Act.8 礼儀作法は戦より難しい
Side グルド
礼儀作法というものを、俺は少し甘く見ていたのかもしれない。
「違います」
ぴしゃり、と言い放たれて、思わず背筋が伸びる。
目の前に立つのはオリバー嬢。
『月下の真珠』だの何だのと呼ばれたらしい美貌の公爵令嬢は、今日は扇を片手に、まるで戦場の指揮官みたいな顔をしていた。
「扇を指に挟んだのは、『お付き合いはここまでです』という意思表示です」
「……ああ」
「『ああ』ではありません。覚えてくださいませ」
「はい」
即答したつもりだったのに、彼女の顔は少しも和らがない。
屋敷の広間の一角。
今日は使用人たちまで総出で、この礼儀作法の稽古の見物――もとい、補助に駆り出されていた。
ステファンはといえば、三日前に『じゃあ、グルドのこと頼むよ』なんて楽しそうに言い残して、さっさと王都へ戻っていった。
あの野郎、本当に他人事だと思っているな。
「では、もう一度。まずは初対面のご挨拶から」
「分かった」
「分かっておりません」
「まだ何もしてないだろ!?」
思わずそう返すと、オリバー嬢は扇で口元を隠して、深々とため息をついた。
「その返しが、もう駄目なのです」
「厳しくないか?」
「礼儀とはそういうものです」
そう言って彼女は、横に控えていた若いメイドを手で示した。
「ではメアリー、お願いします」
「はい」
一歩前に出たメイドのメアリーは、少し緊張した顔でカーテシーをする。
黒髪をきちんと結い上げた、愛らしい娘だ。
俺は言われるまま一歩進み、記憶の中のステファンの動きを真似して一礼しようとした。
「初めまして。その、何も見えない夜空みたいな髪が――」
「違います」
ぴしゃり。
「何も見えない夜空、とは何です?」
「黒いだろ」
「だからといって、褒め言葉になっておりません!」
扇の先がびしりと俺を指す。
次に、彼女が呼んだのはリアンという銀色の髪の少女だった。
彼女もまた、不慣れなカーテシーを披露する。
「えっと、その艶やかな白髪が……」
「違います」
ぴしゃり。二度目の言葉と、扇が向けられる。
「こちらのリアンの髪は銀髪です。先ほど別のメイドにも『白髪も綺麗だな』と仰いましたけれど、あれは失礼極まりないですわ!」
「違いがあるのか?」
「大ありです!!」
広間の隅で、何人かのメイドが吹き出すのが聞こえた。
笑うな。こっちは真面目だ。
オリバー嬢はこめかみを押さえ、それから、もう一度静かに言い聞かせるように口を開いた。
「まず、相手をきちんと見る。髪や瞳の色を褒めるなら、見たままを丁寧に、美しく言葉にする。分からないなら無理に褒めない」
「褒めない方がいいのか?」
「傷を増やさない方がよろしいでしょう」
「辛辣だな」
「事実です」
即答だった。
「では、もう一度」
「……初めまして、リアン嬢。その銀の髪は月光のように美しい」
「よろしい」
「今のは良かったのか?」
「ええ。百点とは申しませんが、落第ではありません」
その言い方に少しだけ安堵したのも束の間、今度はオリバー嬢が扇をひらいた。
「では次。ダンスのお誘いに入ります」
「まだあるのか」
「まだ入口です」
「入口!?」
思わず叫ぶと、周囲の使用人たちがくすくす笑った。
いや待て。こんなものを全部覚えろと言うのか。
オリバー嬢はすっと俺の前に立つ。
「まず、こうして手を差し出された時」
彼女が扇を指に挟んだまま、わずかに手を上げる。
「この状態は『距離を取りたい』という意思表示です。ですから、決して深追いしてはいけません」
「深追いって何だ」
「手を強く取る。距離を詰めすぎる。逃がさぬように囲い込む。全部論外です」
「そんなことしたことないぞ」
「昨日の貴方は、ダンスの体勢に入る時に私の肩を引き寄せすぎました」
「そうだっけか」
「そうです」
扇がぴしりと俺の胸を叩いた。
「ですから、扇を手に挟まれたら『ここまで』です! ダンスのホールドも、触れるか触れないか程度で抑えるのです!」
「難しすぎないか、それは」
「令嬢方はそこを見ています」
「戦より難しいな」
「戦場ではないのですから」
真顔で返されて、俺は黙った。
それから二刻ほど。
歩き方、礼の角度、手の差し出し方、言葉の選び方、メイド相手への挨拶の練習まで延々と続き――。
「もういいだろう……」
ついに俺は椅子に座り込み、項垂れた。
「あのな、オリバー嬢」
「何でしょう」
「俺、結婚しなくてもいいかな」
その瞬間だった。
空気が凍った。
オリバー嬢の目が、すっと細くなる。
ああ、これはまずい。
「何を腑抜けたことを仰っているのです」
声音は静かだった。
静かだったが、さっきまでとは別の迫力があった。
「貴方はこの領地の領主です。貴方が子を作らなければ、この土地を誰が守るのですか?」
俺は思わず顔を上げた。
「そこまで言うか?」
「言います」
一歩、彼女がこちらへ踏み込む。
「貴方は次男です。兄君から貴方へ継承が移った以上、その継承はさらに自由に譲れるものではありません」
「……は?」
本気で意味が分からず、間の抜けた声が出た。
「何だそれ」
「王国法の、後継ぎに関する条項ですわ」
「知らん」
「知らないでは済まされませんよ!?」
「いや、むしろ何で知ってるんだ?」
そこでオリバー嬢は、初めて言葉に詰まった。
さっきまで一息に言い切っていた彼女が、ほんのわずかに目を伏せる。
その横顔に、さっきまでの教師めいた厳しさとは違う影が落ちた。
「……妹は、その法律のせいで、必ず子を産まなければならないからです」
その一言に、広間の空気が少し変わった。
俺は姿勢を正した。
「どういうことか、教えてくれるか」
オリバー嬢はしばらく黙っていた。
だがやがて、覚悟を決めたように口を開く。
「……後継ぎ指名が済んだあとに、後継ぎが変わった場合、新たな後継ぎは、その継承権をさらに自由に譲ることができません」
「俺のところで言うと、父が兄を後継ぎに決めていたのに、兄が死んで、俺に変わった。だから俺が勝手に譲れないってことか?」
「はい。正確には、貴方はご自身の子にしか譲れません」
「バルク叔父上の息子にも駄目なのか」
「駄目です」
きっぱりと言われて、背筋が寒くなった。
「……待て。じゃあ、俺に子がいなかったら?」
「ヴィネのこの地は、王の直轄領になるか、あるいは新たな家が入ることになります」
その言葉に、頭の中で何かが音を立てて繋がった。
バルク叔父上が何故あれほど口うるさく縁談を持ってきたのか。
俺が嫌がっても、見合いをやめようとしなかったのか。
ただ『家のため』だとぼんやり思っていた。けれど、その意味を俺は本当に理解していなかったのだ。
「……では、オクレール公爵夫人は?」
気づけば、そう聞いていた。
オリバー嬢は少し苦い顔になる。
「いいえ。父が亡くなった時、遺言で『オリバー・オクレールを後継ぎとする』と残していたのです」
「え?」
「ですので、本来なら私が継ぐはずでした」
一瞬、言葉を失う。
「ですが、私が修道院へ送られたことで後継ぎは変わりましたわ。ゆえに、今のオクレール家を継いだターシャは、自身の子へ継承させねばなりません」
なるほど、と喉の奥で言葉にならない声が転がった。
だからか。
だから彼女はあんな顔をしたのだ。
妹に子を産む重責がのしかかっていることを知っていて、しかもその原因の一端が自分にもあると分かっているから。
もしかすると――。
「……あんた」
思わず、声が低くなった。
「その法律を知ってたから、余計に修道院から出なかったのか」
オリバー嬢はすぐには答えなかった。
ただ、その沈黙が、何よりの答えに思えた。
「貴方の婚姻は、差し迫った問題なのです」
やがて彼女は静かに言った。
「バントス辺境伯様。貴方が子を残せなければ、この土地は貴方の血を離れます。貴方が守っておられるヴィネは、今の形では残らないかもしれないのです」
その言葉に、胸の奥が強く打たれた。
俺はずっと、結婚なんぞできなくても仕方ないと思っていた。
傷がある。顔で弾かれる。王都の令嬢たちは倒れる。
ならばもう、諦めるしかないのだと。
だが、諦めていい問題ではなかったのだ。
俺が結婚しないということは、俺一人の問題では済まない。
この土地の話になる。
バルク叔父上の顔が浮かぶ。
村の老人たち、働く女たち、草原を駆ける子どもたちの顔が浮かぶ。
父と兄が死んでまで守ったこの地が、俺の諦めで他人のものになるかもしれない。
そこまで考えて、ようやく分かった。
俺は、何も知らなかったのだ。
「……すまん」
気づけば、そう言っていた。
オリバー嬢がわずかに目を見開く。
「最初から、教えてくれ」
俺は椅子から立ち上がった。
「礼儀も、法も、何もかも、俺はちゃんと分かってなかった」
広間の空気が静まる。
バルク叔父上も、執事も、何も言わない。
メイドたちですら、さっきまでの笑いを引っ込めてこちらを見ていた。
オリバー嬢はしばらく俺を見つめていたが、やがてゆっくりと扇を閉じた。
「……承知いたしました」
静かな声だった。
「では最初からやり直しましょう。礼も、言葉も、立場も。全部です」
「頼む」
そう言うと、彼女はわずかに笑った。
それは令嬢の笑みでも、社交用の笑みでもなかった。
ほんの少しだけ、人間らしい、やわらかな笑みだった。
「今度こそ、腑抜けたことは仰らないでくださいませね」
「善処する」
「善処では困ります」
ぴしゃりと返されて、周囲から小さな笑いが漏れた。
けれど、その笑いはさっきまでとは違う。
俺を笑うというより、ようやく始まったものを見守るような空気だった。
オリバー嬢は一歩下がり、改めて扇を構える。
「では、もう一度。初対面のご挨拶から参ります」
「……ああ」
月下の真珠。
噂の悪女。
そして、容赦のない礼儀作法教師。
どれも間違いではないのかもしれない。
だが今の俺にとって何より厄介なのは、彼女の言葉が、全部正しいことだった。
そうして俺は、戦よりも難しい礼儀作法という戦場へ、もう一度引きずり戻されることになった。とになった。




