Ep.5 食ってみるか?
それからしばらく、俺は地下施設から持ち帰った工具の整理を続けた。
その間、少女は一度も大人しくしていなかった。
窓。
地図。
工具箱。
ベッド。
椅子。
床に置いた俺の荷物。
目に入るものを片っ端から見て回っている。
ただ、何にでも質問してくるわけではなかった。
分からないものを見つけると、まず触る。
持ち上げられそうなら持ち上げる。
動きそうなら動かす。
それでも分からなければ、ようやく俺かピコのところへ持ってくる。
今もそうだった。
「おじさん」
「なんだ」
「これ」
振り返る。
少女が俺の靴下を持っていた。
「……どこから持ってきた」
「あそこ」
ベッドの脇を指差す。
昨日脱いだやつだ。
「返せ」
「これなに?」
「靴下」
「くつした?」
「ああ」
「なにするの?」
「足に履く」
「こう?」
腕に通した。
「違う」
「じゃあ、こう?」
頭に被ろうとする。
「なんでそうなる」
『主様は、足に履くと説明されています』
ピコが横から言う。
「あしってどれ?」
俺は固まった。
「……そこからか」
自分の足を指差す。
「これ」
少女が自分の足を見る。
「これ、あし?」
「ああ」
「じゃあ、これは?」
膝を指差す。
「膝」
「これは?」
「太もも」
「これは?」
「肩」
「これは?」
「肘」
「これは?」
「おいおいおいちょっと待て」
俺は止めた。
このままでは人体の説明だけで日が暮れる。
少女は不満そうに頬を膨らませた。
『人体には多数の部位名称があります』
「お前余計なこと言うな」
少女は靴下を俺へ返した。
俺はそれを受け取る。
「あと、勝手に人の物を漁るな」
「なんで?」
「俺のだから」
「おじさんの?」
「ああ」
少女は少し考えた。
「わたしのは?」
その一言で手が止まった。
少女は俺を見ている。
「お前の?」
「うん」
俺は部屋を見回した。
少女が持ってきたもの。
空っぽの布袋。
それだけだ。
服も靴も、元々地下にあったものだろう。
本人の所有物と言えるのかは分からない。
「……ないな」
「ない?」
「ああ」
「そっか」
それだけ言って、少女はまた窓の方へ歩いていった。
別に残念そうでもない。
物を持つという感覚自体、まだよく分かっていないのかもしれない。
俺は工具箱を閉じた。
時計を見る。
もう昼をかなり過ぎている。
地下施設へ戻って残りの工具を運ぶつもりだったが、今日はやめた方がよさそうだ。
予定が完全に狂った。
原因は言うまでもない。
窓際を見る。
少女は床にしゃがみ込み、外を眺めていた。
「……まあ、いいか」
予定なんて、明日に回せばいい。
腹が減った。
俺は部屋の隅に置いてある保存食を取った。
包装を開ける。
パリ、と小さな音がする。
その瞬間。
少女が振り返った。
じっと俺の手元を見る。
「なんだ?」
「それなに?」
「飯」
「めし」
「昨日説明しただろ」
「わかんなかった」
「そうだったな」
俺は保存食を一口齧った。
少女の目が丸くなる。
立ち上がり、こちらへ歩いてくる。
俺のすぐ前まで来ると、口元をじっと見つめた。
「……近い」
「いま、なにしたの?」
「食った」
「くった?」
「ああ」
「どうして?」
「腹が減ったから」
「はらへった?」
「そう」
少女が俺の腹を見る。
「なくなったの?」
「何が」
「おなか」
「なくなってない」
「へったんでしょ?」
「そういう意味じゃない」
「?」
説明が難しい。
俺は保存食を見た。
少し考える。
「食ってみるか?」
少女が首を傾げた。
「たべる?」
「ああ」
「どうやるの?」
「口に入れて、噛んで、飲み込む」
少女は俺の口を見る。
それから自分の口元を触った。
「ここ?」
「そう」
俺は保存食を少しだけちぎった。
「ほら」
少女が手を出す。
その掌に小さな欠片を乗せた。
少女はそれをじっと見つめる。
匂いを嗅ぐでもない。
警戒するでもない。
ただ、不思議そうに観察している。
「これを?」
「口に入れる」
「うん」
少女は素直に口へ入れた。
そのまま止まった。
「噛め」
もぐ。
「そう」
もぐもぐ。
少女の眉が少し動いた。
「どうだ?」
もぐもぐ。
返事がない。
「おい?」
少女は口を動かしながら俺を見る。
「これ、なに?」
「だから飯だよ」
「ちがう」
「何が?」
少女は困ったような顔をした。
言葉を探しているらしい。
やがて。
「へんなの」
「感想それかよ」
『味覚について尋ねているのではありませんか?』
ピコが言った。
「味?」
少女が首を傾げる。
「舌で感じるやつだ」
「した?」
「口の中にあるだろ」
少女が口を開けた。
「あー」
「見せなくていい」
口を閉じる。
また噛む。
「……これが、あじ?」
「たぶんな」
「へんなの!」
少女が笑った。
どうやら嫌ではないらしい。
「飲み込めるか?」
「のみこむ?」
またそこからだった。
「口の中のやつを、そのまま喉の奥に入れるんだ」
少女は少し考えた。
ごくん。
喉が小さく動いた。
「できた!」
「そりゃよかった」
少女は自分の腹を触った。
「どこいった?」
「腹」
「ここ?」
「ああ」
「いるの?」
「いるっていうか……」
俺は説明を諦めた。
「まあ、そんな感じ」
少女は自分の腹をじっと見る。
しばらくして、俺の保存食を見る。
「もういっこ」
「気に入ったのか?」
「わかんない」
「じゃあなんで欲しいんだ」
「もういっかいやりたい」
味ではなく、食べるという行為そのものが面白いらしい。
俺はもう一欠片渡した。
少女は今度は迷わず口へ入れた。
もぐもぐと噛む。
「へんなの」
「毎回言うのか、それ」
「うん!」
それから三回ほど繰り返したところで、俺は止めた。
「もう終わり」
「なんで?」
「お前が食べても大丈夫なのか分からないからだ」
少女が不満そうな顔をする。
「だいじょうぶだよ?」
「何を根拠に言ってんだ」
「だいじょうぶだから」
「根拠になってない」
『現時点では体調変化は確認されません』
「だからって食わせ続けるわけにもいかないだろ」
少女は俺の手に残った保存食をじっと見ている。
「見るな」
「みてないよ」
「見てるだろ」
「みてない」
視線は完全に保存食へ向いている。
俺は残りを口へ入れた。
「あっ!」
「俺の飯だ」
「なくなった!」
「食ったからな」
「ずるい!」
「何がだよ」
『所有者は主様です』
「ピコはだまってて!」
『拒否されました』
「お前らもう仲良いな。2人でどっかで遊んでてくれ頼むから」
そんなことをしているうちに、時間は過ぎていった。
午後は病院の中を少女に見せて回った。
使っている部屋。
物資を置いている部屋。
入ってはいけない場所。
床が崩れている場所。
近づかない方がいい窓。
少女は意外にも、一度説明した場所については覚えていた。
ふざけているように見えて、記憶力はかなりいい。
「ここは?」
「はいっちゃだめ!」
「理由は?」
「ゆかがこわれてる!」
「じゃあこっちは?」
「はいっていい!」
「よし」
『学習速度は良好です』
ピコが言う。
少女が胸を張った。
「すごい?」
『はい』
「わたし、すごい!」
「自分で言うな」
「おじさんより?」
『比較項目によります』
「そこは否定しろよ」
夕方。
部屋へ戻る頃には、窓から入る光が橙色に変わっていた。
少女はそれにもすぐ気づいた。
「おじさん」
「今度はなんだ」
「そと、ちがう」
窓の外を見る。
街が夕日に照らされている。
崩れた建物の壁も。
割れた道路も。
遠くに残っている鉄塔も。
全部が薄い橙色に染まっていた。
「ああ。もう夕方だからな」
「ゆうがた?」
「もうすぐ暗くなる時間」
少女は窓際へ行った。
俺も少し離れたところから外を見る。
この景色は何度も見た。
特別綺麗だと思ったこともない。
むしろ、夕方になると探索できる時間が終わるという目安でしかなかった。
少女は違った。
窓に両手をつき、何も言わずに見ている。
「……どうした?」
返事がない。
少女の横顔を見る。
笑っていなかった。
怖がっているわけでもない。
ただ、じっと夕日を見ている。
「きれい」
初めて聞いた言葉だった。
俺は少し驚いた。
「……綺麗って言葉は知ってるのか」
「うん」
「誰に教わった?」
少女は俺を見る。
「わかんない」
「……そうか」
また一つ。
分からないことが増えた。
少女は知らない言葉が多い。
人間なら当たり前に知っていることを知らない。
なのに、時々こうして俺が教えていない言葉を使う。
どこで覚えたのか。
誰から教わったのか。
本人は覚えていない。
俺は何も言わず、少女と同じ景色を見た。
太陽が少しずつ建物の向こうへ沈んでいく。
「なくなる」
少女が言った。
「明日になればまた出てくる」
「ほんと?」
「ああ」
「なんで?」
「……それ、説明すると長いぞ」
「ききたい!」
「今度な」
「いま!」
「今度」
「いま!」
「今度」
『主様』
「なんだ」
『説明を先送りしています』
「うるさい」
やがて、太陽が完全に沈んだ。
病院の中が暗くなる。
俺はランタンを点けた。
小さな光が部屋を照らす。
少女は今度はランタンへ寄っていく。
「これは?」
「ランタン」
「らんたん」
「触るなよ」
伸びていた手が止まった。
「……なんで?」
「熱いから」
「熱い?」
また説明が必要らしい。
俺はため息をついた。
長い夜になりそうだった。
そして、その予想は半分だけ当たった。
夜十一時を過ぎた頃。
俺はベッドへ横になった。
少女はまだ起きている。
床に座り、ピコを眺めていた。
「まだ眠くならないのか?」
「ねむい?」
「寝たくなる感じ」
「ならないよ」
やはり分からないらしい。
「……そうか」
俺は枕に頭を乗せた。
「俺は寝るからな」
「ねるの?」
「ああ」
少女が近づいてくる。
ベッドの横に立つ。
「どうするの?」
「目を閉じる」
「それだけ?」
「そのうち意識がなくなる」
「いしき?」
「……もういい。見てろ」
俺は目を閉じた。
数秒。
気配が動かない。
目を開ける。
少女が至近距離から俺の顔を覗き込んでいた。
「近い」
「まだ?」
「何が」
「ねた?」
「お前が見てたら寝れない」
「なんで?」
「気になるから」
「じゃあ、みない!」
少女が両手で自分の目を塞いだ。
指の隙間から完全に見えている。
「……それでいい」
もう説明するのも面倒だった。
再び目を閉じる。
しばらくすると、少女の声がした。
「おじさん」
「……なんだ」
「まだ?」
「頼むから寝かせろ」
「わかった」
────数秒。
「おじさん」
「なんだよ」
「まだ?」
「ピコ」
『はい』
「こいつをなんとかしてくれ」
『承知しました』
ピコが少女の前へ飛んでいく。
『主様への発話を停止してください』
「なんで?」
『睡眠を妨害しています』
「すいみん?」
『主様が現在行おうとしている行為です』
少女が俺を見る。
「じゃあ、しゃべっちゃだめ?」
『はい』
「いつまで?」
『主様が起床するまでです』
「きしょう?」
『主様が喋り始めるまでです』
少女は少し考えた。
「わかった」
今度こそ静かになった。
俺は目を閉じる。
疲れていたらしい。
意識は思っていたより早く落ちた。
次に目を開けたとき。
部屋はまだ暗かった。
時計を見る。
午前3時17分。
喉が渇いて目が覚めたらしい。
身体を起こす。
そして。
「…………。」
少女がいた。
窓際に座っている。
月明かりの中で膝を抱え、外を見ていた。
「……おい」
少女が振り返る。
「おはよう!」
「まだ朝じゃない」
「そうなの?」
「まだ三時だ」
「さんじ?」
俺は水を飲んだ。
少女を見る。
「お前、ずっと起きてたのか?」
「うん」
「何してた?」
「そとみてた」
「ずっと?」
「うん」
眠そうな様子はない。
目を擦ってもいない。
欠伸もしない。
昼間とまったく同じ顔をしている。
「疲れないのか?」
「つかれる?」
「身体が重くなったり、動きたくなくなったり」
少女は少し考えた。
「ならないよ」
「……そうか」
ピコを見る。
部屋の隅で充電設備に接続されている。
こいつですら電力を補給している。
なのに。
少女は何も必要としていない。
食事も。
水も。
睡眠も。
俺は少しだけ考えた。
「ピコ」
小声で呼ぶ。
数秒後、センサーが点灯した。
『はい』
「こいつ、ずっと起きてたか?」
『はい』
「一度も寝てない?」
『睡眠状態への移行は確認されていません』
少女は窓際から俺たちを見ている。
「何してた?」
『主に外部を観察していました』
「それだけ?」
『はい』
俺は少女を見る。
少女はにこっと笑った。
「おじさん、もうねないの?」
「寝るよ」
「そっか」
「……お前は?」
「そとみてる」
当然のように答える。
俺はそれ以上聞かなかった。
ベッドへ戻る。
横になり、毛布を掛けた。
目を閉じる前に、もう一度だけ窓際を見る。
少女はすでに外へ視線を戻していた。
月明かりが水色の髪を薄く照らしている。
その小さな背中だけを見ていれば、夜更かししている普通の子どもにしか見えない。
けれど。
普通の子どもなら、食べる。
水を飲む。
疲れる。
眠る。
こいつには、そのどれもない。
俺は目を閉じた。
明日。
東のガソリンスタンドへ向かう。
本当なら、こいつはここに置いていくべきだ。
危険な場所へ子どもを連れていく理由なんてない。
そう考えて。
すぐに別の問題に気づいた。
こいつを一人でここに置いていく。
俺の頭に、昼間の光景が浮かんだ。
車椅子。
階段。
窓ガラス。
ランタン。
バイク。
「…………。」
無理だ。
俺は毛布を鼻まで引き上げた。
「ピコ」
『はい』
「明日、こいつも連れてくぞ」
『賢明な判断です』
「ここに置いとく方が危険だからな」
『同意します』
「……俺の生活、急に面倒になったな」
『主様自身が連れてきました』
「分かってるよ」
窓際から声が飛んできた。
「おじさん!」
「今度はなんだ」
「あれなに?」
「どれだよ」
「おそら! ひかってる!」
「星だよ」
「ほし?」
「ああ」
「いっぱいある!」
「そうだな」
「おじさんもみて!」
「明日な」
「いま!」
「俺は寝る」
「いま!」
「寝る」
「いまー!」
俺は枕へ顔を埋めた。
やっぱり連れてくるんじゃなかったかもしれない。
そんなことを考えながら。
俺はいつの間にか、もう一度眠っていた。
窓際では、少女が一人、初めて見る星空をいつまでも眺めていた。




