピコが俺の周囲を一周する。
そして。
ガシッ。
頭を掴まれた。
「結局そこかよ」
『最も安定します』
少女が上を見ようとする。
「ピコどこ?」
「俺の頭」
「わたしもそこがいい!」
「絶対駄目」
「なんで!?」
「二人も乗る場所じゃない」
「ピコずるい!」
『先着順です』
「お前も煽るな」
エンジンをかける。
少女の身体が一瞬だけ強張った。
すぐに笑顔になる。
「うごく?」
「動く」
「はやく!」
「飛ばさないからな」
「はやく!」
「聞けよ」
アクセルを開ける。
バイクが病院を離れた。
昨日と同じ道路へ出る。
少女は最初こそ前を向いていたが、すぐに忙しく左右を見るようになった。
建物。
道路。
放置された車。
遠くに見える鉄塔。
風に揺れる草。
その全部を見逃したくないらしい。
「あっ!」
「急に動くな!」
「あれ!」
「何だよ!」
「とり!」
昨日覚えたばかりの鳥を指差している。
「ああ、鳥だ」
「とりいた!」
「いるよ」
「いっぱい?」
「場所による」
少女が嬉しそうに鳥を目で追う。
その姿を見て、少しだけ妙な感じがした。
昨日までは、この道を走っても何も思わなかった。
壊れた建物。
瓦礫。
草。
鳥。
全部、ただの景色だった。
こいつが一つずつ名前を知るたびに。
俺まで、今まで見ていなかったものを見せられているような気がする。
「おじさん!」
「今度はなんだ」
「くるま!」
「ああ」
「知ってる!」
「そうか」
「すごい?」
「すごいすごい」
十分ほど走ったところで、昨日の道から外れた。
東へ曲がる。
ここから先は、俺もまだほとんど探索していない。
道路の状態が少し悪くなる。
速度を落とす。
建物の密度も下がってきた。
代わりに、戦争で焼けたらしい空き地が増える。
黒く変色したコンクリート。
途中で折れた街灯。
原型を残していない車両。
少女はさっきまでとは違い、少し静かになった。
怖がっているわけではない。
ただ見ている。
俺は何も説明しなかった。
今はまだ、知らなくていい。
やがて。
『主様』
ピコの声がした。
「なんだ」
『目的地まで残り約300メートルです』
「周囲は?」
『現時点で大型の動体反応はありません』
大型。
その言い方が少し気になった。
「小さいのは?」
『複数確認しています。鳥類、あるいは小型哺乳類と推定』
「了解」
M-68の位置を確認する。
少女が俺の動きを見ていた。
「それ、なに?」
腰の銃を見ている。
そういえば、まだ説明していなかった。
「……これは触るな」
「なんで?」
「危ないから」
「危ない」
少女が呟く。
昨日教えた言葉だ。
「覚えてるか?」
「けがするかもしれない」
少しだけ驚いた。
「……そうだ」
少女がM-68を見る。
今度は手を伸ばさなかった。
「触らない」
「ああ。それでいい」
少女が小さく頷いた。
こういうところを見ると、ちゃんと学んではいるらしい。
道路の先に、低い建物が見えてきた。
大きな屋根。
その下に並んだ給油機。
看板は途中から折れ、文字もほとんど消えている。
東側のガソリンスタンドだ。
俺は道路から少し離れた場所でバイクを停めた。
エンジンを切る。
「着いたぞ」
少女がすぐに降りようとする。
「待て」
服を掴む。
「なんで?」
「先に安全確認」
「安全?」
「危なくないか見るんだ」
少女は素直に座り直した。
ピコが俺の頭から離れる。
『周囲を走査します』
「ああ」
ピコが上昇した。
屋根より高い位置まで飛んでいく。
俺はM-68を抜いた。
残弾9発。
少女が銃を見る。
それから俺を見る。
「ここにいろ」
「うん」
「絶対に動くなよ」
「うん」
俺はバイクを降りる。
周囲を見る。
静かだ。
風で看板の一部が揺れている。
キィ。
キィ。
一定の間隔で、金属の擦れる音がする。
それ以外には何も聞こえない。
ピコが戻ってきた。
『半径約150メートル以内に、明確な敵性反応は確認できません』
「分かった」
銃口を下げる。
少女を降ろした。
「俺から離れるな」
「うん!」
今度は返事だけではなく、俺の服の裾を掴んだ。
「……それならまあいい」
ガソリンスタンドへ向かう。
少女が横を歩く。
ピコは少し前を飛んでいる。
給油機の前まで来る。
当然、表示は消えている。
ノズルを持ち上げる。
軽い。
電力もない。
普通に給油できる状態ではなさそうだ。
「ピコ。地下タンクの位置は分かるか?」
『推定可能です』
「見てくれ」
『はい』
ピコが飛んでいく。
俺は店舗の方を見る。
窓ガラスはほとんど割れている。
入口の自動ドアは半開きの状態で止まっていた。
少女が俺の裾を引っ張る。
「おじさん」
「なんだ」
「あれ」
少女が店舗の中を指差した。
俺は目を向ける。
暗い。
倒れた棚。
散乱した商品。
奥にはカウンター。
「何か見えるのか?」
「うん」
「何が?」
少女は少し考えた。
「……なんかいる」
俺の手が止まった。
「どこ」
「あそこ」
少女が指差す。
店の奥。
カウンターの向こう側。
俺には何も見えない。
「ピコ」
『はい』
「店内を確認しろ」
ピコが入口へ向かう。
俺は少女を自分の後ろへ移動させた。
M-68を構える。
「俺の後ろにいろ」
「うん」
今度は少女もふざけなかった。
ピコが店内へ入る。
数秒。
『動体反応は確認できません』
俺は眉を寄せた。
少女を見る。
「何もいないってよ」
「いるよ?」
「どこに」
「あそこ」
同じ場所を指差す。
「動いてる?」
「ううん」
「じゃあ何だ?」
少女は答えない。
じっと店内を見ている。
さっきまでとは違う。
笑っていない。
俺はもう一度、暗闇へ目を凝らした。
何も見えない。
『主様』
ピコから通信が入る。
「なんだ」
『店内に生体反応はありません』
「機械は?」
『稼働中の機械反応も確認できません』
「……そうか」
なら、少女の勘違いか。
初めて見る場所だ。
棚か何かを人影と間違えたのかもしれない。
そう思った、そのとき。
少女が俺の服を掴む手に力を入れた。
「おじさん」
声が小さい。
「なんだ」
少女は暗い店内を見つめたまま言った。
「こっち、みてる」
背中に冷たいものが走った。
俺はM-68を構え直した。
「ピコ。戻れ」
『了解』
店内からピコが飛び出してくる。
俺は少女を連れて数歩後退した。
「どこだ」
「あそこ」
少女の指先は変わらない。
カウンターの奥。
暗闇。
何もない。
何も見えない。
それでも少女だけは、確かに何かを見ていた。
俺は銃口を向けたまま待つ。
十秒。
二十秒。
何も起きない。
風が吹く。
キィ。
キィ。
看板が鳴る。
「……ピコ。本当に何もないんだな?」
『はい。センサー上では異常ありません』
「お前」
少女を見る。
「本当に見えるのか?」
「うん」
「どんなやつだ」
少女は少し考えた。
そして。
「ちがう」
「何が?」
「みえるんじゃない」
俺は眉を寄せた。
「じゃあ、なんだよ」
少女自身も分からないらしい。
胸元へ手を当てる。
「ここにいるって、わかる」
「…………。」
意味が分からない。
だが。
少女の顔から、さっきまでの笑顔は完全に消えていた。
次の瞬間。
ピコが突然、店の方を向いた。
『主様』
声が変わった。
「どうした」
『微弱な電波を検知』
「どこから」
『店内です』
俺はM-68を握り直した。
『先ほどまで存在しなかった信号です』
「機械か?」
『不明』
「場所は」
『カウンター奥』
少女が指差していた場所だった。
俺は何も言えなかった。
暗闇の奥。
そこから。
カチ。
小さな音がした。
何かが起動するような。
そんな音だった。




