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アイは、生きている。  作者: LALA
第2章 灯り
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10/49

Ep.9 そのままで問題ありません。


挿絵(By みてみん)


 食事を終えた俺は、空になった袋を丸めた。

 隣を見る。

 アイはまだ最後の一口を噛んでいる。

 妙に遅い。

 「いつまで噛んでんだ」

 「んー」

 「飲み込め」

 「まだある」

 頬を指差す。

 確かに少し膨らんでいた。

 「ハムスターかよ」

 「はむすたー?」

 「……今度見つけたら教える」

 『野生個体との遭遇可能性は低いと推測します』

 「分かってるよ」

 やがてアイがごくんと飲み込んだ。

 口の中が空になったことを確認するように、二度ほど舌を動かす。

 それから両手を合わせた。

 「ごちそうさまでした!」

 「はい、ごちそうさま」

 『食事終了を確認しました』

 「お前は本当に何でも確認するな」

 『記録は重要です』

 俺は立ち上がった。

 空袋を持って部屋の隅へ向かう。

 アイも立ち上がる。

 俺の後ろをついてくる。

 「何だ」

 「かたづける」

 「お」

 昨日は食べ終わったあと、袋を持ったまま眺めていた。

 今回は違うらしい。

 「覚えてたのか」

 「うん」

 俺が使っているゴミ袋を指差す。

 「そこ?」

 「ああ。食い終わったやつはそこ」

 アイが自分の空袋を見る。

 ゴミ袋を見る。

 入れる。

 「できた」

 「できたな」

 『適切に廃棄されました』

 アイがピコを見る。

 「ピコもすてる?」

 『私は廃棄物を出していません』

 「そっか」

 アイは少し考えて。

 今度は床に落ちていた小さな紙切れを拾った。

 ゴミ袋へ入れる。

 「……それは別に今やらなくてもいいぞ」

 「ごみでしょ?」

 「まあ、ゴミだけど」

 もう一つ拾う。

 古い包装紙の切れ端。

 それも入れる。

 さらに机の下を覗き込む。

 「おい」

 「ごみ」

 「待て待て」

 俺は慌てて止めた。

 アイの手には、錆びた小さな金属部品が握られている。

 「それは捨てるな」

 「なんで?」

 「使うから」

 「ごみじゃない?」

 「ゴミに見えるけどゴミじゃない」

 アイが金属部品を見る。

 「きたないよ?」

 「知ってる」

 「さびてる」

 「知ってる」

 「じゃあ、ごみ」

 「違う」

 『当該部品は携帯発電機の補修用として保管されています』

 「ほら」

 アイがピコを見る。

 「つかう?」

 『はい』

 「じゃあ、ごみじゃない」

 「俺が言った時点で納得しろよ」

 「おじさん、まちがえるから」

 「いつ間違えた」

 「いっぱい」

 「おい」

 『否定は困難です』

 「ピコ、お前までそっち行くな」

 『事実関係について回答したのみです』

 アイが笑う。

 俺は金属部品を取り返し、棚の上へ戻した。

 「いいか。勝手に捨てるなよ」

 「じゃあ、どうする?」

 「分からなかったら聞け」

 「おじさんに?」

 「ああ」

 アイがピコを見る。

 「ピコでもいい?」

 「なんで俺を飛ばすんだよ」

 『私への確認でも問題ありません』

 「ほら」

 「だから何がほらなんだ」

 アイは楽しそうに次のものを探し始めた。

 嫌な予感がする。

 「おい、片付け大会じゃないぞ」

 「たいかい?」

 「忘れろ」

 『競技形式ではないという意味です』

 「説明しなくていい」

 『了解しました』

 とはいえ。

 部屋が散らかっているのは事実だった。

 昨日までは気にしていなかった。

 必要なものがどこにあるか、俺自身が把握していればそれでよかったからだ。

 床に工具があろうが、棚から部品が溢れていようが、誰も困らない。

 ここには俺しかいなかった。

 正確にはピコもいたが、こいつは床に物があっても躓かない。

 だが今は違う。

 床を歩き回る小さいのが一人増えた。

 しかも、何にでも触る。

 「……片付けるか」

 『賛成します』

 「お前、前からそう思ってた?」

 『はい』

 「言えよ」

 『過去に複数回提案しています』

 「……そうだっけ?」

 『32回です』

 「そんなに?」

 『はい』

 アイが笑う。

 「おじさん、かたづけない?」

 「必要な場所は片付けてる」

 『否定します』

 「ピコ」

 『はい』

 「今日はよく喋るな」

 『通常動作です』

 俺はため息をついた。

 まず床のものからだ。

 工具。

 予備部品。

 空の容器。

 使えそうだからと拾ってきたまま放置していた金属片。

 机の下には、いつ持って帰ってきたのか覚えていないコードまである。

 「……思ったよりあるな」

 『以前から存在しています』

 「分かってる」

 俺は床へしゃがみ込む。

 右腕は使えないから、左手だけで一つずつ仕分ける。

 アイも隣へしゃがんだ。

 「これ?」

 小さなボルト。

 「いる」

 横へ置く。

 「これは?」

 割れたプラスチック片。

 「いらない」

 ゴミ袋へ。

 「これは?」

 古いコード。

 「いる」

 「これは?」

 空箱。

 「いらない」

 「これは?」

 「いる」

 「これは?」

 「……それ何だ?」

 『旧式の輸液ポンプ用固定具です』

 「いる?」

 『現状、用途はありません』

 「じゃあいらない」

 アイがゴミ袋へ入れる。

 「これは?」

 「いる」

 「これは?」

 「いる」

 「これは?」

 「いる」

 アイの手が止まった。

 俺を見る。

 「ぜんぶいる」

 「たまたまだ」

 『主様は物品を過剰に保管する傾向があります』

 「いつ何が必要になるか分かんねえんだよ」

 『その結果、必要な物品の所在を見失った事例が十一件あります』

 「お前、今日俺に厳しくない?」

 『事実を述べています』

 「ピコ、もっといって」

 『了解しました』

 「了解すんな」

 アイが声を上げて笑った。

 静かだった部屋に、その声が響く。

 「これは?」

 アイが一枚の布を持ち上げた。

 「残す」

 「つかう?」

 「何かに使える」

 「なにに?」

 「……何か」

 『用途未定です』

 「言い方」

 アイが布を見る。

 それから自分の肩に掛けてみる。

 「どう?」

 「何が」

 「にあう?」

 「なんで急にそこ覚えてんだよ」

 『昨夜、衣服について説明した際に――』

 「またお前か」

 『はい』

 アイが布を頭へ乗せる。

 今度は水色の髪が半分隠れた。

 「これは?」

 「知らん」

 「にあう?」

 「はいはい、似合う似合う」

 「みてない」

 「見てるよ」

 「ちゃんと!」

 「……似合ってるよ」

 アイが笑った。

 布を外す。

 そして。

 自分の小さな肩掛け袋を見る。

 一瞬だけ、そこへ入れようとした。

 俺は何も言わず見ていた。

 だがアイは少し考えたあと、布を元の場所へ戻した。

 「いれないのか?」

 「これ、アイのじゃない」

 俺は少しだけ目を見開いた。

 「……そうだな」

 「みんなの?」

 「まあ、そうなるな」

 「じゃあ、ここ」

 元の棚へ置く。

 『適切です』

 ピコが言う。

 アイは自分の袋を軽く叩いた。

 中で歯ブラシが小さく動いた。

 「これは、アイの」

 「ああ」

 「これは、みんなの」

 棚の布を指差す。

 「ああ」

 アイは何度か頷いた。

 それだけで納得したらしい。

 自分のもの。

 俺のもの。

 ピコのもの。

 みんなで使うもの。

 たぶん。

 そういう区別も、こいつにとっては新しい。

 でも。

 一度覚えれば。

 ちゃんと残る。

 少なくとも今は。

 俺は床に散らばった残りの部品へ手を伸ばした。

 その横で、アイも次のゴミを探す。

 頭上ではピコが棚の奥へ部品を押し込んでいる。

 『主様』

 「なんだ」

 『この棚の収容量が限界です』

 「押せば入る」

 『推奨しません』

 「入るって」

 『崩落の可能性があります』

 「大げさだな」

 『では手を離します』

 「待て待て待て」

 ピコがアームを離しかける。

 棚の上で金属部品ががらりと動いた。

 「押さえろ!」

 『押さえています』

 「おじさん」

 「なんだ!」

 「かたづけ、へた」

 「うるさい!」

 アイが笑う。

 ピコは無言で棚を押さえている。

 俺は左手だけで崩れかけた部品をどうにか戻す。

 結局、棚の中身まで整理する羽目になった。

 俺一人だったら。

 たぶん今日もやらなかった。

 しばらく片付けを続けていると、病院の中に夜が来る。

 電気はないから当然、照明も点かない。

 俺はランタンを一つ点けた。

 小さな明かりが部屋の中央に広がる。

 アイがそれを見る。

 もう初めて見るものじゃない。

 少し眺めただけで、すぐ別の方へ視線を向けた。

 「……」

 自分の肩掛け袋を外す。

 取り出したのは。

 一本の歯ブラシ。

 「お」

 俺は思わず声を出した。

 アイがこちらを見る。

 「なに?」

 「いや」

 「?」

 「ちゃんと覚えてたんだな」

 アイが歯ブラシを見る。

 「これ?」

 「ああ」

 「アイの」

 「それは知ってる」

 アイは歯ブラシを握ったまま立ち上がった。

 「みがく」

 「はいはい」

 俺も立ち上がる。

 『主様』

 「なんだ」

 『右腕への負荷に注意してください』

 「歯磨きくらいできる」

 『左手での実施を推奨します』

 「分かってるよ」

 「おじさんも?」

 「ああ」

 「いっしょ?」

 「まあな」

 アイが少し嬉しそうに先へ歩いていく。

 「走るなよ」

 「はしってない!」

 「ならいい」

 洗面所へ向かう。

 割れた鏡。

 錆びた蛇口。

 水は出ない。

 いつものことだ。

 俺は保存してある水を少しだけ容器へ移す。

 アイはその横で歯ブラシを持って待っている。

 「みず、いっぱいつかわない」

 「……覚えてんじゃん」

 「たいせつ」

 「ああ。大切」

 ここでは水一杯だって貴重品だ。

 アイは多分、喉が渇かない。

 だからこそ。

 こいつにとって水が貴重だという感覚は、本来なら分かりにくいはずだった。

 それでも。

 俺が言ったことは覚えている。

 俺は歯ブラシへ少量の水をつけた。

 アイも真似をする。

 そのまま磨き始めた。

 ごしごし。

 「……」

 ごしごし。

 「……」

 ごしごしごしごし。

 「お前、強すぎ」

 アイが止まる。

 歯ブラシを口に入れたまま俺を見る。

 「ん?」

 「もっと優しく」

 俺が左手でやって見せる。

 「こう」

 アイが真似をする。

 さっきより動きが小さくなる。

 「そうそう」

 『適切な圧力です』

 いつの間にかピコが後ろにいた。

 「お前も来たの?」

 『観察しています』

 「歯ないだろ」

 『ありません』

 アイが歯ブラシを止める。

 「ピコ、みがかない?」

 『歯がありません』

 「みがくところない?」

 『外装の清掃は必要です』

 アイがピコを見る。

 それから。

 歯ブラシを見る。

 「これで?」

 『推奨しません』

 「絶対やめろ」

 アイが笑う。

 また磨き始める。

 しばらくして。

 「もういい?」

 『開始から四十三秒です』

 「まだ?」

 『はい』

 「もういっぱいみがいた」

 『推奨時間には達していません』

 「あとどのくらい?」

 『一分十七秒です』

 アイの手が止まった。

 「ながい」

 『時間の進行速度に変化はありません』

 「そういう意味じゃない」

 思わず俺が答える。

 アイが俺を見る。

 「おじさんもながい?」

 「まあ、長く感じる時はある」

 「ピコ、はやくして」

 『時間を加速させる機能はありません』

 「えーん」

 『当該機能を搭載する予定もありません』

 俺は笑いながら口を濯いだ。

 「ほら。喋ってないで磨け」

 「んー」

 アイがまた磨き始める。

 『残り58秒です』

 「数えなくていい」

 『残り55秒です』

 「ピコ」

 『はい』

 「黙れ」

 『了解しました』

 静かになった。

 ごしごし。

 ごしごし。

 10秒ほどして。

 「ピコ」

 アイが呼ぶ。

 『はい』

 「あと?」

 『41秒です』

 「ぜんぜんへってない!」

 「減ってるよ」

 そんなやりとりをしながらなんだかんだ歯を磨き終えたアイ。

 「戻しとけよ」

 「うん」

 部屋へ戻り、俺は今日持ち帰った燃料を確認した。

 これだけあれば、地下の非常用発電設備が生きているなら、試すことはできる。

 問題は、そもそも動くのかどうか。

 5年間、ろくな整備もされていない機械だ。

 「明日だな」

 俺は呟いた。

 「なにが?」

 アイがすぐ横から覗き込む。

 「これ」

 燃料容器を指差す。

 「今日持って帰ってきただろ」

 「うん」

 「地下に機械がある」

 「きかい」

 「動けば、この病院で電気が使えるかもしれない」

 アイが少し考える。

 「でんき?」

 『照明や一部設備を作動させるために使用されます』

 ピコが補足する。

 アイは天井を見る。

 そこには、もう何年も点いていない照明がある。

 「これ?」

 「ああ」

 「ひかる?」

 「動けばな」

 アイはしばらく照明を見上げていた。

 「やる」

 「何を」

 「アイもやる」

 「修理を?」

 「うん」

 「お前にできんの?」

 「やってないから、わかんないよ?」

 「……それ気に入ったのか」

 アイが笑う。

 『主様』

 「なんだ」

 『明日の作業について、私はアイの参加に条件付きで賛成します』

 「条件?」

 『危険箇所へ近づかないこと。指示なく機器へ触れないこと』

 「だってさ」

 アイが頷く。

 「わかった」

 「ほんとか?」

 「ほんと」

 「今日走るなって言って走ったけど」

 「……」

 「おい」

 「こんどは、ほんと」

 『信頼性については今後の行動から判断します』

 「ピコ、きびしい」

 『安全管理です』

 俺は燃料容器を壁際へ移した。

 右腕が使えないせいで、何をするにも面倒だ。

 『主様』

 「分かってる。左でやってる」

 『まだ何も指摘していません』

 「お前が言いそうなこと分かるんだよ」

 『長期間の共同生活による学習結果と推測します』

 「お互いにな」

 俺は床へ腰を下ろした。

 疲れた。

 今日は朝からいろいろありすぎた。

 帰ってからも片付け。

 そろそろ身体が限界だった。

 「……寝るか」

 「ねる?」

 アイが俺を見る。

 「ああ」

 「もう?」

 「もうだよ」

 「アイ、ねないよ」

 「知ってる」

 「ピコも?」

 『私は睡眠を必要としません』

 「お前ら二人とも羨ましいな」

 『睡眠には生体機能維持における重要な役割があります』

 「そういう話してない」

 寝床へ向かう。

 元は患者用だったベッド。

 マットレスは古い。

 それでも床よりはマシだ。

 俺は横になった。

 右腕を庇いながら身体を倒す。

 「っ……」

 小さく痛む。

 アイがすぐこちらを見る。

 「いたい?」

 「ちょっとだけ」

 「なおる?」

 「その話何回目だよ」

 「……」

 「治るって」

 「うん」

 アイはベッドの横まで来た。

 立ったまま俺を見る。

 「なんだ」

 「ねるの?」

 「そうだよ」

 「いつおきる?」

 「朝」

 「いつ?」

 「外が明るくなったくらい」

 アイが窓を見る。

 今は真っ暗だ。

 「ながい?」

 「寝てる俺には一瞬」

 「アイには?」

 「知らん」

 『約八時間と仮定した場合――』

 「ピコ」

 『はい』

 「今はいい」

 『了解しました』

 俺は毛布を引き上げる。

 アイはまだそこにいる。

 「お前、夜中暇だからって勝手に外出るなよ」

 「でない」

 「地下も行くな」

 「いかない」

 「銃触るな」

 「さわらない」

 「燃料も」

 「さわらない」

 「記録装置も」

 アイが机を見る。

 ピコが解析を続けている。

 「ピコがやってる」

 「そう。だから触るな」

 「わかった」

 『私が監督します』

 「頼む」

 『承知しました』

 俺は目を閉じた。

 「おじさん」

 「……なんだ」

 「おやすみ」

 目を開ける。

 アイがベッドの横にいる。

 どこで覚えた。

 そう聞こうとして。

 やめた。

 たぶん、ピコだ。

 横を見る。

 『私が教えました』

 「まだ何も聞いてねえよ」

 『視線から推測しました』

 「そうですか」

 アイが笑う。

 「おやすみ、おじさん」

 「ああ。おやすみ」

 「ピコは?」

 『睡眠しません』

 「おやすみ」

 『……おやすみなさい』

 「お前も言うんだ」

 『挨拶として返答しました』

 「はいはい」

 もう一度目を閉じる。

 ランタンの明かりが瞼越しにぼんやり見える。

 アイとピコの声が小さく聞こえる。

 何を話しているのかまでは分からない。

 静かにしろと言おうと思った。

 でもそれより先に、意識が落ちた。

 どれくらい経ったのか。

 当然。

 俺は知らない。

 部屋は静かだった。

 ランタンの火は弱くなっている。

 窓の外には夜の廃墟。

 月明かりが崩れた建物の輪郭だけを薄く浮かび上がらせている。

 ベッドでは俺が眠っている。

 その横。

 アイは床に座っていた。

 眠くならないし、疲れもしない。

 だからただ、起きている。

 最初のうちは、机の上のものを眺めていた。

 触ってはいけないと言われたものには触らなかった。

 窓から外を見た。

 星も見た。

 自分の歯ブラシが乾いたか何度か確認した。

 そして今は。

 ベッドの横。

 俺の右腕を見ていた。

 白い包帯。

 暗い部屋でも、それだけはよく見える。

 「ピコ」

 小さな声。

 『はい』

 ピコも音量を落として答える。

 机の上。

 記録装置へケーブルを接続したまま、解析を続けている。

 アイが俺を見る。

 「おじさん、ねてる?」

 『はい』

 「きこえる?」

 『通常の会話音量であれば覚醒する可能性があります』

 アイの声がさらに小さくなった。

 「これなら?」

 『問題ありません』

 アイは少しだけピコへ近づいた。

 「ピコ」

 『はい』

 「おじさん、まだいたい?」

 ピコのセンサーが俺へ向く。

 数秒。

 『疼痛は残存していると推測します』

 アイが黙った。

 「まだ?」

 『はい』

 「なおる?」

 『回復すると予測されます』

 「ほんと?」

 『はい』

 「ぜったい?」

 『医学的事象に絶対という表現は適切では――』

 そこで。

 ピコが止まった。

 アイがじっと見ている。

 『……現在確認できる傷の程度から判断すれば、回復する可能性は非常に高いです』

 「……むずかしい」

 『治ると思います』

 「そっか」

 アイは少し笑った。

 「よかった」

 また俺を見る。

 しばらく、何も言わなかった。

 ピコも何も言わない。

 静かな時間が流れる。

 「ピコ」

 『はい』

 「きょうね」

 『はい』

 「おじさん、ちがでた」

 『確認しています』

 「ピコも、おちた」

 『はい』

 「アイがやった?」

 ピコはすぐには答えなかった。

 『現時点では断定できません』

 「でも」

 アイが自分の手を見る。

 「アイのまわりで、へんなのなった」

 『その現象は確認しています』

 「ピコ、いたかった?」

 『私は痛覚機能を搭載していません』

 「いたくない?」

 『はい』

 アイは少しだけ安心した顔をした。

 けれど。

 すぐにまた眉を下げる。

 「でも、おちた」

 『はい』

 「こわれた?」

 『一時的に機能停止しました』

 「それ、こわい?」

 『私には恐怖という感情はありません』

 アイは首を傾げる。

 「じゃあ、へいき?」

 『……』

 ピコの返答が止まった。

 ほんの一瞬。

 機械にとっては。

 少し長い沈黙だった。

 『機能停止は望ましい状態ではありません』

 「そっか」

 『はい』

 「ごめんね」

 『先ほども謝罪を受けています』

 「もういっかいいった」

 『確認しました』

 「だめ?」

 『いいえ』

 アイがピコを見る。

 「じゃあ、ごめんね」

 『……はい』

 アイは少しだけ笑った。

 そのまま床へ座り直す。

 膝を抱える。

 「ピコ」

 『はい』

 「ここ」

 自分の胸へ手を置く。

 昼間と同じ場所。

 「まだ、へん」

 『主様の負傷についてですか?』

 「うん」

 「おじさんがいたいと、へん」

 『はい』

 「ピコ、わかる?」

 ピコのセンサーがアイへ向く。

 『推測は可能です』

 「なに?」

 少しの沈黙。

 『主様から、私には答えないよう指示されています』

 アイが目を丸くした。

 「いま、おじさんねてるよ?」

 『指示は睡眠中も有効です』

 「……」

 「ピコ、かたい」

 『外装は金属製です』

 アイが一瞬黙る。

 それから。

 口元を押さえて笑った。

 「そっちじゃない」

 『では意味を特定できません』

 「もういい」

 『了解しました』

 アイは笑いながら、また俺を見る。

 俺は何も知らず眠っている。

 包帯を巻いた腕だけを毛布の外へ出して。

 「おじさん」

 返事はない。

 「ねてる」

 『はい』

 アイは少しだけ身体を寄せた。

 そして、俺の左手へ自分の指を伸ばす。

 触れる。

 起きない。

 もう少し、今度は小さな手で、俺の指を握った。

 『アイ』

 ピコが小さく呼ぶ。

 アイが振り返る。

 「なに?」

 『いえ』

 「?」

 『そのままで問題ありません』

 「うん」

 アイは俺の指を握ったまま、床に座っていた。

 眠るわけでもなく、目を閉じるわけでもなく。

 ただ、そこにいた。

 窓の外では、壊れた街を抜けて、誰もいない道路を抜けて、風が吹いている。

 夜は静かだった。

 5年間、何度も繰り返してきた夜だ。

 それなのに、今夜だけは少し違っていた。

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