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アイは、生きている。  作者: LALA
第4章 IS計画
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34/47

Ep.33 はんかち。

 

挿絵(By みてみん)


 翌朝、空は昨日より明るかった。雲は薄く、東の崩れた建物群の隙間から白っぽい朝日が差し込んでいる。病院の廊下には夜の冷気がまだ残っていて、窓の割れた区画から入り込む風が、壁際に溜まった埃をわずかに動かしていた。

 俺はバイクの横にしゃがみ、後輪の空気圧を確認していた。

 昨日の探索で異常は出ていない。それでも、遠出する前には見る。タイヤ、ブレーキ、駆動系、電装、燃料。戦争中から染みついた習慣だった。

 『主様。始動系統、正常です』

 「燃料は」

 『本日の集落往復のみであれば十分です』

 「その先は?」

 『14.9km地点への遠征を想定する場合、経路確定後の再計算を推奨します』

 「だな」

 工具をしまい、立ち上がる。

 今日は遠征そのものではない。

 まず集落へ行く。

 久世から外側の状況を聞き、蓮が実際に通った経路を確認する。それから14.9km地点へ向かう日程を決める。

 18.4kmの旧技術施設は、その後だ。

 順番を飛ばさない。

 知らない場所ほど、それが大事になる。

 「おじさん」

 声の方を見る。

 アイが非常口から出てきた。

 小さな鞄を斜めに掛けている。昨日磨いていた金属のカップは入れていないらしい。鞄の膨らみもほとんどない。

 「準備できたか」

 「できた」

 「歯ブラシは?」

 「ある」

 「聞く必要なかったな」

 アイは鞄の上から確かめるように触った。

 「もってく」

 「好きにしろ」

 あれだけは置いていく気がないらしい。

 俺はM-68を確認する。12発。予備はない。

 昨日も撃たなかった。

 今日も撃たずに帰りたい。

 『出発可能です』

 「よし」

 アイを前に乗せ、エンジンを始動する。

 ピコが浮上した。

 朝の病院を背に、俺たちは集落へ向かった。

 道中に異常はなかった。

 昨日8.6km地点で受信した信号も、こちらの経路では検出されない。ピコは何度か広域走査を行ったが、既知の自律兵器反応は拾わなかった。

 だからといって安全とは限らない。

 反応がないことと、何もいないことは別だ。

 集落が見えてくると、入口付近に立っていた男がこちらに気づいた。

 久世だった。

 こちらへ銃口を向けることはない。それでも俺たちだと確認するまで、右手は腰の近くから動かなかった。

 バイクを止める。

 「早いな」

 久世が言った。

 「昨日の今日で悪い」

 「来ると思ってた」

 「なんで」

 「真壁さんに18km先の話を聞かされた顔じゃなかった」

 「どんな顔だよ」

 「行く奴の顔」

 俺は何も言わなかった。

 久世が小さく息を吐く。

 「やっぱりな」

 アイがバイクから降りる。

 久世を見る。

 「くぜ」

 「ああ」

 「みおいる?」

 「いる」

 アイの顔が明るくなった。

 「先に行っていい?」

 俺を見る。

 「入口で待て。勝手に奥へ行くなよ」

 「うん」

 アイが集落の中へ向かう。

 走らない。

 前に教えたことを覚えている。

 入口近くまで行ったところで、向こうから澪が気づいた。

 「アイ!」

 今度は澪の方が走ってきた。

 後ろから奈緒の声が飛ぶ。

 「澪、膝!」

 澪の速度が露骨に落ちた。

 アイもそれを見て止まる。

 2人が何か話し始めたのを確認してから、俺は久世へ向き直った。

 「蓮は?」

 「朝からいる。呼ぶ」

 「その前に話したい」

 久世の目が少し細くなる。

 「外か」

 「ああ」

 俺たちは入口脇の壊れたコンクリート壁へ移動した。ピコも俺の肩ほどの高さについてくる。集落の人間から少し距離を取り、俺は端末を取り出した。

 昨日更新した地図を表示する。

 「ここまで行った」

 8.6km地点を示す。

 久世が画面を見る。

 「ずいぶん手前で戻ったな」

 「理由ができた」

 通信中継器の位置を開く。

 「旧式の通信設備が生きてた」

 「軍用?」

 「ピコ」

 『旧軍技術支援系統の通信規格と部分的に一致しました。ただし軍所有設備であったことを保証するものではありません』

 久世がピコを見る。

 「相変わらず細かいな」

 『誤認防止です』

 「嫌いじゃない」

 『評価を記録する必要性を認めません』

 久世の口元がほんの少し動いた。

 俺は続ける。

 「問題はこっちだ」

 復元した通信記録を表示した。

 《IS-003》

 《照合》

 《接続要求》

 久世の表情から笑いが消えた。

 「これ、昨日真壁さんに見せたやつじゃないな」

 「昨日の帰りにはなかった」

 「新しく拾った?」

 「ああ」

 「IS-003」

 久世がその文字を読む。

 俺は黙っていた。

 久世はアイの方を見なかった。

 そこは助かった。

 「送信元は」

 「分からない。ただ、方向は18.4km地点と大きく外れてない」

 「罠の可能性は?」

 「ある」

 「お前らが来たから起動した可能性は」

 「ある」

 「向こうがお前らを認識してる可能性」

 「それもある」

 久世は頭を掻いた。

 「嫌な答えばっかりだな」

 「俺もそう思う」

 しばらく2人で地図を見る。

 久世が14.9km地点を指した。

 「まずこっちか」

 「ああ」

 「蓮の見つけた脚部支援装置」

 「場所を確認したい。できれば回収する」

 「動くと思うか?」

 「見なきゃ分からない」

 「壊れてるぞ」

 「壊れてるから見るんだよ」

 久世が俺を見る。

 「技術屋はそれ言うな」

 「元技術屋だ」

 「今もだろ」

 否定はしなかった。

 「それと、蓮を案内に借りたい」

 久世の顔が変わった。

 予想していた反応だった。

 「どこまで」

 「14.9km地点まで」

 「18.4kmは?」

 「連れていかない」

 即答する。

 久世は数秒黙った。

 「理由は」

 「蓮が知ってるのは14.9km周辺までだ。そこから先は案内役としての意味が薄い。それに、18.4km地点で何が待ってるか分からない」

 「14.9kmだって分からんぞ」

 「だからお前に聞いてる」

 久世は地図へ視線を戻した。

 「俺なら反対する」

 「そうか」

 「でも、あいつに聞かずに決めたら面倒になる」

 「そういう奴か」

 「そういう奴だ」

 ちょうどそのときだった。

 「俺が何?」

 背後から声がした。

 振り返る。

 蓮が立っていた。

 肩に古い工具袋を掛けている。

 「盗み聞きか」

 「普通に聞こえた」

 「いつから」

 「おっさんが俺を借りたいってところ」

 「言い方」

 蓮が笑う。

 「で、行くの?」

 「まだ決めてない」

 「俺は行く」

 「お前の意見だけで決めない」

 「俺の案内が欲しいんだろ?」

 「欲しい。でも死なれたら困る」

 蓮の表情が少しだけ変わった。

 「死なねえよ」

 「そう言って死んだ奴を何人も見た」

 軽く言ったつもりはなかった。

 蓮もすぐには返さなかった。

 久世が俺を見る。

 何かを察したようだったが、口は挟まない。

 蓮が工具袋の紐を握り直す。

 「……俺だって、遊びで外出てるわけじゃない」

 「ああ」

 「3か月前も、あそこまで行って帰ってきた」

 「それも聞いてる」

 「なら」

 「前に帰れたから次も帰れるとは限らない」

 蓮が眉を寄せる。

 反発するかと思った。

 だが、久世が先に口を開いた。

 「蓮」

 「何」

 「経路を全部話せ」

 「今?」

 「今だ」

 久世は地図を指した。

 「話を聞いてから決める」

 蓮は少し不満そうだったが、俺の端末の前へ来た。

 「ここ」

 指したのは、現在の地図でほとんど情報のない南東側だった。

 「大きい道は途中で潰れてる。俺はこの辺から住宅地に入った」

 「徒歩?」

 「途中から。最初は自転車」

 「自転車あるのか」

 「あるよ。ボロいけど」

 「先に言え」

 「聞かれてない」

 久世が額を押さえた。

 「続けろ」

 蓮の指が地図上を進む。

 「ここに昔の高架がある。上は無理。でも下を抜けられる。そこから工場みたいな場所を通って――」

 「待て」

 俺は位置を記録する。

 「ここで何か見たか」

 「機械の跡」

 「種類」

 「分かんない。脚が細いやつ。人間じゃない」

 「数」

 「跡だけなら2つか3つ」

 「新しかった?」

 蓮が考える。

 「泥が乾いてた。雨の前だから……今はもう分かんない」

 「3か月前だろ?」

 「そのときの話」

 「なら今の状況は全く別物だと思った方がいいな」

 「分かってる」

 蓮は続ける。

 14.9km地点の少し手前には、半壊した物流施設があるらしい。その裏側に古い軍用車両が数台放置され、そのうち1台の近くで脚部支援装置を見つけたという。

 「なんで持って帰らなかった」

 「重い。あと壊れてた」

 「どこが」

 「右脚の下の方。曲がってた。ケーブルも出てた」

 「電源部は?」

 「知らない」

 「腰部フレーム」

 「知らない」

 「制御器」

 「知らないって」

 「何見てきたんだよ」

 「壊れた機械」

 『倉田蓮の観察目的は機材評価ではなかったと推定します』

 「ピコ、お前どっちの味方だ」

 『味方という分類で回答する必要を認めません』

 蓮が笑った。

 「やっぱこいついいな」

 「持って帰る?」

 「ピコを?」

 「うん」

 『拒否します』

 「即答だな」

 『私は主様と行動します』

 蓮が俺を見る。

 「愛されてんな、おっさん」

 「管理権限だそうだ」

 『はい』

 「そこは否定してくれていいんだぞ」

 『事実です』

 久世が小さく咳払いした。

 「話戻すぞ」

 「悪い」

 久世は地図を見たまま言う。

 「14.9kmまでなら、条件付きで蓮を出してもいい」

 蓮が顔を上げる。

 「条件?」

 「俺も行く」

 今度は俺が久世を見る。

 「お前も?」

 「ああ」

 「集落は」

 「榊さんと相談する。まあ、俺が1日抜けた程度で崩れるなら、そもそも集落として終わってるがな」

 「でも警備担当だろ」

 「だからこそ外の状況を見る必要がある」

 久世は8.6km地点を指した。

 「こんなのが動き始めてるなら、集落にも関係する」

 それは正しい。

 俺たちだけの問題ではなくなる可能性がある。

 「ただし」

 久世が俺を見る。

 「14.9kmで終わりだ。18.4kmには行かない」

 「最初からそのつもりだ」

 「その顔で言われても信用できんな」

 「どんな顔だよ」

 「行く奴の顔」

 さっきも聞いた。

 蓮が笑う。

 「おっさん、分かりやすいんじゃね?」

 「お前は黙ってろ」

 「俺、案内役」

 「まだ決定してない」

 「久世さん行くって言ったじゃん」

 「榊に聞いてからだ」

 「じゃあ聞いてくる」

 蓮が走り出そうとする。

 久世が襟首を掴んだ。

 「お前が行くな」

 「なんで」

 「話を都合よく変えるからだ」

 「信用ねえな」

 「信用はない、だが実績がある」

 久世は蓮を引き戻すと、俺へ向いた。

 「榊さんと話してくる。待ってろ」

 「ああ」

 久世が集落の奥へ向かう。

 蓮もついていこうとしたが、

 「お前はそこにいろ」

 背中を向けたまま言われた。

 蓮が止まる。

 「聞こえてんのかよ」

 『音声到達距離としては十分です』

 「ピコ、お前ほんと真面目だな」

 『はい』

 「褒めてない」

 『評価を修正する必要はありません』

 妙に会話が成立している。

 俺は2人から少し離れ、アイの方を見た。

 澪と一緒に座っている。

 奈緒も近くにいた。

 澪が何かを手に持っている。

 アイがそれを覗き込んでいた。

 しばらくすると、アイがこちらへ気づいた。

 立ち上がり、何かを両手で持って走ってくる。

 途中で速度を落とした。

 走るなと言われたのを思い出したらしい。

 「おじさん」

 「どうした」

 アイが手を開いた。

 小さな布切れが乗っていた。

 青でも白でもない、くすんだ薄い黄色の布だ。端が縫われていて、掌に収まる程度の大きさしかない。

 「何だそれ」

 「みおがくれた」

 澪を見る。

 少し離れた場所からこっちを見ている。

 「何に使うんだ?」

 アイが首を傾げた。

 「わからない」

 「分からないもの貰ったのか」

 後ろから澪の声が飛んできた。

 「ハンカチ!」

 「だってさ」

 アイが布を見る。

 「はんかち」

 「手とか拭くやつだ」

 「て」

 アイは自分の手を拭こうとした。

 「今は汚れてないだろ」

 止まる。

 「じゃあ、いつ?」

 「汚れたとき」

 「あと?」

 「汗とか。口とか。まあ色々」

 アイは布を広げた。

 端の一角に、黒い糸で小さな印が縫われている。

 花……に見えなくもない。

 かなり歪んでいる。

 澪がやってきた。

 「それ、わたしが縫った」

 「これ?」

 「花」

 やっぱり花だったらしい。

 「ちょっと失敗したけど」

 アイがじっと見る。

 「はな」

 「うん」

 「みおが?」

 「うん。前にお母さんに教えてもらったの」

 アイはしばらくハンカチを見ていた。

 それから澪を見る。

 「アイの?」

 「あげたんだからアイのだよ」

 アイの表情が変わった。

 歯ブラシを初めて渡したときと、少し似ている。

 「アイの」

 「そう」

 「もってていい?」

 澪が笑った。

 「だからあげたんだって」

 アイは小さな鞄を開いた。

 歯ブラシの横へ、丁寧に畳んだハンカチを入れる。

 俺は何も言わなかった。

 これはいい。

 使えるからでも、貴重だからでもない。

 澪がアイに渡した。

 それだけで、こいつには持っている理由がある。

 「なくすなよ」

 俺が言うと、アイは鞄を閉じた。

 「なくさない」

 澪が嬉しそうに笑う。

 「次来たとき持ってきてね」

 「うん」

 「使っていいんだからね」

 アイが一瞬止まる。

 鞄を見る。

 「……つかう?」

 「ハンカチだから」

 「よごれる」

 「洗えばいいよ」

 「……」

 どうやら大事にする方向を間違えそうだ。

 「使え」

 「やだ」

 「何のためのハンカチだよ」

 「アイの」

 「理由になってない」

 澪が笑い出した。

 アイもつられて笑う。

 その声を聞きながら、俺はふと思った。

 地下で見つけたとき、こいつには何もなかった。

 名前も。

 自分の物も。

 待っている相手も。

 今は違う。

 鞄の中に歯ブラシがある。

 病院には古い金属のカップがある。

 そして今、友達からもらった小さなハンカチが増えた。

 数は少ない。

 たぶん、それでいい。

 大事なのは中身の数じゃない。

 その一つ一つを、こいつが自分のものだと思えることだ。

 「ユウ」

 久世の声がした。

 振り返る。

 久世と榊がこちらへ歩いてくる。

 榊の表情を見る限り、簡単に許可が出たわけではなさそうだった。

 俺はアイへ言う。

 「澪のところにいていいぞ」

 「うん」

 アイが戻っていく。

 途中で一度鞄を押さえた。

 中身を確かめるように。

 俺は榊たちの方へ向かった。

 榊は俺の前まで来ると、挨拶より先に地図を見せろと言った。

 端末を渡す。

 久世からすでに概要は聞いているらしく、14.9km地点と8.6kmの通信設備を順番に確認していく。

 「18.4kmには行かないんだな」

 「ああ。今回は」

 「今回は、か」

 「嘘ついても仕方ない。いずれ行く」

 榊は俺を見る。

 「その子も連れて?」

 視線の先にはアイがいる。

 俺は少し黙った。

 「まだ決めてない」

 「決めてから出ろ」

 「分かってる」

 「それと蓮」

 榊が言う。

 「本人が行きたがっている。久世も同行する。だから今回は止めない」

 蓮が小さく拳を握るのが見えた。

 「ただし、日帰りだ」

 榊は続ける。

 「日没前に戻れないと判断した時点で引き返せ。機械が取れなくても戻れ。何か見つけても、予定外の場所まで追うな」

 「分かった」

 久世も頷く。

 蓮だけが黙っている。

 榊が見る。

 「蓮」

 「分かってる」

 「返事」

 「分かりました」

 「よし」

 榊は俺へ端末を返した。

 「いつ出る」

 「明日」

 「早いな」

 「天候と道路が悪くなる前に行きたい」

 『明日の降水可能性は低いと推定します』

 ピコが補足する。

 榊が小さな機械を見た。

 「便利だな」

 『限定された観測情報に基づく推定です』

 「褒めても素直に受け取らないな」

 「仕様だ」

 『仕様として登録された記録はありません』

 「こういう仕様だ」

 榊が少し笑った。

 そのあと、出発時刻と装備について簡単に詰めた。

 明朝、俺たちが集落へ寄る。

 そこから久世と蓮を加えて14.9km地点へ向かう。

 バイクは途中まで使う。蓮の話では、10kmを越えたあたりから道路状態が急激に悪くなる。そこから先は徒歩になる可能性が高い。

 回収物が大きすぎれば、その日は場所と状態だけ確認して帰る。

 無理に持ち帰らない。

 18.4km地点へは進まない。

 それで決まった。

 話が終わる頃には、昼近くになっていた。

 俺はアイを呼びに行った。

 澪と2人で地面に何か描いている。

 「帰るぞ」

 アイが顔を上げる。

 「もう?」

 「ああ。明日の準備がある」

 澪が少し残念そうな顔をした。

 「明日も来る?」

 「来る」

 アイが答える。

 「でも、そのあと、いく」

 「どこ?」

 アイが俺を見る。

 答えていいか確認しているらしい。

 「遠く」

 俺が代わりに言った。

 澪がアイを見る。

 「帰ってくる?」

 アイはすぐに頷いた。

 「かえる」

 その言葉が妙に自然になっていた。

 澪が笑う。

 「じゃあ、またね」

 「またね」

 アイが答える。

 俺は一瞬だけそちらを見る。

 誰に教わったのか聞こうとして、やめた。

 今はそれより、2人が普通に別れの言葉を交わしていることの方が大事な気がした。

 帰りのバイクで、アイは何度か鞄を触っていた。

 「そんなに気になるなら落とさないようにしろよ」

 「だいじょうぶ」

 「ハンカチだろ」

 「うん」

 「ちゃんと使えよ」

 「やだ」

 「まだ言ってんのか」

 「よごれる」

 「ハンカチは汚れるためにある」

 『厳密には衛生維持を目的とした布製品です』

 「お前はどっちの味方なんだよ」

 『質問の前提が不明です』

 前に座るアイの肩が小さく揺れた。

 笑っている。

 俺はそれ以上言わなかった。

 病院へ戻ると、明日の遠征準備を始めた。

 水。

 食料。

 工具。

 ロープ。

 応急処置用品。

 予備電源。

 M-68、12発。

 ピコの簡易補修用品も入れる。

 アイはその横で、自分の鞄を開いていた。

 歯ブラシ。

 薄黄色の小さなハンカチ。

 それだけ確認すると閉じる。

 金属のカップには手を伸ばさなかった。

 持っていく物と置いていく物を、自分で決め始めている。

 「準備できた?」

 「ああ」

 「アイも」

 「明日は今日より遠いぞ」

 「うん」

 「途中で戻るかもしれない」

 「うん」

 「何か見つけても勝手に触るな」

 「うん」

 「俺から離れるな」

 「うん」

 少し間を置いて、アイが俺を見る。

 「おじさんも」

 「何が」

 「アイから、はなれない」

 俺は荷物を詰める手を止めた。

 「状況による」

 アイの眉が寄る。

 「だめ」

 「偵察するなら離れることもある」

 「ピコがいく」

 『私に一任されることは推奨しません』

 「ほら」

 「じゃあ、おじさんとピコ」

 「お前は?」

 「まんなか」

 思わず笑った。

 「何だそれ」

 「はなれない」

 こいつなりの解決策らしい。

 「できる範囲でな」

 「できる」

 「断言するな」

 アイは満足したように頷いた。

 俺は荷物を閉じる。

 明日向かうのは、14.9km地点。

 蓮が見つけた壊れた軍用脚部支援装置。

 その先には18.4km地点の旧技術施設がある。

 そして途中では、5年前の通信設備がIS-003を呼んだ。

 ただの物資探索ではなくなっている。

 それでも明日は、まず14.9kmまでだ。

 一つずつ確認する。

 一つずつ進む。

 急げば早く答えに辿り着けるとは限らない。

 隣では、アイがまた鞄の上からハンカチの位置を確かめている。

 明日の目的地に何があるのかは分からない。

 だが、ひとつだけ確かなことがある。

 地下から連れ出したときには何も持っていなかったこいつが、今は失くしたくないものを持っている。

 それだけでも、あの頃とはもう違っていた。

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