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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.5 公爵の思惑

Side グルド


応接室に通された時には、オリバー嬢は侍女に案内されて客間へ下がっていた。


長旅の疲れもあるだろうし、屋敷に着いたばかりで男ばかりの場に残されるのも落ち着かないだろう。

そう思う一方で、俺はようやく息を吐けた気がした。


あの場に、噂の悪女がいる。

そう思っていたはずなのに、実際に目にしたオリバー嬢は、どうにも噂と結びつかなかった。


質素なシスター服。

公爵令嬢とは思えないほど荒れた手。

沈んだ影を帯びた、美しい顔。


何よりも、あの礼の美しさが頭から離れない。


「で」


向かいのソファに腰を下ろしたステファンが、優雅に脚を組むより早く、俺は口を開いた。


「なんで急にオリバー嬢を連れて来たんだ?」


単刀直入に問えば、ステファンは「ああ」と苦笑した。


「グルドらしいな」


「回りくどいのは嫌いでね」


「知ってるよ」


さらりと返される。

昔からこういう男だった。柔らかく笑って、人の間合いにするりと入り込んでくる。王族らしい品の良さはあるのに、妙に気安くて、気づけばこちらの警戒が削られている。


だが今日は、そう簡単に削られるわけにはいかなかった。


こっちは、王都で悪名を轟かせた女を目の前にしている。

警戒しない方がおかしい。


ステファンは肘掛けに軽く肘を置き、こちらを見た。


「理由は二つあるんだ」


「聞こう」


「一つはね、僕のところにオリバー嬢を後妻に、という話が持ち込まれていたから」


思わず眉が動いた。


「後妻?」


「そう。ある辺境伯家からね」


そこでステファンは、ひどく穏やかな口調で続けた。


「その辺境伯は、昔から義姉上の母君に執着していたらしい。だから、面差しの似ている義姉上で代えが利くと思ったんだろうね」


一瞬、言葉が出なかった。


意味は分かる。

分かるからこそ、気分が悪い。


「……最低だな」


ようやくそう吐き捨てると、ステファンは静かに頷いた。


「その通りだよ」


声音は穏やかなままだった。

だが、その穏やかさの下にある温度だけが妙に低い。


「しかも『毒婦』なのだから多少事情があっても差し支えない、くらいの言い方をしてくれてね」


その一言で、背筋が粟立つ。


王都の噂というものが、どれだけ人を安く扱うかは知っているつもりだった。

それでも、実際にこうして口にされると不快だった。


「ターシャが横にいたから、流石にその場では笑って受け流したけれど」


「笑って受け流した、で済ませたのか?」


思わずそう返すと、ステファンは薄く笑った。


「表向きは、ね」


その笑みは上品で、崩れない。

崩れないくせに、なぜか余計に怖かった。


「だから、相手が本当に求めているものを考えたんだよ」


「求めているもの?」


「義姉上ではなく、母君の面影だろう?」


さらりと返されて、俺は息を詰めた。


「……まさか」


「まさか、だよ」


にこりと笑う。


「身代わりが欲しいというなら、本人で十分だろうと思ってね」


空気が、一瞬で冷えた気がした。


俺はしばらく黙ったまま、目の前の男を見た。

笑っている。

柔らかく、穏やかに。

なのに言っていることは、ぞっとするほど容赦がない。


「先方は静養地として知られる領地を持っている。気難しい人間の扱いにも慣れている。望みどおりの相手が来るなら、むしろ喜んで受け入れるだろうね」


「……お前」


ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど低かった。


「それ、本気で言ってるのか?」


「もちろん」


一片の揺らぎもなく返される。


「義姉上を、ああいう類の縁談に出すつもりはない。なら、相手の望みそのものを差し出してしまえばいい。それだけの話だよ」


理屈としては通っている。

通っているからこそ、余計に寒気がした。


この男は、感情で怒鳴ったりしない。

代わりに、相手が二度と手を伸ばせない形で盤面をひっくり返す。


「……怖えな、お前」


思わず本音が漏れると、ステファンはきょとんとした顔をした。


「そう?」


「自覚がないならなおさら怖い」


そう返しても、こいつは涼しい顔だ。


カップに手を伸ばし、一口だけ茶を含んでから、まるで雑談の続きをするように言う。


「ただ、その話を義姉上にそのまま伝えるつもりはないよ。余計な負担はかけたくないからね」


「……だろうな」


「彼女には、母君により適した療養先が見つかった、とだけ伝えれば十分だ」


穏やかで、正しくて、そして冷たい。

目の前の男が、昔よりずっと厄介になっていることだけはよく分かった。


俺は無意識に背もたれへ深く沈み込む。


「まあ、それが一つ目の理由」


「まだあるのかよ……」


こめかみを押さえると、ステファンは楽しげに目を細めた。


「あるよ。むしろ本題は二つ目だ」


勘弁してくれ、と心の中で呟く。


「正直に言えばね、ターシャはもう四年も前から、オリバー嬢を公爵家へ戻して良縁を結ぶつもりでいたんだ」


「四年前から?」


「うん。でも、ずっと本人が拒んでいた」


その言葉に、俺は顔を上げた。


「拒んでいた?」


「賢い人だよ」


今度のステファンの声は、少しだけ真面目だった。


「自分が防波堤になれば、母親の暴走は最小限で済むと分かっていたんだ」


しばらく、言葉が出なかった。


オリバー嬢が。

自分がいなくなれば、修道院の他のシスターたちに被害が及ぶと理解したうえで、あえて残っていたというのか。


あの静かな顔の下で、そんなことを考えていたのか。


「今回も、義姉上は僕と取引してここに来た」


「取引?」


「そう」


ステファンは指を組んだ。


「修道院の資金不足を補うこと。彼女が教えているレースに販路をつけること。それから、資金を食ううえに周囲へ被害を出す母親を、別の場所へ移すこと」


聞きながら、じわじわと意味が染みてくる。


修道院の資金不足。

レースの販路。

母親の移送。


全部、まとめて片づけている。

そのうえで、本人には『お願いをしに来た』ような顔をして見せるのだから、やはりこの男は食えない。


「……待て」


思わず身を乗り出した。


「教会が困窮してるのか?」


その問いに、ステファンはにやりと笑った。

まるで、そこに食いつくのを待っていたみたいな顔だった。


「さて、バントス辺境伯」


ゆっくりと、穏やかな声で言う。


「君の領地で何が起きているのか、ちゃんと把握できているかな?」


胸の奥が、鈍く重くなった。


修道院はこの領地の中にある。

そこで暮らす女たちが、資金不足の中で慈善事業を回し、どうにか持ちこたえている。

それを、俺はどこまで知っていた?

それを知らなかったのだとしたら、領主として笑えない。


顔に出たのだろう。

ステファンはそれ以上追い打ちをかけることなく、静かに続けた。


「義姉上は、ただ手先が器用なだけじゃない。帳簿も読めるし、人手がどれだけ足りないかも見ている。公爵家で育った目を持っているから、どこが損をしているのかに気づけるんだ」


俺は黙って聞いた。


「君の領地で起きていることを、君とは違う角度から見られる人材は貴重だよ。まして義姉上は、数字も人も見られる」


「……つまり、彼女から情報を得ろと?」


「そうは言っていない」


即座に返される。


「でも、君の領地で起きていることを、君とは別の視点で見られる人がいるのは悪くない。少なくとも僕とターシャは、そう判断するくらいには義姉上を見てきた」


それから、少しだけ声が柔らかくなった。


「それに、僕にとって義姉上は、妻が心を割っている姉君だ。僕としては、一時的に彼女を守ってくれればいい。あとの整理は、こちらでつける」


その言い方に、また少しだけ背筋が冷えた。


『整理をつける』。


たぶんこの男の中では、もうそこまで筋道が立っているのだ。

伯爵家の件も、クロエの件も、義姉上の今後も、全部。


俺はソファの背に深くもたれた。


「……つまり、お前は」


「うん?」


「問題だらけの義姉を俺のところに避難させつつ、領地の中も見てもらって、そのうえ俺の見合いの惨敗まで何とかしろと言ってるわけか」


「だいたい合っている」


即答だった。


思わず両手で顔を覆う。


「やっぱり厄介事じゃねえか……」


「最初からそのつもりで来たよ」


「言ってないのと同じだろそれ!」


怒鳴ると、ステファンは楽しそうに笑った。


本当に、昔から変わらない。

変わらないが、昔よりずっと厄介だ。


「一つだけ言っておくけど」


笑みを少しだけ薄くして、ステファンが言った。


「オリバー・オクレールを、噂どおりの女だとは思わないでほしい」


その言葉に、俺はしばらく黙った。


思い出すのは、屋敷の前で見たあの姿だ。

質素なシスター服。荒れた手。影を帯びた顔。

それでも崩れない礼の美しさ。


……少なくとも、王都で聞いた『毒婦』には見えなかった。


「さっき見た限りじゃ、そうは見えなかったな」


そう答えると、ステファンは静かに息をついた。


「なら十分だよ」


その一言が、妙に重く残る。


こいつはオリバー嬢をここへ連れてきた。

ただの厄介払いじゃない。

王都の腐った縁談から引き剥がし、修道院の問題を片づけ、そのうえで俺の領地にまで関わらせようとしている。


全部、計算ずくなのだろう。

そしてたぶん、その根っこにはターシャ夫人の願いもある。


本当に厄介だ。


「それでも、まさか俺の見合いの助言役として連れてくるとは思わなかったぞ」


ぼやくように言えば、ステファンはにっこり笑った。


「おや、誰が『助言役』だけだと言った?」


「……は?」


嫌な間が落ちた。


ステファンはいつもの柔らかな笑みのまま、実に楽しそうに首を傾げる。


「君みたいな直情型は、今の義姉上と案外相性が悪くないと思っているだけだよ」


「何を言い出す」


「別に。今後に少し期待しているだけ」


「やめろ。そういう含みのある言い方をするな」


「含みなんてないよ?」


「お前の『ない』は信用ならん!」


応接室に俺の怒鳴り声が響く。

なのにこの男は、ますます機嫌よさそうに笑うばかりだった。


ああ、駄目だ。

もう嫌な予感しかしない。


修道院から来た、噂の悪女。

笑顔のまま盤面を動かす公爵。

そして俺の領地で起きていた、知らなかった問題。


どう考えても、平穏に終わる話じゃない。


背筋を這う寒気だけが、やけにはっきりと残っていた。


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