Ep.9 そのままで問題ありません。
食事を終えた俺は、空になった袋を丸めた。
隣を見る。
アイはまだ最後の一口を噛んでいる。
妙に遅い。
「いつまで噛んでんだ」
「んー」
「飲み込め」
「まだある」
頬を指差す。
確かに少し膨らんでいた。
「ハムスターかよ」
「はむすたー?」
「……今度見つけたら教える」
『野生個体との遭遇可能性は低いと推測します』
「分かってるよ」
やがてアイがごくんと飲み込んだ。
口の中が空になったことを確認するように、二度ほど舌を動かす。
それから両手を合わせた。
「ごちそうさまでした!」
「はい、ごちそうさま」
『食事終了を確認しました』
「お前は本当に何でも確認するな」
『記録は重要です』
俺は立ち上がった。
空袋を持って部屋の隅へ向かう。
アイも立ち上がる。
俺の後ろをついてくる。
「何だ」
「かたづける」
「お」
昨日は食べ終わったあと、袋を持ったまま眺めていた。
今回は違うらしい。
「覚えてたのか」
「うん」
俺が使っているゴミ袋を指差す。
「そこ?」
「ああ。食い終わったやつはそこ」
アイが自分の空袋を見る。
ゴミ袋を見る。
入れる。
「できた」
「できたな」
『適切に廃棄されました』
アイがピコを見る。
「ピコもすてる?」
『私は廃棄物を出していません』
「そっか」
アイは少し考えて。
今度は床に落ちていた小さな紙切れを拾った。
ゴミ袋へ入れる。
「……それは別に今やらなくてもいいぞ」
「ごみでしょ?」
「まあ、ゴミだけど」
もう一つ拾う。
古い包装紙の切れ端。
それも入れる。
さらに机の下を覗き込む。
「おい」
「ごみ」
「待て待て」
俺は慌てて止めた。
アイの手には、錆びた小さな金属部品が握られている。
「それは捨てるな」
「なんで?」
「使うから」
「ごみじゃない?」
「ゴミに見えるけどゴミじゃない」
アイが金属部品を見る。
「きたないよ?」
「知ってる」
「さびてる」
「知ってる」
「じゃあ、ごみ」
「違う」
『当該部品は携帯発電機の補修用として保管されています』
「ほら」
アイがピコを見る。
「つかう?」
『はい』
「じゃあ、ごみじゃない」
「俺が言った時点で納得しろよ」
「おじさん、まちがえるから」
「いつ間違えた」
「いっぱい」
「おい」
『否定は困難です』
「ピコ、お前までそっち行くな」
『事実関係について回答したのみです』
アイが笑う。
俺は金属部品を取り返し、棚の上へ戻した。
「いいか。勝手に捨てるなよ」
「じゃあ、どうする?」
「分からなかったら聞け」
「おじさんに?」
「ああ」
アイがピコを見る。
「ピコでもいい?」
「なんで俺を飛ばすんだよ」
『私への確認でも問題ありません』
「ほら」
「だから何がほらなんだ」
アイは楽しそうに次のものを探し始めた。
嫌な予感がする。
「おい、片付け大会じゃないぞ」
「たいかい?」
「忘れろ」
『競技形式ではないという意味です』
「説明しなくていい」
『了解しました』
とはいえ。
部屋が散らかっているのは事実だった。
昨日までは気にしていなかった。
必要なものがどこにあるか、俺自身が把握していればそれでよかったからだ。
床に工具があろうが、棚から部品が溢れていようが、誰も困らない。
ここには俺しかいなかった。
正確にはピコもいたが、こいつは床に物があっても躓かない。
だが今は違う。
床を歩き回る小さいのが一人増えた。
しかも、何にでも触る。
「……片付けるか」
『賛成します』
「お前、前からそう思ってた?」
『はい』
「言えよ」
『過去に複数回提案しています』
「……そうだっけ?」
『32回です』
「そんなに?」
『はい』
アイが笑う。
「おじさん、かたづけない?」
「必要な場所は片付けてる」
『否定します』
「ピコ」
『はい』
「今日はよく喋るな」
『通常動作です』
俺はため息をついた。
まず床のものからだ。
工具。
予備部品。
空の容器。
使えそうだからと拾ってきたまま放置していた金属片。
机の下には、いつ持って帰ってきたのか覚えていないコードまである。
「……思ったよりあるな」
『以前から存在しています』
「分かってる」
俺は床へしゃがみ込む。
右腕は使えないから、左手だけで一つずつ仕分ける。
アイも隣へしゃがんだ。
「これ?」
小さなボルト。
「いる」
横へ置く。
「これは?」
割れたプラスチック片。
「いらない」
ゴミ袋へ。
「これは?」
古いコード。
「いる」
「これは?」
空箱。
「いらない」
「これは?」
「いる」
「これは?」
「……それ何だ?」
『旧式の輸液ポンプ用固定具です』
「いる?」
『現状、用途はありません』
「じゃあいらない」
アイがゴミ袋へ入れる。
「これは?」
「いる」
「これは?」
「いる」
「これは?」
「いる」
アイの手が止まった。
俺を見る。
「ぜんぶいる」
「たまたまだ」
『主様は物品を過剰に保管する傾向があります』
「いつ何が必要になるか分かんねえんだよ」
『その結果、必要な物品の所在を見失った事例が十一件あります』
「お前、今日俺に厳しくない?」
『事実を述べています』
「ピコ、もっといって」
『了解しました』
「了解すんな」
アイが声を上げて笑った。
静かだった部屋に、その声が響く。
「これは?」
アイが一枚の布を持ち上げた。
「残す」
「つかう?」
「何かに使える」
「なにに?」
「……何か」
『用途未定です』
「言い方」
アイが布を見る。
それから自分の肩に掛けてみる。
「どう?」
「何が」
「にあう?」
「なんで急にそこ覚えてんだよ」
『昨夜、衣服について説明した際に――』
「またお前か」
『はい』
アイが布を頭へ乗せる。
今度は水色の髪が半分隠れた。
「これは?」
「知らん」
「にあう?」
「はいはい、似合う似合う」
「みてない」
「見てるよ」
「ちゃんと!」
「……似合ってるよ」
アイが笑った。
布を外す。
そして。
自分の小さな肩掛け袋を見る。
一瞬だけ、そこへ入れようとした。
俺は何も言わず見ていた。
だがアイは少し考えたあと、布を元の場所へ戻した。
「いれないのか?」
「これ、アイのじゃない」
俺は少しだけ目を見開いた。
「……そうだな」
「みんなの?」
「まあ、そうなるな」
「じゃあ、ここ」
元の棚へ置く。
『適切です』
ピコが言う。
アイは自分の袋を軽く叩いた。
中で歯ブラシが小さく動いた。
「これは、アイの」
「ああ」
「これは、みんなの」
棚の布を指差す。
「ああ」
アイは何度か頷いた。
それだけで納得したらしい。
自分のもの。
俺のもの。
ピコのもの。
みんなで使うもの。
たぶん。
そういう区別も、こいつにとっては新しい。
でも。
一度覚えれば。
ちゃんと残る。
少なくとも今は。
俺は床に散らばった残りの部品へ手を伸ばした。
その横で、アイも次のゴミを探す。
頭上ではピコが棚の奥へ部品を押し込んでいる。
『主様』
「なんだ」
『この棚の収容量が限界です』
「押せば入る」
『推奨しません』
「入るって」
『崩落の可能性があります』
「大げさだな」
『では手を離します』
「待て待て待て」
ピコがアームを離しかける。
棚の上で金属部品ががらりと動いた。
「押さえろ!」
『押さえています』
「おじさん」
「なんだ!」
「かたづけ、へた」
「うるさい!」
アイが笑う。
ピコは無言で棚を押さえている。
俺は左手だけで崩れかけた部品をどうにか戻す。
結局、棚の中身まで整理する羽目になった。
俺一人だったら。
たぶん今日もやらなかった。
しばらく片付けを続けていると、病院の中に夜が来る。
電気はないから当然、照明も点かない。
俺はランタンを一つ点けた。
小さな明かりが部屋の中央に広がる。
アイがそれを見る。
もう初めて見るものじゃない。
少し眺めただけで、すぐ別の方へ視線を向けた。
「……」
自分の肩掛け袋を外す。
取り出したのは。
一本の歯ブラシ。
「お」
俺は思わず声を出した。
アイがこちらを見る。
「なに?」
「いや」
「?」
「ちゃんと覚えてたんだな」
アイが歯ブラシを見る。
「これ?」
「ああ」
「アイの」
「それは知ってる」
アイは歯ブラシを握ったまま立ち上がった。
「みがく」
「はいはい」
俺も立ち上がる。
『主様』
「なんだ」
『右腕への負荷に注意してください』
「歯磨きくらいできる」
『左手での実施を推奨します』
「分かってるよ」
「おじさんも?」
「ああ」
「いっしょ?」
「まあな」
アイが少し嬉しそうに先へ歩いていく。
「走るなよ」
「はしってない!」
「ならいい」
洗面所へ向かう。
割れた鏡。
錆びた蛇口。
水は出ない。
いつものことだ。
俺は保存してある水を少しだけ容器へ移す。
アイはその横で歯ブラシを持って待っている。
「みず、いっぱいつかわない」
「……覚えてんじゃん」
「たいせつ」
「ああ。大切」
ここでは水一杯だって貴重品だ。
アイは多分、喉が渇かない。
だからこそ。
こいつにとって水が貴重だという感覚は、本来なら分かりにくいはずだった。
それでも。
俺が言ったことは覚えている。
俺は歯ブラシへ少量の水をつけた。
アイも真似をする。
そのまま磨き始めた。
ごしごし。
「……」
ごしごし。
「……」
ごしごしごしごし。
「お前、強すぎ」
アイが止まる。
歯ブラシを口に入れたまま俺を見る。
「ん?」
「もっと優しく」
俺が左手でやって見せる。
「こう」
アイが真似をする。
さっきより動きが小さくなる。
「そうそう」
『適切な圧力です』
いつの間にかピコが後ろにいた。
「お前も来たの?」
『観察しています』
「歯ないだろ」
『ありません』
アイが歯ブラシを止める。
「ピコ、みがかない?」
『歯がありません』
「みがくところない?」
『外装の清掃は必要です』
アイがピコを見る。
それから。
歯ブラシを見る。
「これで?」
『推奨しません』
「絶対やめろ」
アイが笑う。
また磨き始める。
しばらくして。
「もういい?」
『開始から四十三秒です』
「まだ?」
『はい』
「もういっぱいみがいた」
『推奨時間には達していません』
「あとどのくらい?」
『一分十七秒です』
アイの手が止まった。
「ながい」
『時間の進行速度に変化はありません』
「そういう意味じゃない」
思わず俺が答える。
アイが俺を見る。
「おじさんもながい?」
「まあ、長く感じる時はある」
「ピコ、はやくして」
『時間を加速させる機能はありません』
「えーん」
『当該機能を搭載する予定もありません』
俺は笑いながら口を濯いだ。
「ほら。喋ってないで磨け」
「んー」
アイがまた磨き始める。
『残り58秒です』
「数えなくていい」
『残り55秒です』
「ピコ」
『はい』
「黙れ」
『了解しました』
静かになった。
ごしごし。
ごしごし。
10秒ほどして。
「ピコ」
アイが呼ぶ。
『はい』
「あと?」
『41秒です』
「ぜんぜんへってない!」
「減ってるよ」
そんなやりとりをしながらなんだかんだ歯を磨き終えたアイ。
「戻しとけよ」
「うん」
部屋へ戻り、俺は今日持ち帰った燃料を確認した。
これだけあれば、地下の非常用発電設備が生きているなら、試すことはできる。
問題は、そもそも動くのかどうか。
5年間、ろくな整備もされていない機械だ。
「明日だな」
俺は呟いた。
「なにが?」
アイがすぐ横から覗き込む。
「これ」
燃料容器を指差す。
「今日持って帰ってきただろ」
「うん」
「地下に機械がある」
「きかい」
「動けば、この病院で電気が使えるかもしれない」
アイが少し考える。
「でんき?」
『照明や一部設備を作動させるために使用されます』
ピコが補足する。
アイは天井を見る。
そこには、もう何年も点いていない照明がある。
「これ?」
「ああ」
「ひかる?」
「動けばな」
アイはしばらく照明を見上げていた。
「やる」
「何を」
「アイもやる」
「修理を?」
「うん」
「お前にできんの?」
「やってないから、わかんないよ?」
「……それ気に入ったのか」
アイが笑う。
『主様』
「なんだ」
『明日の作業について、私はアイの参加に条件付きで賛成します』
「条件?」
『危険箇所へ近づかないこと。指示なく機器へ触れないこと』
「だってさ」
アイが頷く。
「わかった」
「ほんとか?」
「ほんと」
「今日走るなって言って走ったけど」
「……」
「おい」
「こんどは、ほんと」
『信頼性については今後の行動から判断します』
「ピコ、きびしい」
『安全管理です』
俺は燃料容器を壁際へ移した。
右腕が使えないせいで、何をするにも面倒だ。
『主様』
「分かってる。左でやってる」
『まだ何も指摘していません』
「お前が言いそうなこと分かるんだよ」
『長期間の共同生活による学習結果と推測します』
「お互いにな」
俺は床へ腰を下ろした。
疲れた。
今日は朝からいろいろありすぎた。
帰ってからも片付け。
そろそろ身体が限界だった。
「……寝るか」
「ねる?」
アイが俺を見る。
「ああ」
「もう?」
「もうだよ」
「アイ、ねないよ」
「知ってる」
「ピコも?」
『私は睡眠を必要としません』
「お前ら二人とも羨ましいな」
『睡眠には生体機能維持における重要な役割があります』
「そういう話してない」
寝床へ向かう。
元は患者用だったベッド。
マットレスは古い。
それでも床よりはマシだ。
俺は横になった。
右腕を庇いながら身体を倒す。
「っ……」
小さく痛む。
アイがすぐこちらを見る。
「いたい?」
「ちょっとだけ」
「なおる?」
「その話何回目だよ」
「……」
「治るって」
「うん」
アイはベッドの横まで来た。
立ったまま俺を見る。
「なんだ」
「ねるの?」
「そうだよ」
「いつおきる?」
「朝」
「いつ?」
「外が明るくなったくらい」
アイが窓を見る。
今は真っ暗だ。
「ながい?」
「寝てる俺には一瞬」
「アイには?」
「知らん」
『約八時間と仮定した場合――』
「ピコ」
『はい』
「今はいい」
『了解しました』
俺は毛布を引き上げる。
アイはまだそこにいる。
「お前、夜中暇だからって勝手に外出るなよ」
「でない」
「地下も行くな」
「いかない」
「銃触るな」
「さわらない」
「燃料も」
「さわらない」
「記録装置も」
アイが机を見る。
ピコが解析を続けている。
「ピコがやってる」
「そう。だから触るな」
「わかった」
『私が監督します』
「頼む」
『承知しました』
俺は目を閉じた。
「おじさん」
「……なんだ」
「おやすみ」
目を開ける。
アイがベッドの横にいる。
どこで覚えた。
そう聞こうとして。
やめた。
たぶん、ピコだ。
横を見る。
『私が教えました』
「まだ何も聞いてねえよ」
『視線から推測しました』
「そうですか」
アイが笑う。
「おやすみ、おじさん」
「ああ。おやすみ」
「ピコは?」
『睡眠しません』
「おやすみ」
『……おやすみなさい』
「お前も言うんだ」
『挨拶として返答しました』
「はいはい」
もう一度目を閉じる。
ランタンの明かりが瞼越しにぼんやり見える。
アイとピコの声が小さく聞こえる。
何を話しているのかまでは分からない。
静かにしろと言おうと思った。
でもそれより先に、意識が落ちた。
どれくらい経ったのか。
当然。
俺は知らない。
部屋は静かだった。
ランタンの火は弱くなっている。
窓の外には夜の廃墟。
月明かりが崩れた建物の輪郭だけを薄く浮かび上がらせている。
ベッドでは俺が眠っている。
その横。
アイは床に座っていた。
眠くならないし、疲れもしない。
だからただ、起きている。
最初のうちは、机の上のものを眺めていた。
触ってはいけないと言われたものには触らなかった。
窓から外を見た。
星も見た。
自分の歯ブラシが乾いたか何度か確認した。
そして今は。
ベッドの横。
俺の右腕を見ていた。
白い包帯。
暗い部屋でも、それだけはよく見える。
「ピコ」
小さな声。
『はい』
ピコも音量を落として答える。
机の上。
記録装置へケーブルを接続したまま、解析を続けている。
アイが俺を見る。
「おじさん、ねてる?」
『はい』
「きこえる?」
『通常の会話音量であれば覚醒する可能性があります』
アイの声がさらに小さくなった。
「これなら?」
『問題ありません』
アイは少しだけピコへ近づいた。
「ピコ」
『はい』
「おじさん、まだいたい?」
ピコのセンサーが俺へ向く。
数秒。
『疼痛は残存していると推測します』
アイが黙った。
「まだ?」
『はい』
「なおる?」
『回復すると予測されます』
「ほんと?」
『はい』
「ぜったい?」
『医学的事象に絶対という表現は適切では――』
そこで。
ピコが止まった。
アイがじっと見ている。
『……現在確認できる傷の程度から判断すれば、回復する可能性は非常に高いです』
「……むずかしい」
『治ると思います』
「そっか」
アイは少し笑った。
「よかった」
また俺を見る。
しばらく、何も言わなかった。
ピコも何も言わない。
静かな時間が流れる。
「ピコ」
『はい』
「きょうね」
『はい』
「おじさん、ちがでた」
『確認しています』
「ピコも、おちた」
『はい』
「アイがやった?」
ピコはすぐには答えなかった。
『現時点では断定できません』
「でも」
アイが自分の手を見る。
「アイのまわりで、へんなのなった」
『その現象は確認しています』
「ピコ、いたかった?」
『私は痛覚機能を搭載していません』
「いたくない?」
『はい』
アイは少しだけ安心した顔をした。
けれど。
すぐにまた眉を下げる。
「でも、おちた」
『はい』
「こわれた?」
『一時的に機能停止しました』
「それ、こわい?」
『私には恐怖という感情はありません』
アイは首を傾げる。
「じゃあ、へいき?」
『……』
ピコの返答が止まった。
ほんの一瞬。
機械にとっては。
少し長い沈黙だった。
『機能停止は望ましい状態ではありません』
「そっか」
『はい』
「ごめんね」
『先ほども謝罪を受けています』
「もういっかいいった」
『確認しました』
「だめ?」
『いいえ』
アイがピコを見る。
「じゃあ、ごめんね」
『……はい』
アイは少しだけ笑った。
そのまま床へ座り直す。
膝を抱える。
「ピコ」
『はい』
「ここ」
自分の胸へ手を置く。
昼間と同じ場所。
「まだ、へん」
『主様の負傷についてですか?』
「うん」
「おじさんがいたいと、へん」
『はい』
「ピコ、わかる?」
ピコのセンサーがアイへ向く。
『推測は可能です』
「なに?」
少しの沈黙。
『主様から、私には答えないよう指示されています』
アイが目を丸くした。
「いま、おじさんねてるよ?」
『指示は睡眠中も有効です』
「……」
「ピコ、かたい」
『外装は金属製です』
アイが一瞬黙る。
それから。
口元を押さえて笑った。
「そっちじゃない」
『では意味を特定できません』
「もういい」
『了解しました』
アイは笑いながら、また俺を見る。
俺は何も知らず眠っている。
包帯を巻いた腕だけを毛布の外へ出して。
「おじさん」
返事はない。
「ねてる」
『はい』
アイは少しだけ身体を寄せた。
そして、俺の左手へ自分の指を伸ばす。
触れる。
起きない。
もう少し、今度は小さな手で、俺の指を握った。
『アイ』
ピコが小さく呼ぶ。
アイが振り返る。
「なに?」
『いえ』
「?」
『そのままで問題ありません』
「うん」
アイは俺の指を握ったまま、床に座っていた。
眠るわけでもなく、目を閉じるわけでもなく。
ただ、そこにいた。
窓の外では、壊れた街を抜けて、誰もいない道路を抜けて、風が吹いている。
夜は静かだった。
5年間、何度も繰り返してきた夜だ。
それなのに、今夜だけは少し違っていた。




