Ep.25 ずっといっしょ?
30代半ばほどに見える女は、こちらへ近づきながら、まず澪の顔を見た。次に手足、それから服。怪我をしていないか確かめるように視線が一周して、ようやく俺たちへ向く。その順番だけで、澪との関係はなんとなく察せた。
肩まで伸びた黒髪を後ろでひとつに束ね、色の褪せた長袖の上から、いくつもポケットのついたベストを羽織っている。腰には小さな布袋と水筒。武器らしいものは見当たらないが、右手には使い込まれた手袋をはめていた。
「澪。勝手にいなくならないでって言ったでしょう」
「いなくなってないよ。ここにいた」
「私から見えなくなったら、それはいなくなったのと同じなの」
「でも、ここ中だよ?」
「中でも」
「久世さんもいるし」
「久世さんがいるからって、何をしてもいいわけじゃありません」
澪が口を尖らせた。
そのやり取りを、アイがじっと見ていた。
女の顔。
澪の顔。
また女の顔。
首だけが小さく左右に動いている。
やがて女がこちらへ向き直った。
「すみません。この子、知らない人を見るとすぐ話しかけるので」
「いや」
俺が答えるより先に、澪がアイの隣へ一歩寄った。
「知らない人じゃないよ。アイ」
「今知ったばかりでしょう」
「でも名前知ってる」
「そういう意味じゃなくてね」
「7歳くらい」
「澪」
「鞄には歯ブラシ入ってる」
「そこまで聞たの?」
澪が得意そうに頷く。隣ではアイもなぜか少し胸を張っていた。どうやら歯ブラシの情報まで共有されたことに問題はないらしい。
女はこめかみに指を当てて小さく息を吐いたあと、改めてアイを見た。
「ごめんなさいね。うるさかったでしょう」
アイは少し考えた。
「うるさい?」
「……たくさん喋るってこと」
「うん。いっぱいしゃべった」
「アイ!」
澪が抗議する。
「ほんとのこと」
「そうだけど!」
女が思わず吹き出した。
それを見て、アイがまた俺の袖を引いた。
「おじさん」
「なんだ」
「みおと、おなじわらいかた」
「親子だからな」
「おやこ」
また知らない言葉だったらしい。アイの視線が女と澪の間を往復する。
すると澪が先に言った。
「お母さんだよ」
アイが止まった。
「おかあさん」
「うん」
「なに?」
今度は澪が止まった。
さっきまで絶え間なく動いていた口が、綺麗に閉じる。
「……お母さん、知らないの?」
「しらない」
「えっと……」
澪が困ったように母親を見上げる。助けを求められた女も、一瞬だけ言葉に詰まった。
俺も困った。
説明しろと言われればできる。できるが、アイに何をどこまで教えるべきなのかを考え始めると、途端に難しくなる。
そのとき、肩の少し上を漂っていたピコが前へ出た。
『母親。生物学上、子を産んだ女性。あるいは養育上、その役割を担う女性を指す呼称です』
「お前はもうちょっと言い方を考えろ」
『簡潔かつ正確です』
「7歳くらいの子にする説明じゃねえんだよ」
「うんだ?」
ほら見ろ。
ピコの黒い画面に浮かぶ二本の青い線が、わずかにこちらを向いた。
『説明を追加しますか?』
「もう黙ってろ」
『了解しました』
女は俺とピコを交互に見ていたが、やがて小さく笑った。
「私は三枝奈緒。この子の母親」
自分を指し、それから澪の肩に手を置く。
「澪とずっと一緒にいるの。ご飯を食べさせたり、具合が悪くなったら看たり、叱ったり。そういう人」
「怒る人でもある」
「誰のせいでしょうね」
「……わたし?」
「分かってるじゃない」
アイは二人を見上げていた。
さっきまでの好奇心そのままの目だったが、いつもより少しだけ長く見ている。
「なおは、みおのおかあさん」
「そう」
「ずっといっしょ?」
奈緒は一瞬だけ黙った。
「生まれたときからね」
「うまれたとき」
アイの口から小さく言葉が落ちる。
俺は何も言わなかった。
アイがどこで生まれたのか、俺は知らない。そもそも、こいつに普通の意味での「生まれた」があるのかさえ分からない。
アイ自身も、それ以上は聞かなかった。ただ澪と奈緒の距離を確かめるように眺め、それから俺の袖を握っている自分の手へ目を落とした。
奈緒の視線も、その手に向いた。
「あなたは?」
「ユウ」
「お父さん?」
「違う」
即答した。
その瞬間、アイが顔を上げた。
奈緒も少し驚いた顔をしたので、俺は付け足す。
「……こいつとは、少し前に会った。今は一緒に暮らしてる」
「保護している、ということ?」
「まあ、近い」
『同居人です』
「お前は黙ってろって言ったよな?」
『質問に対して有用な補足情報と判断しました』
奈緒がまた笑った。
どうもこいつは、初対面の人間から笑いを取る才能だけはあるらしい。本人にその自覚が一切ないのが腹立たしい。
「じゃあ、あなたがアイちゃんの面倒を?」
「一応」
「一応じゃ駄目でしょ」
横から澪に怒られた。
「なんでお前に怒られなきゃいけないんだ」
「子供の面倒はちゃんと見ないと駄目って、お母さん言ってる」
「言ってるわね」
「ほら」
「お前ら初対面だよな?」
俺が確認すると、澪は笑った。奈緒も困ったように笑っている。
その隣で、アイだけが俺を見上げていた。
「おじさん、アイのめんどうみてる?」
「……見てるだろ」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
「じゃあ、いちおうじゃない」
ぐうの音も出なかった。
『論理的です』
「ピコ」
『黙ります』
そう言って、本当に少し後ろへ下がった。
奈緒は笑いながらも、さっきより注意深くアイを見ていた。服のサイズ、細い腕、顔色。視線の動かし方に覚えがある。単に子供を眺めているというより、何かを確認している目だ。
そう、医療従事者の視線だ。
「アイちゃん、怪我はしてない?」
「けが?」
アイは自分の腕を見た。
「いまは、してない」
「今は?」
「まえに、おじさんがした」
奈緒の目が俺に向いた。
「待て。俺が怪我させたみたいに言うな」
「おじさん、ちでた」
「俺の話かよ」
「ああ……」
奈緒の警戒が少しだけ解けた。
「あなたが怪我したのね」
「もう治ってる」
「見せて」
「治ってるって」
「見せて」
二回目は妙に強かった。
「……なんでだよ」
「私、看護師だったの。今もここの怪我人や病人はだいたい私が看てるから」
なるほど。
さっきの視線にも納得がいった。
「本当にもう治ってる。銃弾が掠っただけだ」
「銃弾?」
今度は奈緒の表情から笑みが消えた。
「どこで?」
しまった、と思った。
詳しく話せば、ガソリンスタンドの四脚兵器とアイの話に繋がる。俺は少しだけ間を置いてから答えた。
「旧式の自律兵器だ。ここからは離れてる」
嘘ではない。
奈緒は俺の顔を数秒見た。全部話していないことには気づいたかもしれないが、追及はしなかった。
「そう。ならいいけど、痛むなら言って。薬は多くないから、何でも使えるわけじゃないけど」
「分かった」
「アイちゃんは?」
奈緒がしゃがみ、アイと目線を合わせた。
「どこか痛いところある?」
「ない」
「具合が悪いところは?」
「ぐあい?」
「頭が痛いとか、お腹が痛いとか。気持ち悪いとか」
アイはしばらく考えてから、首を横に振った。
「ない」
「ちゃんと食べてる?」
「たべる」
「何を?」
「いろいろ」
「好きなものは?」
今度は答えるまでが早かった。
「おいしいもの」
「それはみんな好き」
澪が言った。
「みおも?」
「好きだよ」
「おじさんも」
「俺を入れる必要あるか?」
「ピコは?」
『私は食物を摂取しません』
「ピコはちがう」
アイが納得したように頷く。
奈緒はそのやり取りを眺めていたが、ふとアイへ尋ねた。
「今日は朝ご飯、食べた?」
「たべた」
「お昼は?」
アイが俺を見る。
俺も空を見た。雲の切れ間から差す光の角度を見る限り、そろそろ昼に近い。
「まだだな」
「じゃあ、お腹空いたでしょう」
「ううん」
即答だった。
奈緒の目が少しだけ止まった。
「朝、たくさん食べたの?」
「ふつう」
「そう」
それだけ言って、奈緒は立ち上がった。
追及しない。
ただ覚えておく。
そんな反応だった。
元看護師というのは厄介かもしれない。アイ自身が自分のおかしさを隠そうとしない以上、長く付き合えばいずれ何かに気づく。
とはいえ、今ここで俺が余計なことを言う必要もなかった。
そのとき、澪の腹から小さな音が鳴った。
全員の視線が集まった。
「……なに」
澪が腹を押さえる。
「いや」
「見ないで」
「誰も何も言ってないだろ」
「顔が言ってる」
「どんな顔だよ」
奈緒が呆れたように腰の袋を開けた。
「朝から走り回ってるからでしょう」
中から取り出したのは、薄く焼かれた小さな平たいものだった。穀物を練って焼いたものだろう。綺麗な形ではないし、焦げ目もある。
澪はそれを受け取ると、すぐに一口齧った。
その様子をアイが凝視している。
「みお」
「ん?」
澪が口を動かしながら振り向く。
「おなかへった?」
「減った」
「いま?」
「うん」
「どんなかんじ?」
澪の口が止まった。
「どんな……?」
「おなかへるの」
「お腹減る感じ」
「それ、どんな?」
「ええ……」
澪が困り果てた顔で奈緒を見る。
奈緒も答えに困ったらしい。
俺には分かる。腹が減るなんて、説明するより経験する方が圧倒的に早い。
「お腹が空っぽになる感じ?」
奈緒が言う。
「からっぽ」
「食べたいなって思うの」
「アイも、たべたいっておもう」
「じゃあ一緒じゃん」
澪が言った。
アイは首を傾げた。
「でも、アイはおなかへらない」
澪が食べるのを止めた。
奈緒も、今度ははっきりアイを見た。
俺は何も言わない。
「ずっと?」
奈緒が聞いた。
「うん」
「朝起きても?」
「うん」
「昨日の夜は?」
「へらない」
「でも食べるの?」
「おいしいから」
あまりにも当然という顔で答えた。
澪はしばらくアイを見つめ、それから手に持ったものを見た。
「……じゃあ、これ食べたい?」
「たべたい」
即答だった。
「食べたいんじゃん」
「おなかはへってない」
「でも食べたい」
「うん」
「じゃあ同じじゃない?」
「ちがう」
「なんで?」
「みおは、おなかへったからたべる」
「うん」
「アイは、おいしそうだからたべる」
澪は真剣に考え込んだ。
「……ちょっと違う」
「うん」
どうやら二人の間では、それで解決したらしい。
奈緒だけは解決していない顔をしていた。
「アイちゃん」
奈緒が何か聞こうとした、そのときだった。
「三枝」
少し離れたところから男の声が飛んできた。
奈緒が振り返る。
俺もそちらを見ると、建物の角に榊が立っていた。こちらへ入ってくる様子はない。
「悪い。準備できた」
「ああ、分かりました」
奈緒が答える。
榊は俺へ視線を移し、一度だけ顎を引いた。
どうやら俺を呼びに来ただけらしい。
「話、してくる」
俺がアイに言うと、袖を掴む指に少し力が入った。
「アイも?」
「すぐそこだ」
「いっしょじゃない?」
その声がほんの少し小さくなる。
俺は榊のいる方向を確認した。建物の一階。入口から中が見える距離だ。
「見えるところにいる」
アイはまだ俺の袖を離さない。
すると澪が残りを口へ放り込み、手についた欠片を払った。
「じゃあ、アイは私といる」
アイが澪を見る。
「みおと?」
「うん」
「なにする?」
「なんかする」
「なんかって?」
「これから考える」
「きまってない」
「決めてから遊ぶの?」
「しらない」
「じゃあ決まってなくていいじゃん」
アイが黙った。
難しい顔で考えたあと、俺を見る。
「……おじさん」
「ん?」
「みおと、なんかしていい?」
俺は少しだけ迷った。
知らない集落。会ったばかりの人間。まだ安全だと決まったわけじゃない。
けれど、奈緒がいる。久世も入口にいるはずだ。そして何より、ここで俺が全部を遠ざけたら、アイはいつまで経っても俺とピコしか知らない。
「俺から見えるところならな」
「うん」
ようやく袖から小さな指が離れた。
ほんの数歩、澪の隣へ移動する。
たったそれだけだった。
それなのに、妙に遠くへ行ったように見えた。
『主様』
すぐ横でピコが小さく言った。
「なんだ」
『現在、非常に複雑な表情をしています』
「してねえよ」
『訂正。自覚がないようです』
「お前も残るか?」
『拒否します』
「なんでだよ」
『主様の監視が必要です』
「誰が一番危険なんだよ」
返事を待たず、俺は榊の方へ歩き出した。
背後から、澪の声が聞こえる。
「アイ、こっち」
「どこ?」
「だからこっち」
「なにする?」
「まだ決めてない!」
「きまってないのに、こっち?」
「いいから!」
思わず振り返りそうになったが、やめた。
代わりにピコが一度だけ後ろを向き、すぐ俺の横へ戻ってくる。
アイを集落に連れてきたのは俺だ。それでも、あいつがこの場所で何を見るかまで俺が決めることはできない。
澪の母親を知った。腹が減るという感覚を持つ、自分と同じくらいの子供を知った。そして今、俺の袖を離して、その子の隣へ行った。
ほんの数歩だったが、アイにとっては地下施設を出たときとは違う意味を持つ一歩なのかもしれない。
建物の入口で榊が待っている。
俺は一度だけ背後を確認した。澪が何かを指差し、アイがその先を覗き込んでいる。奈緒は少し離れた場所から二人を見ていた。
少なくとも今は大丈夫そうだ。
「待たせた」
俺が言うと、榊は首を横に振った。
「こっちも聞きたいことがある」
その言葉で、さっきまでとは空気が変わった。
俺はピコとともに薄暗い建物の中へ入った。今度は子供同士の話じゃない。
この場所で生きてきた人間と、ここへ来た人間。その間で、何を話し、何を伏せるのか。
それを決める時間だった。




