Ep.3 おじさん、だれ?
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翌朝。
目を覚ましたのは、午前6時を少し過ぎた頃だった。
薄いカーテンの向こうから白っぽい朝の光が差し込んでいる。昨日まで残っていた二日酔いはすっかり抜け、身体を起こしても頭痛も吐き気もなかった。
「……今日はマシだな」
ベッド脇の水を一口飲み、着替える。
壁際の端末を起動すると、病院を中心とした周辺地図が表示された。昨日追加したばかりの食料、水、敵との遭遇地点。その横には《M-68 残弾9》と記録されている。
たった3発。それでも、補充するあてのない今では大きい。
「まあ、まずは昨日のところだな」
部屋の隅にいたピコが浮き上がる。
『食品店の地下保管庫ですね』
「ああ。昨日は全部見られなかった」
『水の処理も必要です』
「それもやる。そのあと、余裕があれば東のガソリンスタンド」
『了解しました』
保存食を腹に入れ、工具とM-68を確認する。残弾9発。昨日打った膝にはまだわずかな痛みが残っているが、動く分には問題ない。
「行くか」
『はい』
病院を出てバイクに跨がると、ピコが飛んできて二本の腕でヘルメットを掴んだ。
「……お前、そこが気に入ったのか?」
『移動中の安定性が高い位置です』
「俺の頭なんだけどな」
『認識しています』
「なら少しは遠慮しろ」
返事はなかった。
昨日と同じ道を北へ走る。
10分ほどで、あの食品店が見えてきた。
バイクを停め、店内へ入る。昨日倒した哨戒型は、床に転がったまま動いていなかった。
『完全停止を確認』
「昨日も確認しただろ」
『再確認です』
「慎重でよろしい」
地下へ降りる。
昨日見つけた食料と水タンクを確認し、必要な分だけ水を確保する。期限切れのフィルターを通したあとで煮沸するつもりだ。準備だけ済ませ、昨日は調べきれなかった保管庫の奥へ向かった。
金属製の扉を開けると、そこは小さな作業室だった。
壁際には工具棚。中央には作業台。床には古びた箱がいくつも積まれている。
「……当たりだな」
『使用可能と思われる工具を複数確認しました』
棚を調べると、レンチ、ドライバー、プライヤー、配線工具。そのほかにもヒューズや端子、ケーブル、小型のリレーまで残っていた。古いものばかりだが、整備すれば使えそうなものも多い。
「こういうのが欲しかったんだよ」
『すべて持ち帰りますか?』
「ああ」
『一度での運搬は困難です』
「じゃあ二回」
『三回を推奨します』
「……そんなにある?」
『はい』
悪くない。
むしろ、昨日より荷物が増えるなら歓迎だった。
俺は使えそうな工具を選別しながら、さらに室内を調べていく。その途中、奥の棚の裏へ何本もの太いケーブルが伸びていることに気づいた。
「ピコ。これ、どこ行ってる?」
『確認します』
ピコが棚の奥へ回り込み、ライトで壁を照らした。
『主様。奥に空間があります』
「空間?」
棚の中身を降ろし、二人で少しずつ横へずらす。金属の脚が床を擦り、耳障りな音が地下へ響いた。
その向こうから現れたのは、壁に埋め込まれた金属製の扉だった。
表面の表示はほとんど剥がれていたが、まだ読める。
《非常用設備室》
「……こんなのあったのか」
『昨日の探索では確認していません』
「見落としたな」
錆びついた取っ手を握る。何度か力を込めると、金属が軋み、扉がゆっくり開いた。
中へライトを向ける。
太い配管。制御盤。大型の筐体。そして奥には、発電設備らしき機械が沈黙したまま並んでいた。
「……でかいな」
俺は中へ入り、設備を一つずつ目で追った。長期間停止しているように見えるが、外から見ただけでは状態までは分からない。
「ピコ。電源系統、見られる?」
『確認します』
ピコが制御盤へ近づく。
数秒後、小さな電子音がした。
『完全な停止状態ではありません』
「どういうこと?」
『一部回路に微弱な電圧を確認しました』
「……まだ生きてるのか」
『可能性があります』
俺は奥の機械へ近づいた。
もし使えるなら、話は大きく変わる。
これまで病院では、必要な機器を動かすときだけ手持ちの電源を使ってきた。まとまった電力が確保できれば、照明も、工具も、充電も、今よりずっと楽になる。
だが、今すぐ触る気にはなれなかった。
長期間放置された設備を、状態も分からないまま動かすのは危険だ。
「今日は調べるだけにする」
『賛成します』
「燃料も必要だろうしな」
『燃料の種類を確認する必要があります』
「じゃあ、ガソリンスタンドを見る意味も増えた」
『はい』
昨日まで知らなかった場所に、使えるかもしれない設備がある。
それだけでも十分な収穫だった。
工具を持ち帰る準備をしようとした、そのときだった。
カタン。
小さな音がした。
俺は手を止める。
「……?」
設備室を見回す。
何もない。
配管か、どこかの金属が軋んだだけかもしれない。
そう思って作業へ戻ろうとした。
カタン。
今度は、はっきり聞こえた。
しかも近い。
「ピコ」
『はい』
「今の聞いた?」
『はい。音源を確認します』
ピコが設備室の奥へ飛んでいく。俺もM-68へ手を添え、その後を追った。
発電設備のさらに奥に、人ひとりが通れるほどの細い通路があった。
「……まだ奥があるのか」
ピコのライトだけが暗闇を白く切り取る。
数メートル進んだところで、ピコが止まった。
『主様』
「なんだ」
『生体反応を検知しました』
足が止まる。
「……生体反応?」
『はい』
「数は?」
『一名です』
反射的にM-68へ伸びかけた手を止める。
『敵性反応は確認されません』
「人間?」
『生体反応からは、その可能性が高いと判断します』
「大きさは?」
わずかな間。
『推定、6歳から8歳程度』
「……子ども?」
『はい』
こんな場所に。
地下施設の、そのさらに奥に。
子どもがひとりいる。
通路の先には、小さな金属扉があった。完全には閉じておらず、わずかに隙間が開いている。
そこから音がした。
くすっ。
俺は目を細める。
「……今、笑った?」
『はい。音声として確認しました』
扉へ近づく。
「誰かいるのか?」
返事はない。
「聞こえてるなら、出てきてくれ」
沈黙。
その代わり、扉の向こうで布が擦れる音がした。
そしてまた、
くすっ。
「……いるな」
扉の前まで来て、手を伸ばす。
その瞬間だった。
「わっ!!」
「――っ!」
扉の脇の死角から、小さな影が飛び出した。
反射的に一歩下がる。
少女だった。
7歳くらいだろうか。小さな身体に細い手足。少し大きめの淡い色の服を着て、肩には小さな布袋を斜めに掛けている。
そして何より目を引いたのは、肩まで伸びた淡い水色の髪だった。
薄暗い地下の中で、その色だけが妙に鮮やかに見えた。
少女は俺の前で止まると、大きな目でこちらを見上げた。
それから、にこっと笑う。
「ねね、びっくりした?」
「……」
「びっくりした?」
「……した」
その瞬間、少女の顔がぱっと明るくなった。
「やったぁ! せいこうー!」
その場で小さく跳ねる。
俺はしばらく言葉が出なかった。
「……お前、俺を驚かせるために隠れてたの?」
「うん!」
「ずっと?」
「うん」
「どのくらい?」
少女は少し考えた。
「……わかんない」
「分かんないのか」
「うん」
けろっとしている。
どうやら本当に、俺たちが来たから隠れて驚かせただけらしい。
「もっとびっくりしてよ」
「十分したよ」
「ほんと?」
「ああ」
「じゃあ、よかった」
満足そうに笑う。
なんなんだ、こいつ。
少なくとも、怯えているようには見えなかった。
俺が観察していると、今度は少女のほうが興味深そうに俺を見上げる。
「おじさん、だれ?」
「……おじさん?」
「うん」
「俺はおじさんじゃない」
「じゃあ、おにいさん?」
「……まあ、それでいい」
少女は少し考えた。
「じゃあ、おじさん」
「なんで戻るんだよ」
少女が楽しそうに笑う。
どうやら、もう訂正するだけ無駄らしい。
俺はしゃがんで目線を合わせた。
「名前は?」
「名前?」
「ああ。お前の名前」
少女は首を傾げ、それから部屋の奥を指差した。
「そこにかいてあるよ」
古い端末が置かれていた。画面はほとんど消えているのに、脇の小さな表示灯だけが弱々しく点滅している。
そこに残っていた文字を読む。
《IS-003》
「……アイエス、ゼロゼロスリー?」
「うん」
「これがお前の名前?」
「たぶん」
「たぶん?」
「ここにかいてあるから」
あまりにも当たり前のように答える。
自分の名前を聞かれて、「書いてあるから」と答える子ども。
妙な返事だった。
「ピコ。この端末、読める?」
『確認します』
ピコが端末へ飛んでいく。
すると少女の興味も、すぐそちらへ移った。
「わあ」
『何でしょうか』
「飛んでる」
『はい』
「どうして?」
『プロペラによって飛行しています』
「さわっていい?」
『可能です』
少女はそっとピコへ手を伸ばし、金属製の身体に触れた。
「つめたい」
『金属製です』
「そうなんだ」
今度は両手で触る。
「やっぱりつめたい」
『先ほども同じ感想を述べています』
「だってつめたいんだもん」
思わず鼻で笑った。
少女が振り返る。
「おじさん、わらった!」
「笑ってない」
「わらったよ!」
「気のせいだ」
「ふーん」
少女は納得していない。
俺は立ち上がり、改めて周囲を見回した。
小さな部屋だった。
古い端末と棚。薄い毛布。それくらいしかない。
食器がない。
水を入れる容器もない。
食料もない。
子どもが暮らしている場所としては、あまりにも何もなかった。
「……お前、ここで暮らしてるの?」
「うん」
「ひとりで?」
「うん」
「食べ物は?」
「……?」
少女が首を傾げる。
「飯だよ。食べるもの」
「めしって?」
「……食べるもの」
「たべるって?」
俺は黙った。
冗談を言っている顔ではない。
「じゃあ、水は?」
「みず?」
「飲むやつ」
「のむって?」
また、言葉に詰まる。
少女は俺が困っている理由すら分からないらしく、不思議そうにこちらを見ていた。
「腹、減らないの?」
「おなか?」
自分の腹を見下ろす。
「ここ?」
「ああ」
「どうなるの?」
「……空腹になる」
「くーふく?」
「腹が減るってこと」
「わかんない」
「……そうか」
どういうことだ。
食べることを知らない。
飲むことも知らない。
それなのに、目の前にいる。
元気に笑って、喋って、俺を驚かせて喜んでいる。
『主様』
ピコの声に振り返る。
「読めた?」
『一部のみ。個体識別番号、IS-003』
「それ以外は?」
『破損しています。ただし、登録記録そのものは戦争開始以前から存在します』
少女を見る。
見た目は7歳ほど。
戦争が終わって5年。その戦争が始まるより前から、IS-003という記録が存在している。
「……お前、いつからここにいる?」
「わかんない」
「誰かと一緒にいたことは?」
「わかんない」
「父親とか、母親は?」
少女はまた首を傾げた。
「わかんない」
悲しそうには見えなかった。
忘れて悲しんでいるんじゃない。
最初から、自分には関係のない言葉を聞かされているような顔だった。
「外に出たことは?」
「そと?」
「ああ。ここじゃない場所」
少女は首を横に振る。
「ないよ」
「一回も?」
「うん」
「……外がどんなところかも?」
「わかんない」
そして、少し考えてから俺を見る。
「おじさんは、そとからきたの?」
「ああ」
「そとって、どんなとこ?」
俺は答えようとして、少し迷った。
窓もない地下でずっと過ごしてきた子どもに、今の世界をどう説明すればいい。
「……広いよ」
「ひろい?」
「ああ。ここより、ずっと」
「なにがあるの?」
「いろいろ」
「いろいろ?」
「建物とか、道路とか。空もある」
「そら?」
「ああ」
少女の目が少しだけ大きくなる。
知らない言葉を、一つずつ拾っている。
「ひとは?」
その問いに、少しだけ言葉が止まった。
「……少ない」
「そっか」
少女はそれ以上聞かなかった。
俺は、もう一度この部屋を見る。
毛布。
端末。
棚。
それだけ。
この少女が何者なのかは分からない。
なぜここにいるのかも、なぜ食べる必要がないのかも、戦争より前から記録が存在する理由も分からない。
分からないことしかない。
それでも。
この部屋にこいつを残して、ひとりで病院へ帰る自分を想像した。
……無理だな。
「なあ」
「うん?」
「ここから出てみる?」
少女が瞬きをする。
「ここから?」
「ああ」
「どこに?」
「外」
「……そと」
少女は覚えたばかりの言葉を、確かめるように口にした。
「ここじゃないところ?」
「ああ」
「おじさんもいく?」
「俺も行く」
少女は少し考えた。
そして笑う。
「じゃあ、いく!」
「即決だな……。怖くないの?」
「わかんない」
「そうか」
「でも、おじさんいるから」
「……」
思わず目を逸らす。
その呼び方は相変わらず気に入らない。
なのに、今は訂正する気になれなかった。
「じゃあ、準備して」
「じゅんび?」
「持っていきたいものがあるなら持ってこい」
「わかった!」
少女は部屋の隅へ走っていく。
そこで手に取ったのは、小さな布袋だった。
肩から斜めに掛け、満足そうに戻ってくる。
「それ、中は?」
「ん?」
袋を開く。
空っぽだった。
「……何も入ってないじゃん」
「うん」
「何のための袋?」
「わかんない!」
「じゃあ置いてけば?」
「やだ」
即答だった。
少女は大事そうに袋を押さえる。
「もっていくの」
「……そうか」
理由は分からない。
でも、本人が持っていきたいならそれでいい。
「じゃあ行くぞ」
「うん!」
少女が俺の袖を掴む。
そのまま歩き出そうとしたところで、急に手を離した。
「おじさん」
「なんだ」
「さいごにもっかい!」
「何を」
少女がにやっと笑った。
「びっくりさせるの」
「……まだやるの?」
「こんどはもっとびっくりするよ」
言うなり、机の陰へ走っていった。
水色の髪が少し見えている。
本人は隠れているつもりらしい。
「…………」
帰っていいだろうか。
いや、駄目か。
俺は仕方なく、わざとらしく周囲を見回した。
「……あれー。いないなー」
机の陰から、小さな笑い声が漏れる。
「どこ行ったんだろうなー」
「…………」
肩まで震えている。
下手すぎる。
なんで俺がこんなことを。
「まあ、いいか。帰ろ」
出口へ歩き出す。
「え、まって!」
少女が慌てて飛び出した。
「あ」
固まった。
俺を見る。
俺も見る。
「……いまのなし」
「なんでだよ」
「まだ、びっくりさせてない」
「十分びっくりしたよ」
「うそ」
「ばれたか」
「つぎはちゃんとやる」
「はいはい」
不満そうに頬を膨らませたのも一瞬で、すぐにまた俺の袖を掴んだ。
暗い通路を戻る。
ピコが少し前を飛び、その後ろを俺と少女が歩く。
やがて階段を上り、崩れた店内へ出ると、割れた入口の向こうから朝の光が差し込んでいた。
少女の足が止まった。
「……あかるい」
「外だからな」
「これが、そと?」
「ああ」
俺たちは店を出た。
少女が眩しそうに目を細める。
淡い水色の髪が、朝の風に揺れた。
目の前にあるのは、崩れた建物と、瓦礫に塞がれた道路。錆びた車。ひび割れたアスファルト。その上に広がる、どこまでも続く空。
綺麗な世界ではない。
むしろ、壊れた世界だ。
それでも少女は、何も言わずに見ていた。
空を見上げる。
道路の先を見る。
風に揺れる草を見る。
初めて見るものばかりなのだろう。
しばらくして、小さく呟いた。
「……ひろい」
「ああ」
少女はまだ空を見ている。
やがて俺の袖を少し強く握った。
「おじさん」
「なんだ」
こちらを見上げる。
笑っていた。
「ひろいね!」
俺は一度だけ頷いた。
「ああ」
『主様』
「なんだ」
『出発しないのですか?』
「……するよ」
バイクへ向かって歩き出す。
数歩進んだところで、袖が引かれた。
少女がまだ空を見上げている。
「おい。行くぞ」
「うん!」
俺の隣に、小さな足音が増えた。
ピコが少し先を飛んでいる。
昨日までなら、それだけだった。
「おじさん、あれなに?」
「どれ?」
「あれ!」
「だからどれだよ」
少女の指は、空のどこかを指していた。
病院へ戻るまでには、少し時間がかかりそうだった。
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