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アイは、生きている。  作者: LALA
第3章 生存者
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22/47

Ep.21 推定と一致しました。

 旧警察施設を出てから一時間ほど経った頃には、俺たちの移動速度は徒歩と大差なくなっていた。

 雨は弱まるどころか、むしろ時間が経つほど酷くなっている。空はまだ夕方にもなっていないはずなのに薄暗く、厚い雲のせいで街全体が青みがかった灰色に沈んでいた。ヘッドライトを点けていなければ、数十メートル先の道路状況すらまともに見えない。道路には水が流れ、タイヤが深い水溜まりを踏むたびに盛大な飛沫が跳ね上がった。

 しかも、道がない。

 いや、端末の地図にはある。

 そこが余計に腹立たしい。

 「……またかよ」

 俺はバイクを止め、目の前の光景を睨んだ。

 今度は崩落でも冠水でもなかった。

 道路の真ん中に、一本の電柱が横倒しになっている。そこへ電線や看板の支柱、どこから飛んできたのか分からない金属板まで絡まり、完全に道を塞いでいた。その向こうに道路は続いているのに、バイク一台通せる隙間すらない。

 アイが俺の前から顔を上げる。

 「また、みちない?」

 「……ないな」

 『正確には道路そのものは存在します』

 「ピコ」

 『はい』

 「今その正確さ、いる?」

 『主様が「道がない」と発言したため訂正しました』

 「そうか。じゃあ俺が悪かった。道はある。でも通れない」

 『はい』

 「満足?」

 『事実関係は正確になりました』

 「よかったな」

 アイが電柱を見る。

 「どかす?」

 「無理」

 「三人で?」

 「無理」

 「ピコも?」

 『私の重量は約8.6kgです。電柱撤去への寄与は限定的です』

 「お前、こういうときだけ自分の小ささ認めるよな」

 『私は常に自身の寸法を正確に認識しています』

 「そういう意味じゃない」

 アイがバイクから降りようとした。

 「待て」

 ぴたりと止まる。

 「おりない?」

 「俺が先」

 足をつく。

 道路脇へバイクを寄せてから、俺は地面へ降りた。

 靴の裏が水へ沈む。

 ぐしゃ。

 「……最悪」

 『水深約3.2cmです』

 「聞いてねえ」

 『主様が不快感を示したため、原因を――』

 「靴の中に水入ったからだよ」

 『推定と一致しました』

 「よかったな」

 今日何回目だ、この会話。

 アイもバイクから降りた。

 ぱしゃ。

 両足が水溜まりへ入る。

 自分の足元を見る。

 もう一度、片足を上げる。

 ぱしゃ。

 「アイ」

 ぱしゃ。

 「おい」

 ぱしゃ。

 「遊ぶな」

 「?」

 本人は遊んでいる自覚がなかったらしい。

 「みず、でる」

 「踏んでるからな」

 もう一度踏もうとする。

 「やめろって」

 「なんで?」

 「濡れる」

 「もうぬれてる」

 反論できなかった。

 頭から足まで、三人とも――いや、ピコはともかく――とっくにずぶ濡れだ。アイの淡い水色の髪からは絶えず水滴が落ち、服も完全に水を吸って身体へ張りついている。

 「……だからって増やす必要ないだろ」

 「ふえる?」

 「濡れてる量」

 アイは自分の服を見下ろした。

 それから俺を見る。

 「おじさんも、いっぱい」

 「知ってる」

 『主様の衣服もほぼ飽和状態です』

 「ピコ」

 『はい』

 「お前だけなんか腹立つな」

 『理由が不明です』

 「濡れても平気そうだからだよ」

 『防滴性能があります』

 「ほら腹立つ」

 『理不尽です』

 二基のプロペラを低速で回しながら、ピコが電柱の上を越えていく。

 俺は端末を取り出した。

 画面にも細かな水滴がつく。

 現在位置から検問所まで、直線ならもう大した距離じゃない。

 だが、直進できない。

 また迂回。

 地図を拡大する。

 「右は……」

 『約四百メートル先で道路が合流します』

 「通れる保証は?」

 『ありません』

 「左」

 『約九百メートル先で合流します』

 「通れる保証」

 『ありません』

 「だよな」

 俺は端末を閉じた。

 アイが横から覗き込んでいた。

 「どっち?」

 「分からん」

 「おじさん、しらない?」

 「ああ」

 「ピコは?」

 『分かりません』

 アイの顔が少し明るくなった。

 「また、おなじ」

 「なんで嬉しそうなんだよ」

 「三人とも、しらない」

 「俺は全然嬉しくねえ」

 『私も未知情報の存在を喜ぶ機能はありません』

 「アイだけじゃねえか」

 「アイ、うれしい」

 「そうかよ」

 結局、距離の短い右側を選んだ。

 そこから三十分。

 結果だけ言えば、右は外れだった。

 地図上では道路だった場所が、途中から川みたいになっていた。

 「……」

 俺は無言で止まった。

 アイも無言で前を見る。

 ピコだけが頭上から言う。

 『通行を推奨しません』

 「分かってる」

 『先ほどの分岐まで戻る必要があります』

 「分かってる」

 『推定損失時間は――』

 「言うな」

 『了解しました』

 雨音だけが続く。

 アイが恐る恐る振り返った。

 「おじさん」

 「なんだ」

 「おこってる?」

 「怒ってない」

 「かお、こわい」

 「雨に怒ってんだよ」

 アイは空を見る。

 「雨、わるい?」

 「今日はちょっとな」

 「じゃあ」

 空を見上げたまま言う。

 「だめ」

 「誰に言ってんだ?」

 「雨」

 「止まった?」

 しばらく待つ。

 当然、止まらない。

 「……だめだった」

 「だろうな」

 『降雨に意思疎通能力は確認されていません』

 「お前はもうちょっと夢を持て」

 『夢は睡眠時に――』

 「その夢じゃねえ」

 引き返した。

 さっきの分岐まで戻る頃には、さすがに俺も疲れていた。

 右腕の古傷も少し疼いている。ずっとバイクに乗っていたせいで腰も痛い。雨で身体は冷え、靴の中はぐしゃぐしゃだ。

 何より、暗くなってきている。

 端末を見る。

 検問所までは、迂回すればまだ距離がある。

 行けない距離じゃない。

 ただし、行くべき距離かどうかは別だ。

 俺は空を見た。

 夕方。

 雲。

 雨。

 未知の区域。

 目的地は戦時中の検問所。

 弾は十二発しかない。

 連れているのは、世界の常識を覚え始めたばかりの子供と、俺の頭を定位置だと思っている箱。

 「……今日はやめる」

 「やめる?」

 「ああ」

 『検問所への移動を中止しますか』

 「明日にする」

 アイが俺を見る。

 「きょう、いかない?」

 「このまま行ったら着く頃には暗い。知らない場所を夜に調べるのは危なすぎる」

 『妥当な判断です』

 「だろ」

 『約四十七分前に判断していれば、不要な往復を回避できました』

 「お前ほんっとそういうとこだぞ」

 『事実です』

 「四十七分前のお前は右が通れないって言ったか?」

 『いいえ』

 「じゃあ共犯だ」

 『その論理には同意できません』

 「却下」

 「きょうは?」

 アイが聞く。

 「泊まれる場所探す」

 「とまる?」

 「ああ」

 「どこ?」

 「それを今から探す」

 アイは少し考えた。

 「おうち?」

 「違う」

 即答した。

 「今日は泊まるだけ」

 「とまるだけ」

 「そう」

 「おうちじゃない?」

 「ああ」

 アイは病院がある方角を振り返った。

 もちろん、ここから見えるわけがない。

 「じゃあ、おうちは?」

 俺は一瞬だけ黙った。

 「病院だよ」

 「でも、いまいけない」

 「ああ」

 「じゃあ、なくなった?」

 「なくなってない」

 アイが俺を見る。

 「帰れなくなっただけだ。家そのものが消えたわけじゃない」

 「……かえれる?」

 「帰る」

 俺はそう答えた。

 できるかどうかじゃない。

 帰るつもりで動いている。

 そのために弾を探して、そのためにここまで来た。

 アイはしばらく俺を見てから、小さく頷いた。

 「じゃあ、きょうは、とまるだけ」

 「そういうこと」

 『宿泊場所の選定を開始します』

 「頼む」

 そこからは、寝床探しになった。

 条件は多い。

 一階は駄目だ。これだけ雨が降っている以上、浸水する可能性がある。

 大きすぎる建物も避けたい。確認する場所が増えるし、何か潜んでいても分かりにくい。

 窓が全部割れている場所も駄目。

 入口が開きっぱなしなのも嫌だ。

 できれば二階以上。

 屋根が残っている。

 階段が使える。

 そして、倒壊しそうにない。

 「注文多いな」

 『安全確保には必要です』

 「分かってる」

 最初に見つけたのは、小さな飲食店だった。

 却下。

 一階しかない。

 次は三階建ての雑居ビル。

 ピコを飛ばして調べる。

 『二階床面に大規模な崩落があります』

 「却下」

 次。

 古い集合住宅。

 『階段が崩落しています』

 「却下」

 「いっぱい、だめ」

 「泊まる場所選びは大事なんだよ」

 「びょういんは?」

 「……覚えてねえ」

 『以前の居住区画から病院への移住決定まで三日と十一時間――』

 「お前は覚えてんのかよ」

 『はい』

 「便利だな」

 『ありがとうございます』

 「褒めてない」

 『認識を修正します』

 四軒目。

 道路沿いに、二階建ての小さな事務所があった。

 一階のガラスはかなり割れているが、建物そのものは傾いていない。二階の窓も半分以上残っている。外階段は錆びているものの、形は保っていた。

 「……ここ」

 『候補として適切です』

 「中見るぞ」

 バイクを建物の陰へ寄せる。

 エンジンを止めた。

 ピコが先行する。

 俺はM-68を抜いた。

 「アイ。ここで待て」

 「いっしょじゃない?」

 「まず俺とピコで見る」

 「アイもみる」

 「駄目」

 「なんで?」

 「何かいたら危ないから」

 「おじさんは?」

 「俺は銃持ってる」

 「ピコは?」

 『私は飛行可能です』

 「アイは?」

 「ここで待つ係」

 「……」

 明らかに不満そうな顔をした。

 「大事な係だぞ」

 「ほんと?」

 「ああ。バイク見てろ」

 「バイク、にげる?」

 「逃げねえけど」

 「じゃあ、みなくていい」

 「……確かに」

 『主様』

 「なんだ」

 『説得に失敗しています』

 「見れば分かる」

 結局、入口付近まで一緒に連れていき、そこから動くなと約束させた。

 俺とピコで中を確認する。

 一階は駄目だった。割れた窓から雨が吹き込み、床の一部は完全に水浸しになっている。机や棚も倒れ、使えるものはほとんどない。

 外階段から二階へ上がる。

 錆びた金属が足元で軋む。

 「……落ちるなよ」

 『耐荷重は――』

 「数字言わなくていい」

 『まだ算出していません』

 「じゃあ余計に言うな」

 二階の扉は鍵が壊れていた。

 中へ入る。

 元は小さな事務所だったらしい。

 机が四つ。

 棚。

 給湯スペース。

 奥に小さな会議室。

 窓の一枚は割れているが、残りは無事。床も乾いている。

 埃は酷い。

 でも、寝られないほどじゃない。

 「ピコ」

 『生体反応なし。活動中の機械反応なし。床面および主要構造に即時の崩落兆候は確認できません』

 「決まりだな」

 下へ戻る。

 アイはちゃんといた。

 入口の横に立っている。

 「待ってたか」

 「うん」

 「動いてない?」

 「うごいてない」

 ピコを見る。

 『私の監視範囲外でした』

 「お前に聞いてない」

 アイが俺を見る。

 「ちゃんといた」

 「分かった分かった」

 頭を軽く撫でる。

 「えらい」

 アイの表情が少し明るくなった。

 「また、えらい」

 「ああ」

 「きょう、にかいめ」

 「数えてんの?」

 「うん」

 「……そうか」

 荷物を二階へ運ぶ。

 バイクは一階奥の屋根が残っている場所へ入れ、道路から見えないようにした。

 二階の会議室を使うことにした。

 窓が一つしかなく、扉も閉まる。

 床には古いカーペットが敷かれている。

 埃まみれだったので、まず掃除。

 「ピコ」

 『はい』

 「頼む」

 『何をでしょうか』

 「掃除」

 『私には清掃機能はありません』

 「腕あるだろ」

 『物品操作用です』

 「ホコリ払えるだろ」

 『可能ですが、効率的ではありません』

 「俺一人でやれって?」

 『アイがいます』

 「アイを巻き込むな」

 「アイ、やる」

 『本人の意思です』

 「お前らこういう時だけ息合うな」

 結局、三人でやった。

 俺が床の大きなゴミを集め、アイが小さな布で机を拭き、ピコが二本のアームで軽いものを運ぶ。

 五分後。

 「ピコ」

 『はい』

 「それどこ持ってくの」

 ピコのアームには、空の紙箱が挟まれていた。

 『邪魔にならない位置へ移動します』

 「そこ俺の荷物置いた場所」

 『では別の場所へ』

 「アイ」

 見る。

 机を拭いていた。

 同じ場所だけを。

 ずっと。

 「そこ、もう綺麗だぞ」

 「まだふいてる」

 「見れば分かる」

 「きれいになる」

 「もうなってる」

 「もっと?」

 「机なくなるまで磨く気か」

 アイが手を止めた。

 「なくなる?」

 「なくならない。冗談」

 「じょうだん」

 「今は覚えなくていい」

 「おぼえた」

 「早えよ」

 なんだかんだで、二十分後には人が座れる程度にはなった。

 俺は壁際へ荷物を置き、濡れた上着を脱いだ。

 水が床へ落ちる。

 「……気持ち悪」

 アイもびしょ濡れだ。

 「お前も脱げる上だけ脱いどけ。濡れたままだと――」

 言いかけて止まる。

 こいつ、風邪ひくのか?

 そもそも病気になるのか?

 身体は温かい。

 心臓も動いている。

 呼吸もする。

 でも食事も水も睡眠も必要ない。

 分からない。

 「おじさん?」

 「……とにかく乾かそう」

 持っている予備の布を渡す。

 「髪拭け」

 アイは布を頭に乗せた。

 そのまま止まる。

 「……拭くんだよ」

 「こう?」

 頭の上で布を左右に動かす。

 ぐしゃぐしゃ。

 「違う違う。貸せ」

 布を取る。

 俺がアイの髪を拭く。

 淡い水色の髪から水が吸われていく。

 アイはされるがままになっていた。

 「おじさん」

 「ん?」

 「これ、なに?」

 「髪拭いてんの」

 「なんで?」

 「乾かすため」

 「かわく?」

 「そのうちな」

 「おじさんのは?」

 「後でやる」

 アイが俺の濡れた髪へ手を伸ばした。

 ぺた。

 「つめたい」

 「だから濡れてんだよ」

 「アイ、やる」

 「何を」

 布を取られた。

 そして頭へ押しつけられる。

 「おい」

 ごしごし。

 「痛い痛い」

 ごしごしごし。

 「アイ、待て。髪抜ける」

 「かわかす」

 「力加減!」

 『主様』

 「助けろ!」

 『乾燥効率は上昇しています』

 「そういう問題じゃねえ!」

 数分後。

 俺の髪は乾くどころか、ただ盛大にぐしゃぐしゃになった。

 アイは満足そうだった。

 「できた」

 「……そうか」

 『非常に独創的な髪型です』

 「ピコ、お前あとで覚えてろよ」

 『記録します』

 「そうじゃねえ」

 外では相変わらず雨が降り続いていた。

 けれど、さっきまで道路の上で浴びていた雨音とは違う。屋根と窓を隔てて聞くそれは、一定の低い響きになって部屋を満たしている。時折、遠くで雷が鳴り、窓ガラスが微かに震えた。

 俺は携帯ライトを机の中央へ置いた。

 淡い光が三人のいる小さな部屋だけを照らす。

 病院の電灯とは違う。

 狭くて。

 暗くて。

 知らない場所。

 アイが部屋を見回した。

 「きょう、ここ?」

 「ああ」

 「ここで、ねる?」

 「俺はな」

 「アイは?」

 「お前は寝ないだろ」

 「うん」

 「じゃあ俺が寝てる間、ピコと見張り」

 『私が主担当です』

 「アイもやる」

 『補助担当とします』

 「ほじょ」

 『はい』

 「アイ、ほじょ」

 なぜか嬉しそうだ。

 俺は保存食を取り出した。

 警察施設で手に入れた物資と、持ってきた食料を確認する。

 「飯にするか」

 アイが寄ってくる。

 「たべる」

 「腹減らないんじゃなかったのか」

 「おいしい」

 「……そうだったな」

 『本日のアイの摂取は生命維持上必要ありません』

 アイがピコを見る。

 「ピコ、たべない」

 『はい』

 「おいしい、しらない」

 『味覚器官がありません』

 「かわいそう」

 『問題ありません』

 「かわいそう」

 『問題ありません』

 「かわいそう」

 『問題ありません』

 「お前らいつまでやるんだ」

 俺は二人分だけ用意した。

 温める燃料は節約したい。

 今日はそのまま食う。

 アイは文句を言わない。

 というか、温かい食事と冷たい食事の優劣をまだそこまで気にしていない。

 しばらく、三人で――正確には二人で食べ、一人が浮いていた。

 外は雨。

 知らない建物。

 遠い病院。

 なのに、不思議とさっきまでほど落ち着かない感じはしなかった。

 食べ終わったアイが、小さなバッグを開いた。

 中から歯ブラシを出す。

 俺は思わず見た。

 「……持ってきてたのか」

 「うん」

 「ずっと?」

 「アイの」

 「ああ。そうだったな」

 こいつにとって初めての、自分だけの物。

 病院を飛び出したときも忘れず持ってきたらしい。

 アイは歯ブラシを握って俺を見る。

 「はみがき」

 「水少しだけな」

 「うん」

 ピコが近づく。

 『計測します』

 「お前、ここでもやるの?」

 『習慣の継続は重要です』

 「病院じゃなくても?」

 『場所によって歯垢除去の必要性は変化しません』

 「……確かに」

 アイは歯を磨き始める。

 ピコが時間を測る。

 俺はその光景を見ながら、少しだけ笑った。

 知らない場所まで来ても、やっていることは病院と大して変わらない。

 食べて。

 歯を磨いて。

 くだらない話をする。

 アイが口を濯いでから、窓の方を見る。

 「おじさん」

 「ん?」

 「ここも、おうち?」

 俺は手を止めた。

 さっき外でも似たようなことを聞かれた。

 でも、今は意味が少し違う気がした。

 アイはこの部屋を見ている。

 俺がいて。

 ピコがいて。

 食事をして。

 歯を磨いた。

 病院でやっていたことを、ここでもやった。

 だから聞いたんだろう。

 「違う」

 「ちがう?」

 「ああ。今日は泊まるだけ」

 「じゃあ、おうちは、びょういん?」

 「そうだ」

 「でも、ここにも、おじさんいる」

 「ああ」

 「ピコも」

 『はい』

 「アイもいる」

 「ああ」

 「でも、おうちじゃない?」

 少し難しい質問だった。

 俺は壁へ背中を預けた。

 「家ってのはな……」

 言葉を探す。

 説明しようとすると、意外と難しい。

 建物じゃない。

 人だけでもない。

 「……帰る場所、かな」

 「かえる?」

 「ああ。外に出ても、最後にはそこへ戻るだろ」

 「びょういんに?」

 「そう」

 アイは考える。

 「じゃあ、いまも?」

 「今もだ」

 「てき、いるのに?」

 「いるから帰れないだけだ」

 「なくなってない?」

 「なくなってない」

 アイはしばらく黙っていた。

 それから小さなバッグを胸元へ引き寄せた。

 「じゃあ、かえる」

 「ああ」

 「三人で?」

 「三人で」

 ピコが少し浮上した。

 『帰還経路については再検討が必要です』

 「……お前さ」

 『はい』

 「今だけちょっと黙ってられない?」

 『理由が不明です』

 「いい感じだったから」

 『何がでしょうか』

 「もういい」

 アイが笑った。

 その夜。

 俺は会議室の床へ薄いシートを敷き、丸めた上着を枕代わりにした。快適とは程遠いが、雨の中で野宿するより何百倍もマシだ。

 アイは窓際に座っている。

 ピコはその横で低く浮いていた。

 「外出るなよ」

 「うん」

 「窓にも近づきすぎるな」

 「うん」

 「何か聞こえたら俺起こせ」

 「うん」

 「ピコ」

 『監視を継続します』

 「頼む」

 目を閉じる。

 雨音がする。

 知らない天井。

 知らない匂い。

 知らない街。

 それでも、少し離れたところからアイの声が聞こえた。

 「ピコ」

 『はい』

 「おじさん、ねた?」

 『まだです』

 「……」

 少し静かになる。

 俺は目を閉じたまま言った。

 「聞こえてるぞ」

 「まだだった」

 『私が伝えました』

 「実況すんな」

 また静かになる。

 今度は一分ほど。

 「ピコ」

 『はい』

 「いまは?」

 『覚醒状態です』

 「お前ら寝かせる気ある?」

 アイが小さく笑う。

 「しー」

 「お前が言うな」

 そのあと、どれくらい経ったのかは分からない。

 雨音を聞いているうちに、身体の力が抜けていった。

 最後に目を開けたとき、アイは窓の外を眺めていた。ピコがその隣に浮かび、二本の青い光を静かに灯している。

 病院じゃない。

 いつもの部屋でもない。

 それでも、見慣れた二人がそこにいた。

 俺はそのまま目を閉じた。

 明日になれば、さらに遠くへ行く。

 戦時中の検問所。

 まだ見たことのない街。

 端末の地図にも、俺自身の記録がほとんどない場所。

 けれど今夜は、ここまででいい。

 雨はまだ、知らない街を叩き続けていた。

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