Ep.24 たいせつ。
朝になっても、昨日見つけた集落が消えているなんてことはなかった。当たり前の話だ。人が20人だか30人だか住んでいそうな場所が一晩で消えていたら、それはそれで別の問題が発生している。
それでも俺は、崩れたビルの二階から双眼鏡を覗きながら、昨日と同じ場所から細い煙が上がっているのを見て少しだけ安心していた。昨日とは違って雨は降っていない。雲はまだ厚く、朝の光は鈍い。濡れた道路には水溜まりが残り、崩れた建物の窓や錆びた車体が白っぽい空を映している。
その向こう。廃ビル数棟を取り込むように作られたバリケードの内側では、すでに何人もの人間が動いていた。
見張り台に一人。屋上に一人。地上では数人が昨日の雨で傷んだらしい場所を補修している。別の建物からは水の入った容器を抱えた人間が出てきた。
「……思ったよりいるな」
『現在までに確認できた人物は13名です』
「昨日と合わせると?」
『重複の可能性を除外できないため、正確な人数は算出できません』
「まあ、だよな」
集落の正面には、横倒しになった大型車両と鉄板、工事用フェンスを組み合わせた門がある。軍事施設ほど堅牢じゃない。それでも補修された跡があちこちにあり、5年前に作られてそのままになっているものではないことは一目で分かった。
今も誰かが直している。
今も誰かが使っている。
ここには生活がある。
「おじさん」
「ん?」
「まだ?」
振り返ると、アイが壁際に座っていた。窓から姿が見えない位置で膝を抱え、その横には歯ブラシ一本だけが入った小さな布の鞄が置かれている。
「まだ」
「さっきも、まだ」
「こういうのは時間かかるんだよ」
『アイが待機を開始してから37分14秒が経過しています』
「わざわざ教えなくていい」
「さんじゅうななふん」
「お前も覚えなくていい」
昨日、一時退避場所へ戻る途中にも「こども、いた」。戻ってからも「ちいさいの、いた」。今朝、俺が起きれば「きょう、いく?」。飯を食っていれば「いついく?」。
無理もない。俺と会ってから、アイが直接接した人間は俺だけだ。それ以前については何も覚えていない。昨日見た人影は、事実上、俺以外で初めて意識する人間だった。しかも、自分と同じくらいの子供までいる。
再び双眼鏡を構えると、奥の建物から小さな影が飛び出してきた。
女の子だ。
たぶんアイと同い年か少し上。黒っぽい髪を後ろで雑に結び、大人用を直したらしい上着を着ている。何かを両手で抱えながら走り、途中で一つ落として慌てて戻っている。
「……いた」
「なに?」
「昨日の子供」
ガタッ、と音がした。
「待て」
立ち上がったアイの肩を押さえる。
「みたい」
「あとでな」
「また、あと」
「今から行くんだよ」
アイの顔が一瞬で変わった。
「いく?」
「行く」
『主様。接触を決定しますか』
「ああ。これ以上見てても分からん」
完全に安全だと確認する方法なんてない。何日眺めていたって、最後は接触しなければ何も分からない。俺たちには情報が必要だ。物資も必要だ。そして、戦争中の軍施設やISという言葉について何か知っている人間がいる可能性もある。
「行くぞ」
「うん」
『了解しました』
建物を出て、集落へ向かう。
近づくほど、人の手が入った痕跡は増えていった。道路脇の瓦礫は寄せられ、倒れかけた標識には補強材が当てられ、建物の入口には廃材を組み合わせた雨除けが付いている。使われている材料はどれも古い。それでも、その古いものを拾い集めて何度も直しながら暮らしているのが分かる。
「いっぱい、なおしてる」
「ああ」
「おじさんみたい」
「俺?」
「こわれたの、なおす」
『規模ではこちらが圧倒的に上です』
「張り合ってねえよ」
集落まで30メートルを切ったところで、監視台にいた男の動きが変わった。
俺たちを見つけた。
「止まれ!」
大声が飛んでくる。
アイの肩が僅かに跳ねた。
俺はその場で足を止め、両手を見える位置へ出して俺は大声で返す。
「敵意はない! 話がしたい!」
その後、監視台の男が下へ何か叫んだ。
少し待つ。
門の内側が動いた。
出てきたのは、一人だった。
30歳前後の男。多分、同世代くらいだろう。
短い髪に、使い込まれた暗色の上着。手には銃を持っているが、銃口はこちらへ向けていない。ただし、すぐに上げられる位置だ。
男は門から十数歩進んだところで止まった。
視線が俺の全身を走る。
最初にM-68。
次に両手。
腰回り。
足元。
ピコ。
最後にアイ。
見る場所と順番に覚えがある。
ただ武器を持っているだけの人間じゃない。
こいつは……。
「腰の銃を地面に置け」
男がM-68を顎で示した。
「それは断る」
「なら、ここから先には来るな」
「話をしたいだけだ」
「武器を持ったままか?」
「そっちも持ってる」
男は表情を変えなかった。
「ここは俺たちの場所だ」
「分かってる。だから勝手に入らずに正面から来た」
返事はない。
しばらく、お互いを見る。
面倒な沈黙だった。
だが、嫌いじゃない。
少なくともこいつは、何も考えず銃を振り回すタイプじゃない。
俺の服が引かれた。
「おじさん」
「大丈夫だ。そこにいろ」
「うん」
男の視線がアイへ動き、それからピコで止まる。
「……その機械は何だ」
「ピコ」
「名前じゃない」
『私の名称はピコです』
「今は黙ってろ」
『はい』
男の眉間に皺が寄った。
「自律型か?」
「違う」
『厳密には――』
「ピコ」
『……』
「軍用か?」
今度は俺が黙った。
ピコの素性をここで全部説明する必要はない。
男もそれを察したらしい。
「答える気はないか」
「そっちのことも何も知らないからな」
「だったら帰れ」
「お互い様だろ」
また沈黙。
この距離なら、男が撃とうとすれば動きで分かる。逆も同じだ。向こうも俺の右手を見ている。
妙に懐かしい間合いだった。
「……軍にいたのか」
男が不意に聞いた。
俺は少しだけ目を細めた。
「なんでそう思う」
「立ち方」
「そっちもな」
男の表情が初めて僅かに動いた。
「久世冬馬」
「ユウ」
「名字は?」
「今はユウでいい」
「そうか」
冬馬。
覚えておく。
冬馬は銃を下げないまま、俺の後ろにいるアイを見た。
「その子は?」
「アイ」
「娘か?」
「違う」
「妹?」
「違う」
「じゃあ何だ」
「……俺も説明に困ってる」
「おじさん」
「なんだ」
「アイ、おじさんのなに?」
今聞くな。
『同居人が最も事実に近い表現です』
「ピコ、お前も入ってくるな」
冬馬が俺たちを見る。
ほんの一瞬だけ、警戒とは別の顔をした。
だがすぐ元に戻る。
「ここで待て」
「どこ行く」
「話ができる奴を呼んでくる」
「お前とはできないのか?」
「俺の仕事は、知らない奴を中に入れないことだ」
「なるほど」
筋は通っている。
冬馬は後ろへ下がりながら、それでも俺たちから視線を外さなかった。
「動くなよ」
「分かってる」
門の内側へ消える。
「いなくなった」
「呼びに行っただけだ」
「こわいひと?」
「どうだろうな」
『警戒心は非常に高いと判断します』
「おじさんと、にてる?」
「似てない」
『類似点は複数――』
「似てない」
『了解しました』
数分後、門から冬馬が戻ってきた。
今度はもう一人いる。
40代くらいの男だった。武器は持っていない。冬馬より少し後ろを歩いているのに、不思議とそっちの方へ目が行く。門の近くにいた人間たちも、その男が通ると自然に場所を空けていた。
男は俺たちの少し手前で止まった。
まず俺を見る。
次にアイ。
最後にピコ。
急いで口を開かず、一度だけ周囲を確認した。
「待たせたな」
落ち着いた声だった。
「榊修司だ。ここにいる連中をまとめてる」
「ユウ」
「冬馬から聞いた」
榊は俺の腰のM-68へ一度だけ目を向けたが、それについては何も言わなかった。
「話がしたいそうだな」
「ああ。情報交換。できれば物資の交換もしたい」
「何の情報だ?」
「この辺りの状況。それと戦争中の軍施設について」
榊の表情は変わらない。
「軍施設?」
「ああ」
「探してるものがあるのか」
「ある。ただ、それをどこまで話すかは、あんたたちのことを知ってから決めたい」
榊は少し考えた。
「慎重だな」
「そっちもだろ」
「5年もこの廃墟で生きてればそうなる」
「同感だ」
榊の視線が俺からアイへ移った。
「その子も一緒に?」
「ああ」
「名前は?」
今度も俺が答える前に、アイが顔を出した。
「アイ」
榊が少しだけ笑う。
「そうか。アイちゃんか」
「ちゃん」
アイが自分を指差す。
「アイちゃん?」
「嫌ならアイでいい」
「いや?」
「俺に聞くな」
アイは少し考えた。
「どっちでもいい」
「そうか」
榊が笑った。
ほんの僅かだったが、最初に冬馬と向き合ったときより空気が軽くなる。
榊は再び俺を見る。
「門の内側までなら入っていい。ただし銃は抜かない。勝手に建物へ入らない。物には触れない」
「分かった」
「ピコ」
アイが小声で呼ぶ。
『はい』
「アイと、おなじ」
『規則についてでしょうか』
「さわらない」
『理解しました』
「お前ら、そこで意気投合するな」
榊が少しだけ首を傾げた。
「いつもこんな感じなのか?」
「最近はな」
冬馬が門の一部を開ける。
人一人が通れる程度の隙間だった。
「入れ」
冬馬が言う。
その声に歓迎の色はない。
だが、追い返されもしなかった。
俺が先に進もうとすると、袖が引かれた。
「どうした?」
アイが門の向こうを見ている。
さっきまであれだけ入りたがっていたのに、足が止まっていた。
門の内側には人がいる。
工具を運ぶ男。水の容器を抱えた女。壁際に座る老人。こちらを遠巻きに見ている者。建物の窓から顔だけ出している者。
10人どころじゃない。
「いっぱい」
アイが呟く。
「ああ」
「みんな、ひと?」
「そうだよ」
「おじさんと、おなじ?」
「同じ人間だ」
アイは黙ってその光景を見つめた。
昨日まで、この子にとって人間とはほとんど俺一人だった。
俺が食べるから、人間は腹が減る。
俺が眠るから、人間は眠る。
俺が怪我をして血を流したから、人間は傷つけば痛い。
そんなふうに、俺一人を材料にして人間というものを覚えてきた。
今、その世界が門の向こうに何十人分も広がっている。
「行くぞ」
「……うん」
アイが俺の袖を掴む。
俺が先に門をくぐり、アイが続く。ピコは俺たちの少し後ろを低く飛んだ。
中へ入った瞬間、匂いが変わった。
煙。煮炊き。濡れた布。油。土。古い建物の黴臭さ。その全部に、人が暮らしている匂いが混じっている。どこかで金属を叩く音がする。別の場所では誰かが話している。鍋の蓋が鳴り、遠くで笑い声がした。
静かじゃない。
それが妙に落ち着かなかった。
5年間、俺が歩いてきた東京は、いつだって静かだったから。
アイはもっと露骨だった。
右を見る。
左を見る。
振り返る。
また右を見る。
「前見て歩け」
「いっぱい」
「それはさっき聞いた」
「こっちにもいる」
「いるよ」
「むこうにも」
「いるって」
『アイ。前方に障害物です』
「ん」
アイが危うく踏みそうになった木箱を避ける。
「ピコ、ありがとう」
『どういたしまして』
「観光じゃないぞ、お前ら」
『観光という行為について、アイへの説明はまだ行われていません』
「じゃあ今は教えなくていい」
榊が少し前を歩いている。
冬馬は俺たちの後方。
監視されているのは分かっている。
それでいい。
こっちだって観察している。
集落の中央付近まで来たところで、榊が足を止めた。
「ここで待っててくれ。話せる場所を用意する」
「ああ」
榊は冬馬に何か短く告げ、そのまま別の建物へ向かった。
冬馬も俺たちから少し距離を取り、門の方へ戻っていく。
結果として、俺たち三人だけがその場に残された。
「おじさん」
「なんだ」
「こどもは?」
やっぱりそれか。
「知らん」
「さっき、いた」
「集落のどっかにはいるだろ」
「さがす?」
「探さない」
「なんで?」
「勝手に歩くなって今言われただろ」
「……さわらないも?」
「そう」
「はなれないも?」
「それは俺が言った」
アイが小さく頷いた。
「いっぱい、ある」
『現在適用されている主な規則は――』
「まとめなくていい」
そのとき、少し離れた建物の陰から何かが覗いた。
顔だ。
小さな顔。
俺より先にアイが気づく。
「あ」
昨日の女の子だった。
向こうもアイを見ている。
数秒、二人とも動かなかった。
女の子が建物の陰から半分だけ身体を出す。
アイも俺の横から半分だけ身体を出す。
なぜ同じ動きをする。
女の子が首を傾げる。
アイも首を傾げた。
『同期しています』
「してない」
女の子が一歩出てきた。
年齢は8歳くらいだろう。少し大きめの上着を着ている。膝には布を当てた補修跡があった。
その子は俺を警戒するように一度見たあと、またアイを見る。
「……子供」
アイが小さく答える。
「こども」
「女の子?」
アイが俺を見る。
「俺を見るな」
「おんなのこ?」
「そうだよ」
俺が答えると、アイは自分を指差した。
「アイも?」
「そう」
「おなじ」
女の子が少し近づく。
今度はアイの髪をじっと見た。
「髪、青い」
アイが自分の髪を摘む。
「うん」
「染めたの?」
「そめた?」
「知らない?」
「しらない」
「最初から?」
アイがまた俺を見る。
「だから俺を見るなって」
「おじさん、しってる?」
「会ったときからその色だよ」
「じゃあ、さいしょから」
「俺基準ではな」
女の子が笑った。
初めてだった。
アイが、自分と同じくらいの子供に笑われたのは。
アイは怒るでもなく、困るでもなく、その顔をじっと見ている。
「なんで、わらった?」
「なんか面白かったから」
「おもしろい?」
「うん」
「アイが?」
「うん」
アイが俺を見る。
「悪い意味じゃない。たぶん」
「たぶん?」
「俺に聞くな」
女の子がまた笑った。
「変な子」
アイは少し考えた。
それから女の子を指差す。
「あなたも」
「え?」
「へん」
「なんで!?」
「わらう」
「笑うよ!」
「なんで?」
「面白いから!」
「だから、なんで?」
「えー……」
早くも詰まっていた。
俺は少しだけ笑いそうになる。
初対面でアイの質問攻めを受ける気持ちが、ようやく俺以外にも分かる奴が現れた。
『主様』
「なんだ」
『僅かに嬉しそうです』
「気のせいだ」
そのとき、女の子が何か思い出したように言った。
「あ。わたし、澪」
「みお」
「三枝澪。8歳」
アイが自分を指差す。
「アイ」
「それは聞いた」
「なな……くらい」
澪が目を丸くした。
「くらい?」
アイが俺を見る。
今度は俺も諦めた。
「その辺も色々あるんだよ」
「おじさん、色々ばっかり」
初対面の子供にまで言われた。
「お前、さっきから聞いてたのか?」
「ちょっと」
「どこから?」
「いっぱい、のところ」
ほぼ最初じゃねえか。
澪がもう一歩近づく。
アイは逃げない。
ただ、俺の袖はまだ掴んだままだ。
「ねえ、アイ」
「なに?」
「その鞄、何入ってるの?」
アイの表情が変わった。
小さな布の鞄を両手で前へ持ってくる。
少しだけ得意そうに。
「はぶらし」
「……歯ブラシ?」
「うん」
「それだけ?」
「うん」
澪が黙る。
アイは胸を張っている。
「わたしの」
「……そっか」
「たいせつ」
澪は一瞬だけ不思議そうな顔をした。
でも、笑わなかった。
「じゃあ、なくしたら駄目だね」
「うん」
アイの返事が少しだけ大きくなった。
俺は二人を見ながら、何も言わなかった。
たぶんアイにとっては、こういうのが必要だった。
俺が教えるんじゃない。
ピコが分析するんでもない。
同じくらいの背丈の誰かと話して、相手のことを知って、自分のことを話す。
それは俺にもピコにも教えられない。
少し離れた場所から、女性の声がした。
「澪?」
澪の肩が跳ねる。
「あ」
「どこにいるの?」
「ここー!」
澪が大声で返す。
建物の向こうから足音が近づいてくる。
「勝手にいなくならないでって言ったでしょう」
現れたのは30代くらいの女性だった。髪を後ろでまとめ、腕には布と小さな容器を抱えている。
女性はまず澪を見る。
怪我をしていないか確かめるように頭から足まで。
それから、澪の隣にいるアイに気づいた。
「……あら」
アイが俺の袖を少し引いた。
「おじさん」
「ん?」
「あたらしいひと」
「そうだな」
今度は、俺たちがこの女性を知る番らしい。
知らない人間が一気に増えたわけじゃない。
一人。
また一人。
そうやって少しずつ、アイの世界に人間が増えていく。
5年間、静かだった世界が、ほんの少しだけ騒がしくなり始めていた。




