Ep.1 これ、食える?
「……寒っ」
外はまだ薄い雲に覆われていた。病院の敷地には雑草が生い茂り、ひび割れたアスファルトを突き破って若い木まで伸びている。駐車場には何台もの車が放置され、窓は割れ、タイヤは潰れ、車体は赤茶色に錆びていた。
その奥にある小さな倉庫へ向かう。
シャッターを持ち上げると、重たい金属音とともに薄暗い倉庫が現れた。その奥に、一台のバイクが停まっている。
2061年製。俺が7年乗り続けている愛車だ。
黒に近いガンメタリックの車体には、細かな擦り傷がいくつも残っている。右側には7年前につけた傷もそのままだ。それでも駆動系には定期的に手を入れているし、こんな世界になってからも整備だけは欠かしていない。
「……相変わらずだな」
『入手から7年2ヶ月が経過しています』
「そこまで正確に言わなくていい」
『記録されていますので』
「はいはい」
跨がってスイッチを入れると、中央のディスプレイが淡く点灯し、車体の内部から低い駆動音が響き始める。
「……よし」
『システム、正常です』
「行けるな」
『問題ありません』
ヘルメットを被り、リュックを背負い直す。腰にはM-68。水筒は一本。食料はゼロ。残弾は12発。
できれば、全部そのまま持って帰りたい。
アクセルを回し、病院の敷地を出た。
その先に広がるのは、かつて街だった場所だ。道路には放置車両が残り、信号機は折れ、電柱は途中から崩れている。ビルの窓はほとんど割れ、煤けた壁を蔦が這い上がっていた。アスファルトの亀裂から伸びた雑草が風に揺れる中、色褪せたコンビニや薬局の看板だけが、ここにかつて日常があったことを残している。
人の姿はない。
バイクの駆動音だけが、静かな街を通り抜けていく。
「……静かだな」
『はい』
「こういうときくらい、なんか言えよ」
『何を言えばいいのですか?』
「……分かんない」
『では、静かにします』
「いやまあ……そういう意味じゃないんだけどな」
前方に、道路の半分を塞ぐように倒壊した建物が見えてきた。俺は速度を落とし、通れそうな隙間を確認する。
「右から行く」
『了解しました』
ハンドルを切り、瓦礫を避けながら進む。
その途中だった。
崩れた建物の暗い窓から、何かがこちらを見ていた気がした。
「……」
ブレーキをかける。
『主様』
「……何かいる?」
わずかな間を置いて、ピコが答えた。
『確認できません』
割れた窓の向こうは暗い。奥で、千切れたカーテンが風に揺れている。
それだけだった。
「……見間違いか」
『可能性はあります』
「だよな」
アクセルへ手を戻した、そのときだった。
カチン。
小さな金属音が、どこかから聞こえた。
俺は手を止める。
「今の、聞いた?」
『はい』
さっきより返事が早い。
俺は道路の左右を見回した。倒れた電柱、崩れた建物、風に揺れる雑草。動いているものは見えない。
「何の音?」
『音源を特定しています』
数秒後、ピコの青白い目が明滅した。
『建物内部から発生した可能性が高いです』
「やっぱりいるじゃん」
『人間であるとは断定できません』
「動物かもしれないって?」
『はい』
「……この辺に、まだ動物なんているのか」
『確認できていません』
「じゃあ余計怖いだろ」
『恐怖を感じていますか?』
「ちょっとな」
『了解しました』
「何を了解したんだよ」
『恐怖を感じているという事実を記録しました』
「……もういい」
バイクから降り、駆動を止める。それだけで、街の静けさが急に濃くなった。遠くを抜ける風と、建物のどこかが軋む音だけが残る。
「……食料探しに来ただけなんだけどな」
『目的は変わっていません』
「分かってるよ」
M-68には手を添えるだけに留め、周囲を警戒する。
『主様』
「何」
『前方の建物に、食料品店の跡があります』
道路の先、半分崩れた建物の壁面に、赤と白の色褪せた看板が残っていた。
「……店?」
『はい』
「まだ残ってるかな」
『保存状態によります』
「行ってみる価値はあるな」
『同意します』
再びバイクに跨がり、店の前まで進む。自動ドアは動かず、割れたガラスの向こうには倒れた棚と瓦礫が見えていた。
「これは……厳しいな」
『内部に反応があります』
俺の動きが止まる。
「……何の?」
『熱源です』
「……何?」
『生体反応の可能性があります』
薄暗い店内を覗き込む。倒れた棚。その向こうに続く暗闇からは、何も見えない。
「さっきのやつか」
『可能性があります』
帰ることもできる。
だが、食料はない。今日見つからなければ、明日も探さなければならない。
「……入る」
『了解しました』
「何かあったら教えてくれ」
『可能な限り通知します』
「可能な限り?」
『私にも死角があります』
「あー……それ、今言う?」
『重要な情報です』
「……そうだな」
M-68を抜き、銃口を下げたまま店内へ入る。足元で何かが潰れ、乾いた音がした。
パキッ。
古い缶詰だった。錆びて、ラベルもほとんど残っていない。
「……これ、食える?」
『製造から41年以上経過しています』
「聞かなきゃよかった」
『食べないことを推奨します』
「だよな」
缶詰を戻した、そのときだった。
ガタン。
今度ははっきり聞こえた。
俺はM-68を構える。
「……いるな」
『はい』
棚の向こうから、低い駆動音が響き始める。
人間でも、動物でもなかった。
暗闇から姿を現したのは、四本の脚を持つ黒い機体だった。装甲は傷だらけで、塗装もところどころ剥がれている。それでも各部のセンサーは生きている。
「……哨戒型か」
『はい。戦争末期に都市部で使用されていた機体と一致します』
「やっぱりか」
見覚えがある。戦争中、こいつらとは何度もやり合った。ピコも知っている。あの頃も、こいつらを相手にするときはずっと隣にいた。
機体が四本の脚を沈ませる。
「来るぞ」
『確認しました』
直後、床を蹴った。
速い。
俺は横へ飛び退く。機体の脚が、さっきまで立っていた場所を叩き、床のタイルを砕いた。
「……相変わらず元気だな」
『長期間の稼働状態としては、非常に良好です』
「褒めてどうする」
『事実です』
機体が向き直り、間を置かず再び突っ込んでくる。俺は一歩下がって脇を抜けようとしたが、脚の先端が床を擦り、途中で軌道を変えた。
「っ……!」
咄嗟に腕を上げる。鈍い衝撃が身体を揺らし、そのまま床を転がって棚へ背中をぶつけた。
『主様の膝に打撲を検知』
「……ああ、俺も検知した」
『痛みはありますか?』
「あるに決まってるだろ」
『了解しました』
「何を了解したんだよ」
『痛みがあるという事実を記録しました』
「今それいる!?」
機体が再びこちらを向く。
俺はすぐに立ち上がった。
「ああもう、あとでいい、あとで!」
『了解しました』
再び突進。
今度は横へ飛び、倒れた棚の陰へ滑り込む。機体の脚が目の前を通過した。
そのまま背後へ回る。
「今」
『照準補助します』
M-68が小さく振動する。狙うのは前脚の関節。
引き金を引いた。
乾いた銃声が店内に響き、火花が散る。
『右前脚、損傷』
「もう一発」
『同じ箇所を推奨します』
「了解」
二発目。
関節が弾け、機体が大きく傾いた。
それでも止まらない。
「相変わらず硬い」
『戦争中も同じことを言っていました』
「覚えてるのかよ」
『記録されています』
「……そうだったな」
傾いた機体が、それでもこちらへ身体を向ける。
『左』
ピコの声と同時に身体を滑らせる。攻撃が目の前を抜け、俺はそのまま背後へ回り込んだ。
そこにあるのは、見覚えのある整備用ハッチ。
戦争中にも何度も狙った場所だ。
「ここだ」
『はい』
銃口を向け、引き金を引く。
三発目。
ハッチが吹き飛び、内部から火花が散った。機体が大きく揺れ、四本の脚から力が抜ける。頭部の白い光が消えた。
静寂が戻った。
「……終わった?」
『完全停止を確認しました』
俺はM-68を下ろす。
「残弾は?」
『9発です』
「……3発か」
『はい』
弾を補充できる場所は、今のところ見つかっていない。食料を探しに来て3発。高い買い物だった。
倒れた機体を確認してからM-68を戻す。
「さて。こいつに構ってる暇はない」
『同意します』
膝にはまだ痛みが残っていたが、歩けないほどじゃない。店の奥へ進むと、機体が出てきた先に地下へ続く階段があった。
脇の古びたプレートには、《搬入口・保管庫》とある。
「……保管庫」
『食料が保管されている可能性があります』
「だよな」
懐中電灯を点け、階段の下を照らす。光の先には埃っぽい段差が続き、その奥は暗闇に沈んでいた。
「食料、残ってるといいな」
『期待値は不明です』
「そこは、あるって言ってくれよ」
『虚偽の発言はできません』
「……お前、たまに本当に嫌な奴だな」
『性格はありません』
「そういうところだよ」
地下へ降りる。
保管庫には棚が並び、壁際にはいくつものコンテナが積まれていた。地上より埃は厚いが、荒らされた形跡は少なく、保存状態も悪くない。
懐中電灯を左右へ向ける。
「……さて」
その瞬間、腹が鳴った。
静かな地下では、やけに大きく聞こえた。
『主様』
「なんだ」
『空腹を検知しました』
「……解体するぞおまえ」




