Ep.21 推定と一致しました。
旧警察施設を出てから一時間ほど経った頃には、俺たちの移動速度は徒歩と大差なくなっていた。
雨は弱まるどころか、むしろ時間が経つほど酷くなっている。空はまだ夕方にもなっていないはずなのに薄暗く、厚い雲のせいで街全体が青みがかった灰色に沈んでいた。ヘッドライトを点けていなければ、数十メートル先の道路状況すらまともに見えない。道路には水が流れ、タイヤが深い水溜まりを踏むたびに盛大な飛沫が跳ね上がった。
しかも、道がない。
いや、端末の地図にはある。
そこが余計に腹立たしい。
「……またかよ」
俺はバイクを止め、目の前の光景を睨んだ。
今度は崩落でも冠水でもなかった。
道路の真ん中に、一本の電柱が横倒しになっている。そこへ電線や看板の支柱、どこから飛んできたのか分からない金属板まで絡まり、完全に道を塞いでいた。その向こうに道路は続いているのに、バイク一台通せる隙間すらない。
アイが俺の前から顔を上げる。
「また、みちない?」
「……ないな」
『正確には道路そのものは存在します』
「ピコ」
『はい』
「今その正確さ、いる?」
『主様が「道がない」と発言したため訂正しました』
「そうか。じゃあ俺が悪かった。道はある。でも通れない」
『はい』
「満足?」
『事実関係は正確になりました』
「よかったな」
アイが電柱を見る。
「どかす?」
「無理」
「三人で?」
「無理」
「ピコも?」
『私の重量は約8.6kgです。電柱撤去への寄与は限定的です』
「お前、こういうときだけ自分の小ささ認めるよな」
『私は常に自身の寸法を正確に認識しています』
「そういう意味じゃない」
アイがバイクから降りようとした。
「待て」
ぴたりと止まる。
「おりない?」
「俺が先」
足をつく。
道路脇へバイクを寄せてから、俺は地面へ降りた。
靴の裏が水へ沈む。
ぐしゃ。
「……最悪」
『水深約3.2cmです』
「聞いてねえ」
『主様が不快感を示したため、原因を――』
「靴の中に水入ったからだよ」
『推定と一致しました』
「よかったな」
今日何回目だ、この会話。
アイもバイクから降りた。
ぱしゃ。
両足が水溜まりへ入る。
自分の足元を見る。
もう一度、片足を上げる。
ぱしゃ。
「アイ」
ぱしゃ。
「おい」
ぱしゃ。
「遊ぶな」
「?」
本人は遊んでいる自覚がなかったらしい。
「みず、でる」
「踏んでるからな」
もう一度踏もうとする。
「やめろって」
「なんで?」
「濡れる」
「もうぬれてる」
反論できなかった。
頭から足まで、三人とも――いや、ピコはともかく――とっくにずぶ濡れだ。アイの淡い水色の髪からは絶えず水滴が落ち、服も完全に水を吸って身体へ張りついている。
「……だからって増やす必要ないだろ」
「ふえる?」
「濡れてる量」
アイは自分の服を見下ろした。
それから俺を見る。
「おじさんも、いっぱい」
「知ってる」
『主様の衣服もほぼ飽和状態です』
「ピコ」
『はい』
「お前だけなんか腹立つな」
『理由が不明です』
「濡れても平気そうだからだよ」
『防滴性能があります』
「ほら腹立つ」
『理不尽です』
二基のプロペラを低速で回しながら、ピコが電柱の上を越えていく。
俺は端末を取り出した。
画面にも細かな水滴がつく。
現在位置から検問所まで、直線ならもう大した距離じゃない。
だが、直進できない。
また迂回。
地図を拡大する。
「右は……」
『約四百メートル先で道路が合流します』
「通れる保証は?」
『ありません』
「左」
『約九百メートル先で合流します』
「通れる保証」
『ありません』
「だよな」
俺は端末を閉じた。
アイが横から覗き込んでいた。
「どっち?」
「分からん」
「おじさん、しらない?」
「ああ」
「ピコは?」
『分かりません』
アイの顔が少し明るくなった。
「また、おなじ」
「なんで嬉しそうなんだよ」
「三人とも、しらない」
「俺は全然嬉しくねえ」
『私も未知情報の存在を喜ぶ機能はありません』
「アイだけじゃねえか」
「アイ、うれしい」
「そうかよ」
結局、距離の短い右側を選んだ。
そこから三十分。
結果だけ言えば、右は外れだった。
地図上では道路だった場所が、途中から川みたいになっていた。
「……」
俺は無言で止まった。
アイも無言で前を見る。
ピコだけが頭上から言う。
『通行を推奨しません』
「分かってる」
『先ほどの分岐まで戻る必要があります』
「分かってる」
『推定損失時間は――』
「言うな」
『了解しました』
雨音だけが続く。
アイが恐る恐る振り返った。
「おじさん」
「なんだ」
「おこってる?」
「怒ってない」
「かお、こわい」
「雨に怒ってんだよ」
アイは空を見る。
「雨、わるい?」
「今日はちょっとな」
「じゃあ」
空を見上げたまま言う。
「だめ」
「誰に言ってんだ?」
「雨」
「止まった?」
しばらく待つ。
当然、止まらない。
「……だめだった」
「だろうな」
『降雨に意思疎通能力は確認されていません』
「お前はもうちょっと夢を持て」
『夢は睡眠時に――』
「その夢じゃねえ」
引き返した。
さっきの分岐まで戻る頃には、さすがに俺も疲れていた。
右腕の古傷も少し疼いている。ずっとバイクに乗っていたせいで腰も痛い。雨で身体は冷え、靴の中はぐしゃぐしゃだ。
何より、暗くなってきている。
端末を見る。
検問所までは、迂回すればまだ距離がある。
行けない距離じゃない。
ただし、行くべき距離かどうかは別だ。
俺は空を見た。
夕方。
雲。
雨。
未知の区域。
目的地は戦時中の検問所。
弾は十二発しかない。
連れているのは、世界の常識を覚え始めたばかりの子供と、俺の頭を定位置だと思っている箱。
「……今日はやめる」
「やめる?」
「ああ」
『検問所への移動を中止しますか』
「明日にする」
アイが俺を見る。
「きょう、いかない?」
「このまま行ったら着く頃には暗い。知らない場所を夜に調べるのは危なすぎる」
『妥当な判断です』
「だろ」
『約四十七分前に判断していれば、不要な往復を回避できました』
「お前ほんっとそういうとこだぞ」
『事実です』
「四十七分前のお前は右が通れないって言ったか?」
『いいえ』
「じゃあ共犯だ」
『その論理には同意できません』
「却下」
「きょうは?」
アイが聞く。
「泊まれる場所探す」
「とまる?」
「ああ」
「どこ?」
「それを今から探す」
アイは少し考えた。
「おうち?」
「違う」
即答した。
「今日は泊まるだけ」
「とまるだけ」
「そう」
「おうちじゃない?」
「ああ」
アイは病院がある方角を振り返った。
もちろん、ここから見えるわけがない。
「じゃあ、おうちは?」
俺は一瞬だけ黙った。
「病院だよ」
「でも、いまいけない」
「ああ」
「じゃあ、なくなった?」
「なくなってない」
アイが俺を見る。
「帰れなくなっただけだ。家そのものが消えたわけじゃない」
「……かえれる?」
「帰る」
俺はそう答えた。
できるかどうかじゃない。
帰るつもりで動いている。
そのために弾を探して、そのためにここまで来た。
アイはしばらく俺を見てから、小さく頷いた。
「じゃあ、きょうは、とまるだけ」
「そういうこと」
『宿泊場所の選定を開始します』
「頼む」
そこからは、寝床探しになった。
条件は多い。
一階は駄目だ。これだけ雨が降っている以上、浸水する可能性がある。
大きすぎる建物も避けたい。確認する場所が増えるし、何か潜んでいても分かりにくい。
窓が全部割れている場所も駄目。
入口が開きっぱなしなのも嫌だ。
できれば二階以上。
屋根が残っている。
階段が使える。
そして、倒壊しそうにない。
「注文多いな」
『安全確保には必要です』
「分かってる」
最初に見つけたのは、小さな飲食店だった。
却下。
一階しかない。
次は三階建ての雑居ビル。
ピコを飛ばして調べる。
『二階床面に大規模な崩落があります』
「却下」
次。
古い集合住宅。
『階段が崩落しています』
「却下」
「いっぱい、だめ」
「泊まる場所選びは大事なんだよ」
「びょういんは?」
「……覚えてねえ」
『以前の居住区画から病院への移住決定まで三日と十一時間――』
「お前は覚えてんのかよ」
『はい』
「便利だな」
『ありがとうございます』
「褒めてない」
『認識を修正します』
四軒目。
道路沿いに、二階建ての小さな事務所があった。
一階のガラスはかなり割れているが、建物そのものは傾いていない。二階の窓も半分以上残っている。外階段は錆びているものの、形は保っていた。
「……ここ」
『候補として適切です』
「中見るぞ」
バイクを建物の陰へ寄せる。
エンジンを止めた。
ピコが先行する。
俺はM-68を抜いた。
「アイ。ここで待て」
「いっしょじゃない?」
「まず俺とピコで見る」
「アイもみる」
「駄目」
「なんで?」
「何かいたら危ないから」
「おじさんは?」
「俺は銃持ってる」
「ピコは?」
『私は飛行可能です』
「アイは?」
「ここで待つ係」
「……」
明らかに不満そうな顔をした。
「大事な係だぞ」
「ほんと?」
「ああ。バイク見てろ」
「バイク、にげる?」
「逃げねえけど」
「じゃあ、みなくていい」
「……確かに」
『主様』
「なんだ」
『説得に失敗しています』
「見れば分かる」
結局、入口付近まで一緒に連れていき、そこから動くなと約束させた。
俺とピコで中を確認する。
一階は駄目だった。割れた窓から雨が吹き込み、床の一部は完全に水浸しになっている。机や棚も倒れ、使えるものはほとんどない。
外階段から二階へ上がる。
錆びた金属が足元で軋む。
「……落ちるなよ」
『耐荷重は――』
「数字言わなくていい」
『まだ算出していません』
「じゃあ余計に言うな」
二階の扉は鍵が壊れていた。
中へ入る。
元は小さな事務所だったらしい。
机が四つ。
棚。
給湯スペース。
奥に小さな会議室。
窓の一枚は割れているが、残りは無事。床も乾いている。
埃は酷い。
でも、寝られないほどじゃない。
「ピコ」
『生体反応なし。活動中の機械反応なし。床面および主要構造に即時の崩落兆候は確認できません』
「決まりだな」
下へ戻る。
アイはちゃんといた。
入口の横に立っている。
「待ってたか」
「うん」
「動いてない?」
「うごいてない」
ピコを見る。
『私の監視範囲外でした』
「お前に聞いてない」
アイが俺を見る。
「ちゃんといた」
「分かった分かった」
頭を軽く撫でる。
「えらい」
アイの表情が少し明るくなった。
「また、えらい」
「ああ」
「きょう、にかいめ」
「数えてんの?」
「うん」
「……そうか」
荷物を二階へ運ぶ。
バイクは一階奥の屋根が残っている場所へ入れ、道路から見えないようにした。
二階の会議室を使うことにした。
窓が一つしかなく、扉も閉まる。
床には古いカーペットが敷かれている。
埃まみれだったので、まず掃除。
「ピコ」
『はい』
「頼む」
『何をでしょうか』
「掃除」
『私には清掃機能はありません』
「腕あるだろ」
『物品操作用です』
「ホコリ払えるだろ」
『可能ですが、効率的ではありません』
「俺一人でやれって?」
『アイがいます』
「アイを巻き込むな」
「アイ、やる」
『本人の意思です』
「お前らこういう時だけ息合うな」
結局、三人でやった。
俺が床の大きなゴミを集め、アイが小さな布で机を拭き、ピコが二本のアームで軽いものを運ぶ。
五分後。
「ピコ」
『はい』
「それどこ持ってくの」
ピコのアームには、空の紙箱が挟まれていた。
『邪魔にならない位置へ移動します』
「そこ俺の荷物置いた場所」
『では別の場所へ』
「アイ」
見る。
机を拭いていた。
同じ場所だけを。
ずっと。
「そこ、もう綺麗だぞ」
「まだふいてる」
「見れば分かる」
「きれいになる」
「もうなってる」
「もっと?」
「机なくなるまで磨く気か」
アイが手を止めた。
「なくなる?」
「なくならない。冗談」
「じょうだん」
「今は覚えなくていい」
「おぼえた」
「早えよ」
なんだかんだで、二十分後には人が座れる程度にはなった。
俺は壁際へ荷物を置き、濡れた上着を脱いだ。
水が床へ落ちる。
「……気持ち悪」
アイもびしょ濡れだ。
「お前も脱げる上だけ脱いどけ。濡れたままだと――」
言いかけて止まる。
こいつ、風邪ひくのか?
そもそも病気になるのか?
身体は温かい。
心臓も動いている。
呼吸もする。
でも食事も水も睡眠も必要ない。
分からない。
「おじさん?」
「……とにかく乾かそう」
持っている予備の布を渡す。
「髪拭け」
アイは布を頭に乗せた。
そのまま止まる。
「……拭くんだよ」
「こう?」
頭の上で布を左右に動かす。
ぐしゃぐしゃ。
「違う違う。貸せ」
布を取る。
俺がアイの髪を拭く。
淡い水色の髪から水が吸われていく。
アイはされるがままになっていた。
「おじさん」
「ん?」
「これ、なに?」
「髪拭いてんの」
「なんで?」
「乾かすため」
「かわく?」
「そのうちな」
「おじさんのは?」
「後でやる」
アイが俺の濡れた髪へ手を伸ばした。
ぺた。
「つめたい」
「だから濡れてんだよ」
「アイ、やる」
「何を」
布を取られた。
そして頭へ押しつけられる。
「おい」
ごしごし。
「痛い痛い」
ごしごしごし。
「アイ、待て。髪抜ける」
「かわかす」
「力加減!」
『主様』
「助けろ!」
『乾燥効率は上昇しています』
「そういう問題じゃねえ!」
数分後。
俺の髪は乾くどころか、ただ盛大にぐしゃぐしゃになった。
アイは満足そうだった。
「できた」
「……そうか」
『非常に独創的な髪型です』
「ピコ、お前あとで覚えてろよ」
『記録します』
「そうじゃねえ」
外では相変わらず雨が降り続いていた。
けれど、さっきまで道路の上で浴びていた雨音とは違う。屋根と窓を隔てて聞くそれは、一定の低い響きになって部屋を満たしている。時折、遠くで雷が鳴り、窓ガラスが微かに震えた。
俺は携帯ライトを机の中央へ置いた。
淡い光が三人のいる小さな部屋だけを照らす。
病院の電灯とは違う。
狭くて。
暗くて。
知らない場所。
アイが部屋を見回した。
「きょう、ここ?」
「ああ」
「ここで、ねる?」
「俺はな」
「アイは?」
「お前は寝ないだろ」
「うん」
「じゃあ俺が寝てる間、ピコと見張り」
『私が主担当です』
「アイもやる」
『補助担当とします』
「ほじょ」
『はい』
「アイ、ほじょ」
なぜか嬉しそうだ。
俺は保存食を取り出した。
警察施設で手に入れた物資と、持ってきた食料を確認する。
「飯にするか」
アイが寄ってくる。
「たべる」
「腹減らないんじゃなかったのか」
「おいしい」
「……そうだったな」
『本日のアイの摂取は生命維持上必要ありません』
アイがピコを見る。
「ピコ、たべない」
『はい』
「おいしい、しらない」
『味覚器官がありません』
「かわいそう」
『問題ありません』
「かわいそう」
『問題ありません』
「かわいそう」
『問題ありません』
「お前らいつまでやるんだ」
俺は二人分だけ用意した。
温める燃料は節約したい。
今日はそのまま食う。
アイは文句を言わない。
というか、温かい食事と冷たい食事の優劣をまだそこまで気にしていない。
しばらく、三人で――正確には二人で食べ、一人が浮いていた。
外は雨。
知らない建物。
遠い病院。
なのに、不思議とさっきまでほど落ち着かない感じはしなかった。
食べ終わったアイが、小さなバッグを開いた。
中から歯ブラシを出す。
俺は思わず見た。
「……持ってきてたのか」
「うん」
「ずっと?」
「アイの」
「ああ。そうだったな」
こいつにとって初めての、自分だけの物。
病院を飛び出したときも忘れず持ってきたらしい。
アイは歯ブラシを握って俺を見る。
「はみがき」
「水少しだけな」
「うん」
ピコが近づく。
『計測します』
「お前、ここでもやるの?」
『習慣の継続は重要です』
「病院じゃなくても?」
『場所によって歯垢除去の必要性は変化しません』
「……確かに」
アイは歯を磨き始める。
ピコが時間を測る。
俺はその光景を見ながら、少しだけ笑った。
知らない場所まで来ても、やっていることは病院と大して変わらない。
食べて。
歯を磨いて。
くだらない話をする。
アイが口を濯いでから、窓の方を見る。
「おじさん」
「ん?」
「ここも、おうち?」
俺は手を止めた。
さっき外でも似たようなことを聞かれた。
でも、今は意味が少し違う気がした。
アイはこの部屋を見ている。
俺がいて。
ピコがいて。
食事をして。
歯を磨いた。
病院でやっていたことを、ここでもやった。
だから聞いたんだろう。
「違う」
「ちがう?」
「ああ。今日は泊まるだけ」
「じゃあ、おうちは、びょういん?」
「そうだ」
「でも、ここにも、おじさんいる」
「ああ」
「ピコも」
『はい』
「アイもいる」
「ああ」
「でも、おうちじゃない?」
少し難しい質問だった。
俺は壁へ背中を預けた。
「家ってのはな……」
言葉を探す。
説明しようとすると、意外と難しい。
建物じゃない。
人だけでもない。
「……帰る場所、かな」
「かえる?」
「ああ。外に出ても、最後にはそこへ戻るだろ」
「びょういんに?」
「そう」
アイは考える。
「じゃあ、いまも?」
「今もだ」
「てき、いるのに?」
「いるから帰れないだけだ」
「なくなってない?」
「なくなってない」
アイはしばらく黙っていた。
それから小さなバッグを胸元へ引き寄せた。
「じゃあ、かえる」
「ああ」
「三人で?」
「三人で」
ピコが少し浮上した。
『帰還経路については再検討が必要です』
「……お前さ」
『はい』
「今だけちょっと黙ってられない?」
『理由が不明です』
「いい感じだったから」
『何がでしょうか』
「もういい」
アイが笑った。
その夜。
俺は会議室の床へ薄いシートを敷き、丸めた上着を枕代わりにした。快適とは程遠いが、雨の中で野宿するより何百倍もマシだ。
アイは窓際に座っている。
ピコはその横で低く浮いていた。
「外出るなよ」
「うん」
「窓にも近づきすぎるな」
「うん」
「何か聞こえたら俺起こせ」
「うん」
「ピコ」
『監視を継続します』
「頼む」
目を閉じる。
雨音がする。
知らない天井。
知らない匂い。
知らない街。
それでも、少し離れたところからアイの声が聞こえた。
「ピコ」
『はい』
「おじさん、ねた?」
『まだです』
「……」
少し静かになる。
俺は目を閉じたまま言った。
「聞こえてるぞ」
「まだだった」
『私が伝えました』
「実況すんな」
また静かになる。
今度は一分ほど。
「ピコ」
『はい』
「いまは?」
『覚醒状態です』
「お前ら寝かせる気ある?」
アイが小さく笑う。
「しー」
「お前が言うな」
そのあと、どれくらい経ったのかは分からない。
雨音を聞いているうちに、身体の力が抜けていった。
最後に目を開けたとき、アイは窓の外を眺めていた。ピコがその隣に浮かび、二本の青い光を静かに灯している。
病院じゃない。
いつもの部屋でもない。
それでも、見慣れた二人がそこにいた。
俺はそのまま目を閉じた。
明日になれば、さらに遠くへ行く。
戦時中の検問所。
まだ見たことのない街。
端末の地図にも、俺自身の記録がほとんどない場所。
けれど今夜は、ここまででいい。
雨はまだ、知らない街を叩き続けていた。




