Ep.27 アイは、なに?
榊との話を終えて建物の外へ出ると、さっきまで走り回っていた二人は、今度は地面に並んでしゃがみ込んでいた。
正確には、澪が木箱の上に座らされ、その前に奈緒がしゃがんでいる。アイはその横だ。近い。奈緒の肩に頭がぶつかりそうなほど近い位置から、手元を覗き込んでいた。
「……なにしてんだ、あいつ」
『観察です』
「それは見れば分かる」
『では質問の意図が不明です』
「独り言だよ」
『了解しました』
俺とピコが近づいても、アイは気づかない。奈緒の手元に夢中らしい。
澪の右膝には擦り傷ができていた。血はほとんど止まっている。奈緒は水で汚れを落とし、小さな布に消毒液を含ませていた。
「いくよ」
「待って」
「待っても痛いのは変わらない」
「心の準備が」
「さっきから三回してるでしょう」
「四回目する」
「しません」
奈緒が布を傷口へ当てた。
「いたっ!」
澪の身体が跳ねる。
その瞬間、アイもびくっと肩を震わせた。
「いたい?」
「痛い!」
「どのくらい?」
「どのくらいって……」
澪は涙目になりながらアイを見る。
「痛いものは痛いの!」
「いっぱい?」
「いっぱいじゃないけど痛い!」
「ちょっと?」
「ちょっとより痛い!」
アイが難しい顔をした。
「じゃあ、ちょっとよりいっぱい?」
「もうそれでいい!」
「澪、動かない」
「お母さんが痛くするから!」
「治すためにやってるの」
「いたくして、なおす?」
アイが奈緒を見る。
「そういうときもあるのよ」
「へんなの」
「私もそう思う」
澪が即座に同意した。
「あなたは黙ってなさい」
奈緒は手慣れた様子で傷を覆うと、布を巻いて固定した。大した怪我じゃない。明日には気にならなくなる程度だろう。
それでもアイは、処置が終わってからも澪の膝をじっと見ていた。
「もう、なおった?」
「まだ」
澪が答える。
「いつ?」
「知らない。明日?」
「明日になったら、なくなる?」
「傷は残るかも」
「でも、いたくなくなる?」
「たぶん」
アイはしばらく考えてから、小さく頷いた。
「おじさんと、おなじ」
俺は足を止めた。
「俺?」
そこでようやくアイが俺に気づいた。
「あ」
「あ、じゃねえよ」
「おじさん、いた」
「さっきからな」
「いつから?」
「お前が『ちょっとよりいっぱい』とか言ってた辺り」
「それ、どのくらい?」
「もういい」
澪が吹き出した。
アイもつられて笑う。
奈緒は立ち上がると、俺の後ろにいる榊へ軽く頭を下げた。
「終わった?」
「ああ。ひとまずな」
榊はそう答えると俺を見る。
「細かい交換については、また後で決めよう。地図の情報は正直ありがたい」
「こっちも同じだ。北と東の情報が欲しい」
「次に来たとき、見せられるようにしておく」
次に来たとき。
その言葉を聞いたアイの顔が、わずかに動いた。
「またくる?」
「まだ決めてない」
「さかき、つぎっていった」
「言ったな」
「じゃあ、くる」
「お前の中ではもう決定なのか」
「うん」
「決定権は俺にもあるんだぞ」
『私にも存在すると推定します』
「ふえた」
アイが言った。
「何が」
「きめるひと」
「……まあ、そうだな」
榊が笑いながら建物の方へ戻っていった。大人同士の話が終わったと判断したのか、澪は木箱から降りようとする。
「澪」
奈緒の声が飛ぶ。
澪の足が止まった。
「走らない」
「走らないよ」
「さっきもそう言った」
「今度はほんと」
「信用がないな」
俺が言うと、澪が睨んできた。
「おじさんは黙ってて」
「おじ、さん……」
アイが俺を見る。
「おじさん、おじさん」
「お前は嬉しそうに確認するな」
『呼称が定着しつつあります』
「ピコまで分析するな」
澪がまた笑った。
その笑い声に釣られるように、少し離れた場所から誰かの声が聞こえた。金属を叩く音もする。別の建物からは薄い煙が上がり、風に乗って何かを煮る匂いが流れてきた。
アイの鼻が動いた。
「おじさん」
「なんだ」
「におい」
「飯だろ」
「ごはん?」
途端に目が輝いた。
分かりやすい。
奈緒も気づいて苦笑する。
「もうそんな時間ね」
澪も煙の方を見た。
「お腹すいた」
「さっき食べたでしょう」
「あれちっちゃかった」
「走り回るからよ」
「もう走ってない」
「今止められたばかりでしょう」
親子の会話を聞きながら、アイが澪の腹を見る。
「また、へった?」
「減った」
「さっきたべたのに?」
「減るよ」
「はやい」
「アイは?」
「へってない」
「ずるい」
「ずるい?」
「だってずっとお腹いっぱいなんでしょ?」
アイが自分の腹に手を当てる。
「いっぱいでもない」
「じゃあ空いてる?」
「へってない」
「どっち?」
「どっちでもない」
澪が首を傾げる。
アイも首を傾げる。
二人がほとんど同じ角度で止まった。
「……まあ、いいや」
澪が先に諦めた。
「いいの?」
「うん」
「わからないのに?」
「分かんないこといっぱいあるし」
あまりにも簡単な答えだった。
アイが瞬きをする。
「いっぱい?」
「いっぱい」
「みおも?」
「あるよ。あっちの建物の中に何があるかとか」
澪が離れた廃ビルを指差した。
「行ったら駄目って言われてるから知らない」
「しらなくて、いい?」
「そのうち分かるかもしれないし」
アイは何も言わなかった。
ただ、澪が指差した建物をしばらく見ていた。
俺には、その会話が妙に引っかかった。
知らないことを、知らないまま置いておく。
俺たちにとっては当たり前のことだ。でもアイは知らないものを見るたびに触り、聞き、確かめようとしてきた。あいつにとって世界は、穴だらけの問題集みたいなものなのかもしれない。
けれど、全部の答えが今すぐ必要なわけじゃない。
それを教えるのは、俺じゃなくてもいいらしい。
集落の中央付近で金属板が三度叩かれた。
澪が反応する。
「ごはん」
「今ので分かるのか?」
「お昼の合図」
奈緒が説明した。
「全員が同じ時間に食べられるわけじゃないけど、配る時間は決めてるの。無駄が出るから」
「なるほど」
「あなたたちは?」
「俺たちは持ってる」
俺たちには必要ない。正確には、一時退避場所にまだ少し残してある。手元にも携帯食がある。
「少しくらいなら――」
「いや」
俺は奈緒が言い終わる前に断った。
「二十六人分でぎりぎりなんだろ」
奈緒が一瞬黙る。
「榊さんから聞いた?」
「ああ」
「子供一人分くらいなら大丈夫よ」
その言葉に、俺はアイを見る。
アイは奈緒を見ていた。
それから、配膳が始まったらしい場所を見る。
最後に俺を見た。
「たべていい?」
やっぱり食うのか。
「腹減ってないんだろ」
「うん」
「でも食いたい?」
「うん」
迷いがない。
奈緒が笑う。
「だったら食べればいいじゃない」
「いや、こいつの場合それをやると際限が――」
「おじさん」
アイが俺の言葉を遮った。
「なんだ」
「あれ、だれの?」
「あれ?」
アイが配膳場所を指差す。
大きな鍋から、何人かが器へ薄いスープを注いでいる。横には小さな焼き物が積まれていた。朝、澪が食べていたものと似ている。
「ごはん」
「それは分かってる」
「だれの?」
俺は少し考えた。
奈緒が先に答えた。
「みんなのよ」
「みんな?」
「ここに住んでる人たちの分」
アイは自分の小さな鞄に手を置いた。
あの中には歯ブラシが一本。
こいつが初めて手に入れた、自分だけのもの。
「アイのじゃない?」
「今はね」
「じゃあ、とったらだめ?」
奈緒は少し驚いた顔をした。
「勝手に取るのは駄目。でも、分けてもらえばいいの」
「わける」
「そう」
アイは俺を見る。
「おじさん」
「ん?」
「もらっていい?」
俺は奈緒を見る。
「交換にしてくれ」
「そんな、一食くらい」
「一食だからだ」
ここで例外を作るつもりはない。
この集落が三年続いているのは、たぶんこういう小さなものを曖昧にしてこなかったからだ。
俺は腰のポーチから端末を取り出した。
「さっき榊と話した。俺たちの地図情報を一部渡す。それに飯一人分を含めてくれ」
奈緒は呆れたような顔をした。
「真面目ね」
「そうでもない」
『主様は昨夜、保存食の配分を誤り、自身の朝食量を――』
「ピコ」
『発言を終了します』
「真面目じゃないじゃん」
澪にまで言われた。
「お前ら、急に仲良くなるな」
結局、アイにも一人分が用意された。
大人用より少ない、小さな器だった。
中身は薄い穀物のスープ。細かく刻まれた野菜らしきものが少し浮かんでいる。添えられたのは手のひらより小さな焼き物が一枚。
豪華とは程遠い。
それでもアイは器を両手で受け取ると、湯気をじっと見つめた。
「これ、アイの?」
「今はアイちゃんの分」
奈緒が答える。
「もらった?」
「そう」
アイは少しだけ嬉しそうに笑った。
「いただきます」
俺が教えた言葉だった。
奈緒の眉がわずかに上がる。
澪も隣で器を持つ。
「いただきます」
二人はほとんど同時にスープを口へ運んだ。
アイの目が丸くなる。
「どう?」
澪が聞く。
「うすい」
「アイ!」
奈緒が吹き出し、澪が大笑いした。
「だってうすい!」
「でも」
アイはもう一口飲んだ。
「おいしい」
「どっちなの」
「うすくて、おいしい」
「変なの」
「みおもたべてる」
「私はお腹減ってるから」
「アイはへってない」
「知ってる」
「でも、おいしい」
「それも知ってる」
いつの間にか、澪はアイの言葉の扱い方を覚え始めている。
俺は少し離れた場所で、自分の携帯食を齧った。
集落の昼は静かではなかった。器が触れる音、誰かを呼ぶ声、子供の笑い声、工具を置く音。食べながら仕事の話をしている連中もいるし、壁にもたれて黙々と口へ運んでいる人間もいる。
病院では、食事をするのは俺とアイだけだ。
ピコは横で浮いている。
それが普通になっていた。
ここでは二十六人が、それぞれ違う速度で食べている。
アイはその真ん中にいた。
食事が終わる頃、澪の勢いが目に見えて落ちてきた。
さっきまで休むことなく喋っていたのに、返事が短い。座ったまま身体が少し丸くなり、やがて大きな欠伸をした。
アイが見逃すはずがない。
「みお」
「んー?」
「ねむい?」
「ちょっと」
「ねる?」
「まだ寝ない」
「なんで?」
「アイいるから」
「アイがいたら、ねない?」
「せっかく来たのに寝たらもったいないじゃん」
アイはまた少し考える。
「きのうは、ねた?」
「寝たよ」
「きょうも?」
「夜になったら寝る」
「まいにち?」
「毎日」
「ずっと?」
「ずっとって?」
「ずっと、まいにち」
「……たぶん?」
澪が奈緒を見る。
「お母さんも寝るよね?」
「寝ます」
「ほら」
アイは俺を見る。
嫌な予感がした。
「おじさんも?」
「寝る」
「まいにち?」
「だいたいな」
「きのうも」
「ああ」
「そのまえも?」
「寝たと思うぞ」
「そのまえの、そのまえは?」
「何日前まで遡る気だ」
アイは指を折り始めた。
「やめろ。寝てる。俺は寝る生き物だ」
『睡眠不足時には著しく機嫌が悪化します』
「余計な情報を足すな」
「ピコは?」
『通常の意味での睡眠は行いません』
「アイとおなじ」
『厳密には異なります。私は低活動状態および充電――』
「おなじ」
『……簡略化すれば、類似点はあります』
珍しく折れた。
アイは満足そうだった。
けれど、その表情はすぐに消えた。
澪を見る。
奈緒を見る。
俺を見る。
それから、自分の手を見る。
何かを数えるように指を動かしたが、何も言わなかった。
「アイ?」
俺が呼ぶと、顔を上げる。
「なに?」
「いや」
今はいい。
俺はそう思った。
昼を少し過ぎた頃、俺たちは出発の準備を始めた。
病院にはまだ戻れない。少なくとも周辺の自律兵器がどう動いているか確認するまでは危険だ。今日は前夜使った一時退避場所へ戻り、ピコと検問所のデータを整理する。それから次を決める。
榊にはそう伝えた。
「泊まっていかないのか?」
「今日はいい」
「分かった。無理には勧めない」
榊はそれ以上聞かなかった。
奈緒からは消毒液を少量交換できると言われたが、今回は断った。警察施設から回収した分がまだある。必要になったときに交換すればいい。
澪だけは露骨に不満そうだった。
「もう帰るの?」
「帰る」
俺が答える。
「アイに聞いた」
「俺も一緒に帰るんだよ」
澪がアイを見る。
「また来る?」
「くる」
即答。
「だからお前が決めるな」
「こない?」
「来ないとは言ってない」
アイが澪へ向き直る。
「くる」
「ほら」
「何がほらだ」
澪は満足そうに笑った。
「じゃあ次、もっと遊ぼ」
「もっと?」
「今日あんまり遊べなかったし」
「はしった」
「転んだ」
「いたかった?」
「それは遊びじゃない」
「ちがう?」
「違う」
「じゃあ、つぎなにする?」
「考えとく」
「またきまってない」
「次までに決めるの!」
アイが笑った。
それから、少し間を置いて澪が言った。
「だって友達だし」
アイの笑顔が止まった。
予想通りだった。
「ともだち?」
澪も止まった。
「……知らない?」
「しらない」
澪が俺を見る。
やめろ。
その顔はやめろ。
俺に説明を求めるな。
「おじさん」
来た。
「ともだちって、なに?」
俺は少し考えた。
ピコを見る。
『説明可能です』
「お前に聞くとろくなことにならない」
『不当な評価です』
奈緒が苦笑している。
澪は答えを待っている。
アイも待っている。
仕方なく、俺は頭を掻いた。
「……一緒にいたいと思う相手とか、また会いたいと思う相手とか。そういうのだ」
「それだけ?」
澪が聞く。
「八歳に友情の定義を求められるとは思わなかった」
「難しいこと言ってる」
「お前が聞いたんだろ」
アイは澪を見た。
「みおは、アイとまたあいたい?」
「会いたいよ」
「アイも」
「じゃあ友達」
「ともだち」
アイがゆっくり言葉を繰り返す。
新しい言葉を覚えるときの顔だった。
でも今回は、鳥や雨や雷とは少し違った。
言葉を覚えたというより、自分の中にあったものに、あとから名前がついたように見えた。
「みお」
「なに?」
「ともだち」
「うん」
アイが笑った。
澪も笑った。
俺は何も言わなかった。
言う必要がなかった。
やがて集落の門を出て、バイクを隠してある場所へ向かった。久世には門のところで呼び止められ、次に来るなら同じように外から声をかけろと言われた。
「勝手に入るなよ」
「入れるような作りじゃないだろ」
「念のためだ」
「分かってる」
久世の視線が一瞬アイへ向いた。
それから俺の腰のM-68へ移る。
「十二発しかないんだろ」
俺は足を止めた。
「榊から聞いたか?」
「弾の話だけな」
「余ってるなら売ってくれ」
「規格を確認してからだ」
「それでいい」
久世はそれ以上言わず、門へ戻った。
俺たちは昨日バイクを隠した、崩れかけた店舗跡へ向かう。
アイは何度も後ろを振り返っていた。
「前見ろ」
「みお、みえなくなった」
「そりゃ離れたからな」
「つぎ、いつ?」
「まだ決めてない」
「明日?」
「早い」
「じゃあ、あさって?」
「近い」
「そのつぎ?」
「交渉すんな」
『主様。具体的な再訪予定を設定することで質問は終了すると推定します』
「お前はどっちの味方なんだ」
『質問の意味が不明です』
いつもの調子で歩きながら、店舗跡へ入る。
そこで俺は足を止めた。
誰かいる。
バイクの横だ。
細身の少年が、しゃがみ込んで車体を覗き込んでいた。
年齢は十代後半くらい。短い髪に、擦り切れた上着。背中には小型の荷物袋を背負い、腰には工具らしきものがいくつも下がっている。
触ってはいない。
ただ、異様に近い。
「……何してる」
声をかけると、少年が振り向いた。
俺を見る。
アイを見る。
ピコを見る。
もう一度バイクを見る。
そして言った。
「これ、おっさんの?」
俺はしばらく黙った。
今日だけで呼称が悪化している。
「……誰がおっさんだ」
「え?」
「俺はまだ32だ」
「32はおっさんじゃないの?」
「お前、喧嘩売ってんのか」
「売ってないけど」
少年は本気で分からない顔をしていた。
アイが俺の袖を引く。
「おじさん」
「今は呼ぶな」
『主様』
「お前もだ」
少年が吹き出した。
「じゃあ、兄ちゃん?」
「急に雑になったな」
「どっちがいい?」
「もう喋らなくていい」
「難しい人だな」
「初対面のお前に言われたくない」
少年は立ち上がった。
俺よりかなり若い。当然だ。近くで見ると、まだ少年らしさが残っている。
「倉田蓮。17歳」
名乗りながら、親指で集落の方を指す。
「ここの探索やってる」
「ユウ」
「知ってる」
「なんで」
「さっき帰ったら、知らない奴が来たってみんな話してた」
「情報回るの早すぎないか」
「26人しかいないからな」
それもそうか。
蓮の視線が再びバイクへ落ちる。
「これ、まだ走るんだよな?」
「走るからここまで来た」
「エンジン?」
「ああ」
「燃料どうしてんの?」
「教えない」
「けち」
「初対面だぞ」
「じゃあ次会ったら?」
「もっと教えない」
「なんで増えるんだよ」
こいつ、面倒だ。
アイとは別方向に面倒だ。
蓮は今度はピコを見る。
「で、それ」
『私はピコです』
「喋った」
『会話機能を有しています』
「軍用?」
俺は蓮を見る。
さっきまでの軽い調子とは違い、その目はピコの外装を見ていた。二本のローター、関節式の腕、前面モニター。古い軍用品を多少知っている人間なら、民生品ではないと気づいてもおかしくない。
「似たようなの見たことあるのか?」
「昔ちょっと。もっとでかかったけど」
「どこで」
「昔だって。戦争中」
蓮は肩をすくめた。
「俺、十二くらいだったし、よく覚えてない」
『私は旧軍規格との互換性を有します』
「ピコ」
『機密情報ではありません』
「お前は喋りすぎるんだよ」
蓮が面白そうに笑う。
「その箱、いいな」
『私は箱ではありません』
「じゃあ何?」
『ピコです』
「それ名前だろ」
『はい』
「種類」
『ピコです』
「通じねえ」
「諦めろ。そいつはそういう奴だ」
『主様による不正確な印象操作を確認』
「お前も俺に対して似たようなことしてるだろ」
その横で、アイが蓮を見上げていた。
蓮もようやく気づく。
「その子は?」
「アイ」
アイが自分で答えた。
「何歳?」
「ななくらい」
「くらい?」
またそこか。
「色々あるんだよ」
俺が先回りすると、蓮は少し首を傾げたものの、それ以上聞かなかった。
「俺、澪よりでかい子だと思ってた」
「みお、しってる?」
「そりゃ知ってる。同じとこ住んでるし」
「アイ、みおのともだち」
さっき覚えたばかりの言葉を、もう使っている。
しかも少し誇らしげだった。
「へえ」
蓮が笑う。
「じゃあまた来るんだ?」
「くる」
「決定してない」
俺が訂正する。
「来るって言ってるけど」
「こいつが勝手に言ってるだけだ」
「おっさん大変だな」
「おっさん言うな」
蓮は笑いながら手を上げた。
「じゃあまたな、おっさん」
「おい」
そのまま集落の方へ歩いていく。
数歩進んだところで振り返った。
「そのバイク、今度ちゃんと見せて」
「嫌だ」
「じゃあ勝手に見る」
「触ったらぶん殴るぞ」
「見るだけ!」
笑いながら去っていった。
静かになった店舗跡で、俺はしばらくその背中を見送る。
「……なんなんだ、あいつ」
『倉田蓮。17歳。探索担当です』
「そういう意味じゃない」
アイが俺を見る。
「おじさん」
「なんだ」
「おっさんって、なに?」
「覚えなくていい」
「おじさんとちがう?」
「忘れろ」
『一般的には――』
「ピコ」
『黙ります』
俺はバイクのカバーを外した。
昨日の雨で湿気は残っているが、目立った異常はない。燃料、タイヤ、配線を簡単に確認する。
アイはその間も、集落の方を見ていた。
やがてエンジンを始動すると、廃墟の静けさを低い振動が揺らした。
アイを前へ乗せ、ピコがいつもの位置につく。
俺たちは集落を離れた。
帰る先は、まだ病院じゃない。
昨日使った一時退避場所だ。
崩れた街を抜けながら、アイはしばらく何も喋らなかった。
珍しい。
さっきまであれだけ喋っていたのに。
何度か後ろから顔を覗こうとしたが、前に乗せているせいで表情までは分からない。
しばらく走り、崩落した道路を避けるため速度を落としたところで、アイが口を開いた。
「おじさん」
「なんだ」
「みおは、人間?」
突然だった。
「……ああ」
「なおも?」
「ああ」
「さかきも?」
「そうだ」
少し間が空く。
「れんも?」
「たぶんな」
「たぶん?」
「人間だよ」
「おじさんも?」
「なんで俺だけ毎回確認されるんだよ」
返事はない。
アイは笑わなかった。
それで俺も、少しだけ声の調子を落とした。
「俺も人間だ」
「おなかへる?」
「減る」
「ねる?」
「寝る」
「けがしたら、いたい?」
「痛い」
「みおと、おなじ」
「ああ」
「なおも?」
「たぶんな」
「さかきも、れんも?」
「人間ならそうだ」
バイクの速度がさらに落ちた。
前方の道路が一部崩れている。俺は瓦礫の少ない側へハンドルを切る。
そのとき、アイが自分の胸に手を置いた。
小さな手だった。
「じゃあ」
声が風に混じる。
「アイは?」
俺は答えなかった。
答えが分からなかった。
アイが少しだけ振り向く。
水色の髪が風に揺れた。
「アイも、人間?」
喉まで出かかった言葉を、俺は飲み込んだ。
人間だ、と言えば簡単だった。
そう言ってやりたいとも思った。
けれど、俺は地下施設でこいつを見つけた。
IS-003。
食べなくても生きていられる。
水を飲まなくても平気だ。
眠らない。
ほとんど疲れない。
機械を止める、説明のつかない力を持っている。
そして旧軍の自律兵器は、こいつを《最優先破壊対象》として認識した。
俺には、それを全部無視して答えることはできなかった。
「ピコ」
呼ぶ。
頭の上からローター音に混じって声が返った。
『はい』
「お前はどう思う」
しばらく返事がなかった。
珍しく、即答しない。
『アイの生体情報には、人間との高い一致が確認されています』
アイが聞いている。
『体温、脈拍、呼吸、血流その他、複数項目において人間と矛盾しない特徴を確認しています』
「じゃあ、人間?」
『一方で、通常の人間として説明困難な特徴も複数存在します』
「……ちがう?」
『それも断定できません』
アイが黙る。
俺も黙った。
ピコは少し間を置いてから続けた。
『現時点では、分類不能です』
「ぶんるいふのう」
「分からないってことだ」
俺が言い直す。
「ピコも?」
『はい』
「おじさんも?」
「……ああ」
アイは前を向いた。
「アイも、わからない」
その声には、泣きそうな響きも、怯えもなかった。
ただ本当に、分からないことを分からないと言っただけだった。
だから俺も、すぐには何も言わなかった。
昼間、澪が言っていた言葉を思い出す。
分かんないこといっぱいあるし。
そのうち分かるかもしれないし。
俺は片手をハンドルから離し、アイの頭を軽く撫でた。
「今は、それでいいだろ」
「いい?」
「ああ」
「わからないまま?」
「分からないなら、調べればいい」
「わかるまで?」
「そうだ」
アイは少し考えた。
「いっしょに?」
「ああ」
頭の上から声がする。
『私も含まれますか』
「お前が一番必要だよ」
『了解しました』
アイが笑った。
ほんの少しだけ。
「じゃあ、三人で」
「ああ」
「しらべる」
「そうしよう」
俺は再びハンドルを握った。
遠くに、昨日泊まった建物の輪郭が見え始める。
人間なのか。
兵器なのか。
それとも、そのどちらでもない何かなのか。
今の俺には分からない。
ただ、一つだけ分かっていることがある。
あいつはもう、地下施設で見つけた《IS-003》という記号だけじゃない。
アイという名前がある。
帰る場所がある。
大事にしている歯ブラシが一本ある。
そして今日、友達が一人できた。
それだけは、どんな記録を掘り返しても変わらない。
俺たちは崩れた街を走り、一時退避場所へ戻っていった。
次に調べるべきものは、もう決まっている。
検問所から持ち帰ったデータ。
その中に残っていた、たった二文字。
――IS。
そして、それを知っているかもしれないという男。
真壁宗一郎。
五年前に終わったはずの戦争が、少しずつアイへ繋がり始めていた。




