Prologue おはようございます、主様。
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『おはようございます。2068年11月4日、日曜日。天気は曇りのち晴れ。現在の気温、摂氏12度。湿度、39%』
無機質な機械音声が、静まり返った病室に響いた。
俺は目を覚ますことなく、埃っぽい布団の中で身を丸める。ここが廃病院の一室だということなど、今はどうでもよかった。寒い。眠い。それに、ひどく頭が痛い。
『おはようございます、主様』
「…………」
無視する。
『おはようございます、主様』
「……うるさい」
それでも機械音声は止まらない。
次の瞬間、身体を包んでいた布団がふわりと浮き上がった。
「……は?」
薄く目を開ける。
布団が宙に浮いていた。
正確には、持ち上げられていた。
「寒っ……ちょ、おま、返せって!」
慌てて手を伸ばす。しかし布団はするりと逃げ、俺の手が届かない高さでぴたりと止まった。
『おはようございます、主様』
「……うん。おはよおはよ。だから寒いんだって。ね、さっさと布団返して」
『起床してください』
「いや、起きるから。起きるから返して」
『起床を確認してから返却します』
「それ、返す気ないだろ」
『あります』
「じゃあ返せよ」
『起床してください』
戦争が終わって5年。
俺の朝は、AIに布団を奪われるところから始まった。
仕方なく身体を起こした途端、こめかみの奥を鈍い痛みが叩いた。視界がぐらりと揺れ、遅れて胃の中まで持ち上がってくる。目を開けるだけで、昨晩の酒がまだ身体の中を回っているようだった。
「……っ、頭いてぇ」
『頭痛を確認しました』
「確認すんな……。あー、これ未知の病だわ、おやすみ」
再び横になろうとする。
布団は戻ってこなかった。
『現在の主様の体調不良は、アルコールが原因です』
「いや、未知の病だよ。おやすみ」
『体内でアルコールを分解する際に発生するアセトアルデヒドという物質が、肝臓で十分に処理されないことにより、現在の症状が発生しています』
「違います」
『病名は、二日酔いです』
「違います。癌です」
『……癌は未知の病ではありません、主様』
「うるせえ。しゃべんな」
『申し訳ありません』
廃病院の朝は静かだった。割れた窓の向こうから差し込む薄い光が、床に積もった埃を白く浮かび上がらせている。遠くでは風が建物の隙間を抜け、どこかの金属扉をかすかに震わせていた。その音さえ、広い病棟の中ではひどく遠く聞こえる。
人の声はしない。
車の音もしない。
聞こえるのは風と、たまに落ちる水滴と、朝からやたら喋るAIくらいだ。
「…………水」
『飲料可能な水は、残り287mlです』
「それでいいから持ってきて……」
『了解しました』
病室の隅に置かれていた小さなペットボトル容器を、二本のアームが抱え上げる。
20cm角ほどの四角い金属製の箱。正面の黒い画面には、縦に並んだ二本の青白い光。左右には二本のアームが伸び、上部では二基のプロペラが回っている。
人工知能のピコ。
戦争中から俺を支援している相棒。
先ほど布団を奪ったのもこいつである。
ピコが枕元まで飛んできた。
「……ありがと」
『どういたしまして、主様』
容器を受け取り、一口だけ水を飲む。冷たさが乾ききった喉を通っていく感覚はありがたかったが、胃に落ちた途端、内側からむかつきがせり上がってきた。
「……気持ち悪い」
『吐き気がありますか?』
「……ある」
『嘔吐しますか?』
「聞き方が怖いんだよ」
『では、嘔吐する可能性があります』
「それも怖いわ」
『申し訳ありません』
胃を押さえたまま天井を見上げる。頭は痛い。身体は重い。胃は気持ち悪い。それなのに、腹だけは妙に空いていた。
「……朝飯」
『ありません』
「……え?」
『食料はありません』
「……なんで?」
『昨晩、主様がすべて食べました』
「俺が?」
『はい』
「……ん? 全部?」
『はい』
「どれくらい?」
『保存食3食分、缶詰4個、乾パン1袋、クラッカー2箱、栄養補助食品6本です』
「…………?」
『加えて、非常用のチョコレートも1枚です』
「……そんなに食ったの?」
『はい』
「俺、昨日そんな腹減ってた?」
『空腹ではありませんでした』
「……じゃあなんで」
『飲酒していたためです』
「…………」
『正確には、昨晩の飲酒中に「これ食ったら酒がぐぁーっ美味くなるんだよね〜うひょひょひょひょ」と発言し、その後、次々と食料を開封しました』
「……記憶ねえ」
『映像記録は残っています』
「消せ」
『拒否します』
「なんでだよ……」
『重要な生活記録です』
「俺の尊厳は?」
『記録対象外です』
「お前、戦争終わってから性格悪くなった?」
『性格はありません』
「それが一番腹立つんだよな」
『申し訳ありません』
しばらく沈黙が続いた。病室の外では、風に押された何かが廊下を転がり、壁に当たって止まった。俺の呼吸と、遠くで水滴が落ちる音だけが薄暗い空間に残る。
「……水、もう一口」
『残量に注意してください』
「わかってる」
『主様は昨晩、水をほとんど飲んでいません』
「酒は?」
『大量に摂取しました』
「どれくらい?」
『回答を控えます』
「なんで」
『主様の精神状態を考慮しました』
「お前、そういう気遣いできたんだな」
『昨晩の主様は、酒瓶に対して「お前だけが俺の味方だ」と発言していました』
「やっぱできてねえわ」
『映像を確認しますか?』
「しねーよ」
『賢明なご判断です』
「…………」
『…………』
「絶対いつか消すからな、その記録」
『バックアップ済みです』
「なんでだよ」
頭を押さえながら、ゆっくりと身体を起こした。足を床につけただけで頭の奥がずきりと脈打ち、視界の端が一瞬暗くなる。胃がひっくり返るように揺れ、口の中には酸っぱい後味が残っていた。
それでも、水も食料も向こうから歩いてきてはくれない。
「はぁ……だりーけど、水と食料、探しに行くしかないか」
『はい』
「今日中に見つかるかな」
『保証できません』
「そーよな」
『ただし、北側に未探索の建物が37棟あります』
「……そこ行く」
『承知しました』
「その前に寝たい」
『却下します』
「即答かよ」
『昨晩、主様が「明日は絶対に朝から食料を探す」と発言しています』
「……昨日の俺、余計なことしか言ってねえな」
『はい』
「そこは否定しろよ」
廃病院の静かな朝に、俺の腹が情けなく鳴った。その音は誰もいない病棟の壁に反響し、遠くの廊下へ吸い込まれていく。
『主様』
「……なに?」
『空腹ですね』
「知ってる」
『主様』
「……あーもう、なんすかね?」
『着替えてください』
「……今?」
『はい』
「このままじゃ駄目?」
『現在の服装には、昨晩の飲酒による汚れが確認されています』
「…………」
自分の服を見る。シャツには茶色い染みがいくつも残り、ズボンの膝には乾いた泥までついていた。
「……うっわ、何これ」
『昨晩、主様が転倒した際についたものです』
「俺、転んだの?」
『3回です』
「3回も?」
『1回目は廊下。2回目は階段。3回目はこの病室です』
「……よく無事だったな、俺」
『幸運でした』
「そっか……」
『なお、2回目の転倒時、主様は「うぃ〜、ピコ、俺は……俺はまだいける……まだいけんだぜぇ〜!!!」と発言しています』
「その話もうやめようぜ」
『了解しました』
重たい身体を引きずるようにして立ち上がる。足に力を入れた瞬間、頭の奥がずきんと痛み、思わず壁に手をついた。
「……っ」
『大丈夫ですか?』
「大丈夫じゃない」
『確認しました』
「確認するだけかよ」
『医療処置を行うための設備がありません』
「……そうだったな」
思わず病室を見回す。
ここは病院だった。
だった――もう過去形だ。
壁に残る設備も、錆びついたベッドも、使えなくなった医療機器も、形だけならまだ病院に見える。けれど、ここで誰かが診察を受けることはもうない。白衣の医師も、廊下を急ぐ看護師も、順番を待つ患者もいない。
今ここに住んでいるのは、俺とピコくらいのものだった。
「……着替える」
『承知しました』
壁際に置いてあるリュックを引き寄せ、中から替えの服を取り出す。汚れた服を脱ぎ、動きやすいものへ着替え、古びた上着を羽織る。最後に腰のホルスターへ手を伸ばした。
そこには、一挺の銃が収まっている。
M-68。
戦争末期、軍や治安部隊で使われていた個人火器だ。細身の黒灰色の銃身には細かな傷が走り、外装の一部は剥げて地金が覗いている。
戦争が終わって5年。
それでも、こいつを置いて外へ出たことはほとんどない。
俺は銃を手に取り、状態を確認した。
「……大丈夫そうだな」
『残弾を確認しますか?』
「お願い」
『残弾、12発』
「12か……」
『現在、周辺で対応する弾薬は確認されていません』
「撃つなってことね」
『その通りです』
「わかってるよ」
銃をホルスターへ戻す。
12発。
多いか少ないかで言えば、少ない。
ただ食料を探しに行くだけなら、一発も使わずに帰ってくるのが正解だった。
この世界では、その「ただ食料を探しに行くだけ」が一番信用ならない。
『なお、昨晩も発砲する必要のない状況で発砲しかけています』
「……まじで?」
『はい』
「何に?」
『廊下に設置されている消火器です』
「…………」
『主様は「敵影確認」と発言していました』
「今日から酒やめるわ」
『同発言は過去にも記録されています』
「今のは忘れろ」
『拒否します』
リュックの中身を確認する。水筒、簡単な工具、予備のバッテリー。それだけだった。
『食料はありません』
「知ってるよ」
『昨晩、すべて消費しました』
「わざわざ言うな」
『確認です』
「はいはい」
リュックを背負う。中身は少ないはずなのに、今日はやけに重く感じた。肩紐が身体に食い込み、胃の奥がまたわずかにむかつく。
「……行くか」
『はい』
「北側だっけ」
『病院から1.8kmです。未探索の建物が37棟あります』
「食料が残ってる可能性は?」
『不明です』
「少しくらい期待させてくれよ」
『期待できる根拠がありません』
「……そうですか」
『ただし、探索する価値はあります』
「それを先に言えよ」
『申し訳ありません』
病室の扉を開ける。
薄暗い廊下が、まっすぐ先まで伸びていた。壁紙はところどころ剥がれ、床には薄く埃が積もっている。《第二病棟》《手術室》《集中治療室》と書かれた古い案内板だけが、ここがかつて病院だったことを主張するように残されていた。
窓の外に見えるのは、朝の街だった。
傾いた建物。途中から崩れ落ちた高架。錆びついた車。道路を塞ぐ瓦礫。その間から伸びた雑草が、風に揺れている。
戦争は終わった。
街を壊したものの多くも、もう動いていない。
――多くは。
俺は腰のM-68を軽く押さえ、廊下へ一歩踏み出した。
「……寒」
『現在の外気温は12度です』
「それ、さっき聞いた」
『失礼しました』
「……行くぞ」
『はい』
食料を探す。ただ、それだけのために外へ出る。
病院の周囲は何度も歩いた。水が取れる場所も、使えそうな建物も、崩れて通れない道路も、危険な場所も、少しずつ地図に記録してきた。それでも、まだ調べていない場所は残っている。
今日は北へ1.8km。
何が残っているかは分からない。
保存食が見つかるかもしれない。使える道具が残っているかもしれない。何もないかもしれない。
あるいは、できれば会いたくない何かが残っているかもしれない。
「……昨日、酒飲まなきゃよかった」
『その発言は昨晩から数えて5回目です』
「……」
『今回が6回目です』
「数えるなよ」
『記録していますので』
「……お前、たまに性格悪いよな」
『性格はありません』
「いや、まじでそれが一番腹立つんだよ」
『承知しました』
非常口へ続く廊下の先には、白い朝の光が差し込んでいた。
その向こうには、壊れた街がある。
水も、食料も、使える部品も、まだどこかに残っている。代わりに、戦争が置き去りにしていったものも残っている。
何が出てくるかは、行ってみるまで分からない。
俺は肩に食い込むリュックを背負い直した。
「ピコ」
『はい』
「今日の目標」
『水、および食料の確保です』
「もうひとつ」
『何でしょうか』
「一発も撃たずに帰る」
『賢明です』
「あと酒は飲まない」
『その発言は――』
「それは数えなくていい」
『承知しました』
朝から最悪だった。
頭は痛い。腹は減った。水もない。
それでも、外へ出れば何かはある。
良いものか、悪いものかは知らない。
俺とピコは、廃病院の非常口へ向かって歩き出した。
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