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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.6 妹からの贈り物

Side オリバー


案内された客室は、あまりにも立派だった。


磨き込まれた床に、陽をやわらかく通す薄布のカーテン。

大きな寝台には清潔な白いシーツが整えられ、暖炉にはすでに火が入っている。

窓辺には季節の花が活けられ、小卓には湯気の立つ茶まで用意されていた。


修道院の質素な部屋に慣れた身には、どこを見ても落ち着かない。


(……こんな部屋、私には過ぎるわ)


それが最初に浮かんだ感想だった。


シスター服の裾をつまみ、オリバーはそろりと部屋の中を見回した。

豪奢というほどではない。むしろ辺境伯家らしく、華美に走らぬ上質さがある。

だが、それでも今の自分には十分すぎる。


何より困るのは、身に着けているものだった。


六年間、修道院で使い込んできたシスター服。

きちんと洗ってはいるが、袖口も裾もくたびれていて、旅の砂埃もわずかについている。

そんな姿でこの部屋の椅子に腰を下ろすのさえためらわれた。


結局、オリバーは部屋の中央に立ったまま、小さく息を吐いた。


その時、扉が軽く叩かれる。


「義姉上、入ってもいいかな?」


聞き慣れた、柔らかな声だった。


「どうぞ」


返事をすると、扉が開く。

そこに立っていたのはステファンと、その後ろに控える侍従たちだった。


しかも、一人や二人ではない。

ぞろぞろと続いて入ってくる彼らの手には、いくつもの大きな鞄や箱が抱えられている。


オリバーは目を瞬かせた。


「……何事ですの?」


「何事って、義姉上」


ステファンは楽しそうに笑った。


「ここで生活するなら、ドレスが必要だろう?」


その言葉とともに、侍従たちが次々と荷を運び込んでいく。

待機していたメイドたちは、心得たように一礼し、手早く鞄の留め具を外し始めた。


ぱかり、と蓋が開く。


そこに詰まっていたのは、色とりどりのドレスだった。


オリバーはさすがに息を呑んだ。


「……こんなに?」


「ターシャがね、ずっとあなたが帰ってくるのを待って、少しずつ仕立てさせていたんだよ」


あまりにさらりと言われて、オリバーは思わず顔をしかめた。


「あの子は馬鹿なのですか? こんなもの、どれだけお金がかかると……」


呆れと、戸惑いと、どうしようもない温かさが混ざった声になった。

するとステファンは肩をすくめて笑う。


「まあ、中を見てから言ってよ」


そう言われて、オリバーは一番近くの箱に手を伸ばした。


そっと布地に触れた瞬間、指先が止まる。


見覚えがあった。


柔らかな青。

落ち着いた光沢。

胸元の切り替えの癖まで、どこか記憶にある。


「これ……」


「分かった?」


ステファンが目を細める。


「全部、リメイクだよ。義姉上が昔持っていたドレスをほどいて、今の形に仕立て直してある」


オリバーは、言葉を失った。


昔、自分が持っていたドレス。

おそらくは、公爵家に残されていた自分の衣装なのだろう。

けれど、ただそのまま持ってきたのではない。古びぬように、今着ても不自然ではない形に手を入れられている。


胸元の意匠はすっきりと整理され、袖のふくらみも時代遅れには見えない。

それでいて、生地そのものの良さと、元の品格は失われていなかった。


「すごいよね、ターシャ」


そう言いながら、ステファンは一通の手紙を差し出した。


白い封筒。

封じられた蜜蝋には、オクレール公爵夫人の印。


その印は、かつて母が使っていたものと同じ意匠だった。


オリバーの指先が、ほんのわずかに震える。


恐る恐る封を切れば、そこには懐かしい文字が並んでいた。


整っていて、やわらかくて、美しい字。

ターシャの字だ。


『お姉さまのドレスを少しずつリメイクしております。

元の生地も良いものですので、今着ても問題ないように整えてみました。

勝手なことをしていたらごめんなさい。


あと、できましたらこの前送ってくださったレースのハンカチを、また三枚ほど頂けないでしょうか。

お姉さまのハンカチ、かなり好評なのですよ。


こちらのことはお気になさらず。

お姉さまに似合うものを考えるのは、とても楽しい時間でした。


どうか、少しでも心安らかに過ごせますように。』


最近は教会で、文字を知らない大人や、まだ学ぶ機会を与えられない子どもたちの、たどたどしい字ばかり見ていた。

だからだろうか。


目の前のこの文字が、ひどく懐かしく、ひどく愛おしく感じられた。


ふいに、昔の記憶が蘇る。


『お姉さまの字って、お手本みたいに綺麗ね!』


はしゃいだ声。

きらきらした眼差し。

あの頃の自分は、そんな妹の言葉すら、まともに受け取っていなかった。


どうして今まで思い出せなかったのだろう。


胸の奥が、じわりと熱くなる。


手紙を持つ指先に力が入りそうになって、オリバーは慌てて息を整えた。


その様子を見守っていたメイドたちが、堪えきれなくなったように身を乗り出してくる。


「オリバー様!」


「もしよろしければ、私たちにお支度をお任せいただけませんか!?」


「こんなに綺麗なドレス、滅多に触れませんもの! ぜひ着ていただきたいのです!」


口々に訴えられて、オリバーは目を丸くした。


「え、ええと……」


修道院では、自分で着替え、自分で髪を結い、自分で身支度を整えるのが当たり前だった。

むしろ、人に何かをしてもらうことの方が落ち着かない。


戸惑っていると、背後でステファンが面白そうに笑う。


「せっかくだ。グルドが見惚れるくらい、きちんと着飾ってくれ」


「なっ……!」


思わず振り返れば、ステファンはどこまでも涼しい顔だ。


「オクレール公爵」


「何?」


「そういう、誤解を招くようなことを仰らないでくださいませ」


「誤解かな?」


笑っている。

完全に面白がっている顔だった。


メイドたちはきゃっと小さく声を上げ、ますます目を輝かせる。


「まあ!」


辺境伯(グルド)様に見惚れていただけるように、精一杯お支度いたします!」


「い、いえ、そういう意味ではなくて……!」


弁解する間もなかった。


「では、まずはお湯をご用意しておりますので!」


「こちらへどうぞ、オリバー様!」


半ば有無を言わせぬ勢いで、オリバーはメイドたちに囲まれ、そのまま湯殿へと連れて行かれた。


広々とした浴室には、すでに湯気が満ちている。

花を浮かべた湯桶まで用意されていて、修道院の簡素な洗い場とは比べものにならない。


「では失礼いたします」


「髪もお肌も、きちんと整えさせていただきますね!」


するりとシスター服を脱がされかけて、オリバーは真っ赤になった。


「ま、待ってください、自分でできます!」


「何を仰いますか、こういう時のための私どもです!」


「ですが、その……っ」


人に身体を洗われるのが、こんなにも恥ずかしいことだっただろうか。


昔は、それが当たり前だった。

侍女に髪を梳かされ、ドレスを着せられ、湯殿の支度まで整えられることに、何の疑問も抱かなかった。


なのに今は違う。


誰かに背を流されることも、髪を洗われることも、指先に触れられることも、いちいち気恥ずかしくてたまらない。


「お肌、少し乾いていらっしゃいますね」


「こちらの香油は刺激が少ないですから、ご安心ください」


「髪もお綺麗……少し整えるだけで、もっと映えますわ」


そんなふうに、あれこれ気を遣われるたびに、オリバーはますます顔を赤くした。


(わ、私、こんなに人に構われるのに慣れていなかったかしら……)


湯気の中で、耳まで熱くなる。


けれど、乱暴さはどこにもない。

メイドたちの手つきは丁寧で、まるで壊れ物に触れるように慎重だった。


それが、少しくすぐったくて。

少しだけ、泣きたくなるほど優しかった。


「オリバー様は、お綺麗なのですから」


若いメイドがぽつりと言った。


「きっと、どのドレスもお似合いになります」


その言葉に、オリバーは目を伏せる。


綺麗だと言われることは、昔からあった。

けれど今その言葉は、あの頃とはまるで違う響きで胸に落ちていく。


利用するためでも、値踏みするためでもない。

ただ、目の前の人間に似合うと思って告げる声だった。


「……ありがとう」


小さく返すと、メイドたちは嬉しそうに笑った。


湯殿の外では、次に着せるドレスを選ぶ声が聞こえる。

青がいい、いえ琥珀の瞳なら深緑も、と楽しげなやり取りが続いていた。


その賑やかさを聞きながら、オリバーは静かに息を吐く。


辺境に来てから、何もかもが変わった。

けれど今また、自分の知らない形で世界が動き出している気がした。


それが良い方向なのか、まだ分からない。

分からないけれど――。


少なくとも、この場所で、自分にできることを探したい。


そう思えたのは、きっと。


待っていてくれた妹と、

半ば強引にここまで連れて来た公爵と、

目を輝かせて世話を焼くこの屋敷の人々のおかげなのだろう。


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