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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.7 月下の真珠


Side グルド


応接間の扉の向こうが、にわかに騒がしくなった。


ひそひそと弾んだ声。

抑えきれない興奮を含んだ、若いメイドたちの笑い声が漏れてくる。


その音に顔を上げた時には、もう扉がゆっくりと開いていた。


「オリバー様をお連れいたしました」


一礼したメイドの後ろから姿を現したその人を見て、俺は思わず息を呑んだ。


言葉が、出なかった。


目の前に立っているのは、間違いなく先ほど屋敷の前で見たオリバー・オクレール公爵令嬢だ。

黒髪に、アメジストの瞳。

その面影は同じなのに、纏う空気がまるで違う。


ドレスは、夜をそのまま織り上げたような深い色合いだった。

真珠色の細かな刺繍が胸元から裾へと流れ、歩くたびに月光の筋みたいに静かにきらめく。

露わになった首筋は細く白く、肩の線は滑らかで、腰はすっと締まり、その下に続く曲線は息を呑むほど女らしかった。


ただ美しいだけじゃない。

目が離せない。


シスター服の時も、確かに綺麗だった。

だがあの時の彼女は、影の中に立っていた。

今の彼女は違う。影を抱えたまま、それでもなお光を失わない。


まるで――。


「さすが『月下の真珠』と呼ばれた人だね」


隣で、ステファンが感心したように笑った。


その呼び名に、オリバー嬢がほんの少しだけ目を細める。


「……懐かしい呼び名ですわね」


月下の真珠。


まだ彼女がデビュタントしたばかりの頃。

夜会に現れたその姿が、月光の下で輝く真珠のようだと囁かれ、王都ではいつしか『月下の真珠』と呼ばれていた。


だが、その後に続いた悪名がすべてを塗り潰した。

わがまま、癇癪、傲慢。

縁談を次々に叩き潰し、男を手玉に取る悪女。


いつしか『月下の真珠』などという呼び名を口にする者はいなくなった。


今、目の前にいる彼女は、その失われた異名を思い出させるだけの美しさを、確かに持っていた。


「さて、ちゃんと紹介しよう」


楽しそうにステファンが言った。


「義姉上、こちらが貴女に見立てていただきたいバントス辺境伯のグルド。で、グルド、僕の義姉上のオリバー嬢だ」


その言い方に少し引っかかったが、口を挟む前にオリバー嬢が一歩前に出る。


「改めまして、よろしくお願いいたします、バントス辺境伯様」


そう言って、彼女はカーテシーをした。


その動きに、部屋の空気が止まる。


メイドたちも、辺境伯家の使用人たちも、執事も、叔父も、誰もが息を呑んでいた。

先ほど屋敷の前でも驚かされたが、今のそれは比べものにならない。


緩やかに裾が広がり、背筋は一本の線のように伸び、首の角度、視線の落とし方、指先の位置まで一分の隙もない。

見惚れる、というのはこういうことを言うのだろう。


「……こちらこそ、よろしく。オリバー嬢」


どうにかそれだけ返したものの、彼女がまだ姿勢を戻さないことに気づいて、一瞬戸惑った。


いや、返したよな。

返したのに、なんでまだそのままなんだ。

ここからさらに何かあるのか?


俺が固まったままいると、くすりと笑ったのはステファンだった。


「義姉上。ご自分で仰いますか?」


オリバー嬢はカーテシーの姿勢のまま、静かに答えた。


「でしたら、正しい作法をお見せいただければと」


意味が分からず、俺はきょとんとした。


何の話だ。


そう思った次の瞬間、ステファンが一歩前へ出る。


そしてオリバー嬢の前で、流れるようにボウ・アンド・スクレイプを取った。


片足を引き、上体を優雅に傾け、差し出された手は無理なく自然で、それでいて明らかに洗練されている。


「初めまして、オリバー嬢。その漆黒の髪は宵闇のように美しいですね」


さらりと言ってのけるあたりが腹立たしい。

だが、動きそのものは文句のつけようがなかった。


ああ、そういうことか。

いや、分かるかそんなもの。

王都の礼儀ってやつは、いちいち面倒くさい。


「ありがとうございます、オクレール公爵」


そう答えたオリバー嬢が、その手を取る。

すると次の瞬間には、するりと姿勢を戻していた。


いつの間にか、その指には扇が挟まれている。


俺はますます訳が分からなくなった。


「ターシャの姉君なだけある。所作は完璧だね」


ステファンが面白そうに言えば、オリバー嬢はわずかに首を振る。


「……久々でしたので、やはり下手ですわ」


いや、どこがだ。

思わずそう言いかけたが、さすがに飲み込んだ。


彼女はステファンの手をそっと離し、それから改めて俺を見た。


その目つきが、少しだけ変わっていた。


柔らかくもある。

だが同時に、こちらを値踏みするのではなく、冷静に観察する目だった。


「バントス辺境伯様」


「……ああ」


「失礼ながら……最初のご挨拶の段階で、令嬢方は不安を覚えられるのだと思います」


言われた瞬間、部屋がしんと静まった。


容赦がない。

だが、不思議と侮辱された感じはしなかった。

ただ事実を、穏やかに言い当てられたという響きだった。


オリバー嬢はそこで少しだけ言いにくそうに目を伏せる。


「それに、気絶したと伺いましたけれど……お顔の傷そのものというより、その場でお断りするために、少々大げさな反応を取られた方もいらしたのではないかと」


「大げさな反応……」


思わず繰り返せば、ステファンが横で楽しそうに目を細めた。


「なるほどね」


パサリ、と扇が開く。


その仕草が妙に様になっていて、俺は一瞬また見惚れそうになった。

さっきまでシスター服で静かに立っていた女と、同一人物とはとても思えない。


「少なくとも、傷だけが理由ではありませんわ。礼の形が崩れている時点で、『この方とは難しい』と判断されてしまうのでしょう」


全員が言葉を失う。

だが、ステファンだけが横でニヤニヤしている。


「つまり、礼儀が問題か」


「ええ。礼儀作法の家庭教師をお付けになれば、それだけでかなり印象は変わるかと」


にこり、と笑う。


その笑みは、さっきまでの影のある美人のものではなかった。

完璧に整えられた、令嬢の笑みだった。


「失念したな。礼儀作法を確認しなかった」


ステファンが肩をすくめる。


オリバー嬢は扇を閉じ、さらりと続けた。


「ええ。バントス辺境伯様は、お綺麗なお顔をしていらっしゃいますから。挨拶や礼を備えれば、それだけで十分印象は変わるはずですわ」


その言葉に、どくりと胸が鳴った。


お綺麗な顔。


そんなふうに言われたことが、あっただろうか。


王都では傷持ちだの、威圧感があるだの、華やかな場に向かないだの、そういう話ばかりだった。

辺境では顔など二の次だ。

強いか、役に立つか、それで十分だった。


だからこそ、その一言が妙に不意打ちだった。


オリバー嬢はそんな俺の動揺に気づいた様子もなく、小さく息をつく。


「ですので、私の役目はほとんどありませんわね」


呆れたようにそう言った、その瞬間だった。


「なら、礼儀作法を教えてくれ」


気づけば、そんな言葉が口から出ていた。


部屋の空気が固まる。


言った俺が、一番驚いた。


いや、待て。

何を言ってるんだ俺は。

普通に考えれば分かる。こういうものは家庭教師をつけるべきだ。しかも相手は公爵令嬢とはいえ、今は修道院から出てきたばかりの客人だぞ。


当然、オリバー嬢も驚いていた。

整った顔が珍しくはっきりと揺れて、思わずといったようにステファンを見る。


ああ、そうだよな。

今のはさすがに変だった。

取り消した方が――と口を開きかけたところで、ステファンが愉快そうに頷いた。


「ああ、ちょうどいいね。義姉上、教えてあげなよ」


「ステファン様?」


「さすがにこの歳まで知らなかったと周囲に知られたら、侮られるからね?」


そう言いながら、こいつは俺に向かって片目をつぶってみせた。


その仕草に、非常に嫌な予感がした。


いや、そんな生易しいものじゃない。

たぶん今、俺は自分から罠に足を突っ込んだのだ。


オリバー嬢はまだ少し迷った顔をしていた。

だが、やがて諦めたように息をつくと、静かに俺を見た。


「……本当に、よろしいのですか?」


「ああ」


一度言った以上、引っ込めるのも格好がつかない。

それに――。


「どうせなら、ちゃんと叩き直してほしい」


そう言うと、彼女はほんのわずかに目を見開いた。

それから、ふっと困ったように笑う。


「承知いたしました。では、容赦はいたしませんわよ」


その言い方に、周囲のメイドたちが嬉しそうに息を弾ませた。

叔父などは妙に感心した顔をしている。


そしてステファンだけが、心底楽しそうに笑っていた。


ああ、やっぱりだ。

失敗した。


俺はきっと今、とんでもなく面倒なことを自分から引き受けたのだろう。


けれど、もう遅い。


目の前では、噂の悪女だったはずの女が、扇を閉じて静かに佇んでいる。

『月下の真珠』。

そう呼ばれた昔の異名が、今なら少し分かる気がした。


たぶん――この女は、俺が思っていたよりずっと厄介だ。

そしてもう、簡単には目を逸らせない。


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