Ep.31 ……いつかな。
翌朝、目を覚ましたとき、最初に聞こえたのは金属同士が擦れる小さな音だった。
窓の外はまだ薄暗い。夜の青さが残った空の下で、崩れた街の輪郭だけが黒く浮かんでいる。風は弱く、昨日までの雨が残した湿気が廊下の奥に溜まっていた。
俺は上体を起こした。
背中が痛い。
正確には腰から肩甲骨にかけて、鈍く固まっている。
「……歳か」
『主様は32歳です』
頭上から声がした。
見上げると、ピコが天井近くを飛んでいた。2基のローターが低い音を立てている。
「聞いてない」
『独り言に対する補足です』
「補足するな」
身体を伸ばす。肩を回すと、背中が小さく鳴った。
やっぱり床で寝たのが効いている。
病院へ戻ってきた安心感のせいで、昨日は寝床を整える前にそのまま眠ってしまった。
『睡眠時間、6時間42分』
「十分だろ」
『途中覚醒2回』
「覚えてない」
『主様の記憶より記録を推奨します』
「朝から喧嘩売ってる?」
『事実側です』
最近その言葉を覚えてから、やたら使うようになった。
原因は蓮だ。
あいつとピコを会わせたのは失敗だったかもしれない。
そのとき、廊下の向こうから小さな足音が近づいてきた。
アイだった。
「おはよう」
「ああ。おはよう」
「おじさん、いたい?」
「何が」
アイは俺の背中を指した。
さっき伸ばしていたのを見ていたらしい。
「ちょっと固まってるだけだ」
「けが?」
「違う」
「じゃあ、いたくない?」
「……ちょっと痛い」
アイが近づいてきた。
俺の背中を見る。
当然、服の上から見たところで何も分からない。
「なおる?」
「動いてりゃ治る」
「ピコみたいに?」
「俺は部品交換できないからな」
『交換可能な部位は限定的に存在します』
「朝から怖い話するな」
アイが自分の腕を見る。
それから俺の腕を見る。
「おじさん、こわれたら?」
「壊れないようにする」
「こわれたら」
妙に食い下がる。
昨日、ピコを直したことについて話したせいだろう。
俺は少し考えた。
「怪我なら治す。治らないなら、できる範囲でどうにかする」
「ピコは?」
『修理します』
「アイは?」
「お前もだ」
アイはそこで満足したらしく、小さく頷いた。
それから少し間を置いて、俺を指した。
「おじさんも」
「俺?」
「なおす」
「誰が」
「アイ」
「何ができるんだよ」
「……わからない」
「分からないのかよ」
「でも、なおす」
妙に自信だけはある。
俺は笑ってしまった。
「じゃあ、そのときは頼む」
「うん」
アイも笑った。
今のところは、それでいい。
朝食を済ませると、俺たちはすぐに準備へ入った。
壁面端末を起動し、地図を表示する。病院を中心に半径5km。その外側へ伸びる探索済みの経路。旧警察施設、検問所。そして昨日追加した14.9kmと18.4kmの地点。
俺はまず、14.9km地点までの経路を拡大した。
直線距離だけなら大したことはない。
問題は、道路が直線ではないことだ。
『倉田蓮の証言を基準にした場合、東側主要道路は通行不能である可能性が高いです』
「南へ迂回する」
『その場合、実走行距離は推定19.6kmから23.1km』
「往復40km以上か」
『旧技術施設まで継続する場合、さらに増加します』
俺は腕を組んだ。
バイクの燃料だけならどうにかなる。
問題は道路だ。
崩落区間が多ければ、そのたびに降りて押すか、迂回することになる。途中で完全に進めなくなる可能性もある。
「今日は行かない」
アイが俺を見る。
「きのうも言った」
「昨日は帰ってきたばっかりだったろ」
「きょうは?」
「偵察」
『私の出番です』
ピコがわずかに高度を上げた。
「調子乗るなよ」
『上昇高度は27cmです』
「そういう意味じゃない」
アイがピコを見上げる。
「ピコだけ?」
「ああ」
「アイもいく」
「行かない」
「おじさんは?」
「行く」
「アイも」
「お前はここ」
アイの眉が少し寄った。
分かりやすい。
「今日は戦いに行くんじゃない。道路を見るだけだ」
「アイも見れる」
「見られるな」
「じゃあいく」
「駄目」
「なんで?」
出た。
俺は地図の外縁を指した。
「この先は俺もほとんど知らない。何がいるか分からない場所に、お前を連れて行く必要はない」
「おじさんは行く」
「ああ」
「おじさんも、なにがいるかわからない」
「……そうだな」
「じゃあ、おじさんも行かない?」
今度は俺が黙る番だった。
ピコの青い目が俺へ向く。
嫌な予感がする。
『論理的整合性については、アイの主張に――』
「ピコ」
『発言を中止します』
アイはまだ俺を見ている。
「俺は道路の確認ができる」
「アイも」
「敵がいたとき対処できる」
「アイも」
それは否定できない。
むしろ、対処能力だけなら俺より遥かに危険なものを持っている。
だからこそ連れて行きたくない。
「お前のそれは使わせたくない」
アイの表情が少し変わった。
ガソリンスタンド。
病院。
自律兵器。
こいつ自身も、何かが起きることは理解している。
「……つかわない」
「使わなくて済むようにする」
「おじさん、けがする?」
「しないようにする」
「するかも?」
「可能性はある」
アイは黙った。
小さな手が、いつの間にか俺の袖を掴んでいた。
「じゃあ、アイもいく」
強くはない。
引き止めるほどでもない。
ただ掴んでいる。
俺はその手を見る。
昨日までなら、単に置いていかれるのが嫌なのだと思ったかもしれない。
今は少し違う気がした。
「……分かった」
アイが顔を上げる。
「ただし途中までだ」
「とちゅう?」
「今日は14.9kmまで行かない。病院から10km程度まで。危険があったら即戻る。俺から離れない。勝手に触らない。敵を見つけても能力は使わない」
「うん」
「全部言ってみろ」
「おじさんから、はなれない。かってにさわらない。てきがいたら――」
止まる。
「能力は?」
「つかわない」
「よし」
『探索規則の理解を確認しました』
アイが少し得意そうな顔をした。
「できた」
「ああ」
袖から手が離れる。
その瞬間、俺は少しだけ気づいた。
以前は、こいつが俺についてくる理由は単純だった。
一人になりたくない。
知らない場所が怖い。
俺しか知っている人間がいない。
それだけだった。
今は違う。
俺が危険な場所へ行くから、ついてくる。
その違いを、俺はまだ深く考えなかった。
バイクの点検には40分ほどかかった。タイヤ、駆動系、ブレーキ、電装、燃料。2061年製。7年使っている。戦争も、その後の5年もこいつと走ってきた。外装は傷だらけだが、まだ動く。
荷物は最低限にした。水、簡単な食料、工具、応急処置用品、予備バッテリー、ロープ。M-68は12発。撃たずに帰るのが理想だ。
アイの小さな鞄も確認する。
「歯ブラシ、今日は使わないだろ」
「もってく」
「まあいいけど」
さらに何かが入っている。
「それ何だ」
アイが取り出した。
古い金属のカップ。
昨日、病院で見つけたものだ。
「これも」
「重くないか?」
「だいじょうぶ」
「何に使う」
「わからない」
「じゃあ置いてけよ」
アイはカップを抱えた。
「やだ」
即答だった。
「……じゃあ持ってけ」
「うん」
自分の物が増えてきた。
最初は歯ブラシ1本しかなかった鞄だ。
いつか、この小さな袋では足りなくなる日が来るのかもしれない。
病院を出たのは午前9時を少し回った頃だった。
空は曇っているが、雨の気配は薄い。気温も低すぎない。探索には悪くない。
アイを前に乗せる。
ピコが飛び上がる。
『経路表示を開始します』
「頼む」
エンジンをかける。
音が廃墟の間を抜けていく。
最初の5kmは、見慣れた景色だった。
崩れた住宅。
横倒しになった標識。
植物に覆われた駐車場。
遠くに見える旧小学校。
俺が何度も通った道だ。
アイにとっても、もう完全に初めての景色ではない。
以前なら何かを見つけるたびに首を動かしていたが、今日は違う。知っている場所と知らない場所を区別しているように見える。
5kmを越える。
俺の地図で、密度が急に薄くなる場所だ。
道路情報が減る。
建物の記録も減る。
赤い敵遭遇マーカーもなくなる。
安全だからではない。
俺が知らないからだ。
7.2km地点で、最初の問題が起きた。
道路が消えていた。
正確には、片側2車線だった道路の中央部分が大きく陥没している。地下構造物が崩れたらしく、黒い穴が数十mにわたって続いていた。雨水が底に溜まり、深さは見ただけでは分からない。
俺はバイクを止めた。
「降りるぞ」
アイを降ろす。
ピコが穴の上へ飛んでいった。
『深度測定。最深部推定6.3m。路盤の追加崩落リスクがあります』
「渡れないな」
『推奨しません』
アイが穴を覗こうとする。
俺は服の後ろを掴んだ。
「近づくな」
「みるだけ」
「地面ごと落ちたら見るどころじゃない」
アイは素直に2歩下がった。
「これ、むかし道?」
「ああ」
「なくなった?」
「そうだな」
アイはしばらく穴を見ていた。
「なおす?」
「俺一人じゃ無理だ」
「いっぱい人いたら?」
「機械と材料もいる」
「みおたち?」
「26人でどうにかできる規模じゃないな」
「もっと?」
「ああ。もっとずっと多く必要だ」
アイは穴の向こうを見る。
「人、いっぱいになったら、なおせる?」
俺も見る。
戦争が終わってから、そんなことを考えたことはなかった。
壊れた道は避けるものだった。
直すものじゃない。
少なくとも俺にとっては。
「……いつかな」
そう答えた。
アイが俺を見る。
「いつか」
「ああ」
「アイも?」
「何が」
「なおす」
俺は少し笑った。
「その頃には、もっと上手いやつがいるだろ」
「アイもやる」
「じゃあその時は手伝ってやれ」
「うん」
その返事は、妙に嬉しそうだった。
迂回路を探す。
ピコを先行させ、俺とアイはバイクを押して脇道へ入った。細い住宅街は瓦礫が多く、何度か車体を傾けながら抜ける。途中、完全に潰れた家の横を通った。
アイが足を止めた。
「おじさん」
「ん?」
「これも、家?」
崩れた建物を指している。
「昔はな」
「だれかいた?」
「いたかもしれない」
「いまは?」
「いない」
アイは壊れた玄関を見た。
表札は錆びて読めない。庭だった場所には雑草が伸び、その中に小さな三輪車が半分埋まっている。
アイが三輪車を見る。
「こどもの?」
「たぶんな」
澪と出会ったからだろう。
以前なら「これは何?」で終わったものを、今はそこにいた誰かへ結びつける。
俺は先へ進もうとした。
だが、アイが来ない。
振り返る。
まだ家を見ている。
「どうした」
「このひとたち、どこいった?」
「分からない」
「生きてる?」
「……いや」
「……そっか」
アイはようやく歩き出した。
俺の横まで来る。
数歩進んでから、小さな声で言った。
「生きてたらいいね」
俺はすぐには返事をしなかった。
「ああ」
それだけ答えた。
8.6km地点。
ピコが急に停止した。
『主様』
声の調子は変わらない。
だが、それだけで分かる。
俺はバイクを止めた。
アイも俺を見る。
『前方約620m。微弱な電磁反応を検出』
「種類は」
『特定不能。周期性あり。自然発生とは考えにくいです』
俺はM-68へ手をかける。
アイの視線がそこへ落ちる。
「敵?」
「まだ分からない」
『移動反応なし』
「止まってる?」
『その可能性があります』
周囲を見る。
右側に崩れた集合住宅。左側には低い店舗群。道路の先は緩く曲がっていて、反応源は見えない。
「ここで待つ」
アイの顔が変わった。
「俺とピコで見る」
袖が掴まれた。
「アイも」
「さっきの約束」
「はなれない」
「そうじゃなくて」
言いかけて止まる。
約束は確かに「俺から離れない」だった。
こいつの解釈の方が正しい。
『主様』
「分かってる」
俺は息を吐いた。
「後ろにいろ。俺より前に出るな」
「うん」
バイクを建物の陰へ隠す。
そこから徒歩で進んだ。
ピコは高度を落とし、屋根の高さより下を飛ぶ。
俺はM-68を抜いた。
残弾12。
撃ちたくない。
曲がり角まで約80m。
50m。
30m。
俺は壁際で止まる。
ピコだけを先へ出した。
数秒。
『視認しました』
「何だ」
『旧式通信中継器と思われます』
「兵器じゃない?」
『現時点で兵器反応なし』
俺は角から覗いた。
道路脇に、小型トラックほどの金属設備が傾いている。外装は錆び、上部のアンテナは半分折れていた。軍用か民間用か、一見しただけでは判断しづらい。
それでも。
動いている。
5年経った今も。
小さな表示灯が、一定の間隔で点滅していた。
『信号を解析します』
「近づきすぎるな」
『了解』
ピコが停止する。
アイが俺の後ろから覗く。
「ひかってる」
「ああ」
『信号強度、微弱。通信距離は限定的と推定』
「内容は?」
数秒。
ピコの青い目が僅かに明滅した。
『……奇妙です』
「何が」
『旧軍通信規格の一部と一致します』
俺の指がM-68のグリップを握り直す。
昨日。
真壁。
検問所。
IS。
全部が頭の中で繋がる。
「どの規格だ」
『技術支援系統。正確な識別には追加解析が必要です』
俺は設備を見る。
目的地はまだ先だ。
14.9km。
18.4km。
今日はそこまで行く予定じゃなかった。
それなのに、8.6km地点ですでに古い軍用系統が生きている。
『主様』
「今度は何だ」
『信号内容の一部を復号しました』
「読め」
短い沈黙。
『《中継待機》』
それだけだった。
「他は」
『破損しています』
「送信先は?」
『不明』
「受信元」
『……不明です』
俺は舌打ちした。
だが、次の瞬間。
表示灯の点滅が変わった。
一定だった光が、一度消える。
再点灯。
そして速く点滅する。
ピコが即座に反応した。
『主様』
「分かってる」
『信号強度上昇』
俺はアイを見る。
アイは何もしていない。
ただ通信設備を見ている。
髪も浮いていない。
周囲の電子機器にも異常はない。
能力を使っている様子はない。
それでも。
『受信を確認』
「何を受信した」
『解析中』
数秒がやけに長い。
俺は周囲を警戒する。
建物。
窓。
屋上。
道路。
動くものはない。
『復号率、低』
「読めるところだけでいい」
ピコが答える。
『《識別――》』
ノイズ。
『《――IS――》』
俺は息を止めた。
アイが顔を上げる。
『《――003――》』
空気が変わった気がした。
実際には何も変わっていない。
風も。
空も。
崩れた街も。
ただ、5年間ほとんど死んでいたはずの通信設備が。
アイがここへ来た直後に。
その番号を受信した。
「ピコ」
『周囲を走査中。移動する機械反応――』
一瞬、間があった。
『ありません』
俺はM-68を下げない。
「送信元を探せ」
『了解』
アイが俺の服を掴む。
「ゼロ、ゼロ、さん」
「ああ」
「アイ?」
俺は答えなかった。
いや。
答えられなかった。
通信設備の表示灯が、またゆっくりとした点滅へ戻っていく。
まるで、必要なものだけ受け取ったみたいに。
『主様』
「何だ」
『送信元の方向を限定しました』
「どっちだ」
ピコが身体を回す。
2本の青い目が向いた先。
北東。
俺たちがこれから向かおうとしている方向だった。
『推定直線距離――』
わずかな演算音。
『13km以上』
俺は端末を取り出した。
現在位置を確認する。
8.6km地点。
そこから北東。
地図の先にあるものを見る。
18.4km。
真壁が示した旧技術施設。
完全には一致しない。
距離も誤差が大きい。
途中の中継設備を経由している可能性もある。
それでも偶然として片づけるには、出来すぎていた。
「今日は帰る」
アイが俺を見る。
「いかない?」
「ああ」
『賛成します』
俺は通信設備を見た。
もっと調べたい。
分解すれば何か出るかもしれない。
ピコに長時間解析させれば、送受信記録を拾える可能性もある。
だからこそ、今は触らない。
こちらが相手を知らない以上、向こうに何を知らせることになるか分からない。
「位置だけ記録する」
『記録しました』
「信号の内容も」
『保存済みです』
俺はM-68を収めた。
アイがまだ設備を見ている。
「行くぞ」
「うん」
数歩歩いたところで、アイが振り返った。
「おじさん」
「ん?」
「アイのこと、呼んだ?」
俺も一度だけ振り返る。
錆びた通信設備。
小さな光。
《IS-003》
「たぶんな」
「だれ?」
「それを調べに行くんだよ」
アイは少し考えた。
それから俺の袖を掴んだ。
「いっしょ?」
「ああ」
「ピコも?」
『同行します』
アイが頷く。
「じゃあ、いく」
俺たちは来た道を戻り始めた。




