Act.4 噂の悪女
オクレール公爵家の紋章を掲げた馬車が、屋敷の前でゆっくりと止まった。
磨き抜かれた車体に、従者たちが一斉に姿勢を正す。
バントス辺境伯家の屋敷は王都の貴族の館ほど華美ではないが、それでも客を迎える時の礼は尽くす。玄関前にはバルク叔父上をはじめとした家の者たちが並び、俺もその列の先頭に立っていた。
扉が開き、先に降りてきたのはオクレール公爵ステファンだった。
王都にいた頃と変わらず、いや、あの頃よりさらに隙のない立ち居振る舞いをしているくせに、どこか肩の力が抜けて見えるのはこの男の得なところだろう。人好きのする笑みを浮かべたまま、軽やかに地面へ降り立つ。
そして、その後ろに差し出された手を取って馬車から降りた女性を見て、俺はほんのわずかに目を細めた。
ステファンの妻ではない。
オクレール公爵夫人ターシャなら知っている。
ステファンが結婚する前から知っていたし、あの男がどれほど彼女を大事にしているかも見てきた。時にお忍びで王都を歩き回り、妙に楽しそうに並んでいた姿だって見たことがある。
だが、目の前の女は違った。
黒髪に、紫の瞳。
質素なシスター服に身を包み、飾り気はない。けれど、背筋だけは驚くほど真っ直ぐだった。
「やあ、久しぶりだねグルド」
にこやかに片手を上げるステファンに、俺は苦笑を押し殺して一礼する。
「ご機嫌麗しく、オクレール公爵」
「やだな。僕とグルドの仲だよ? 昔みたいにステファンでいいよ」
「さすがに昔のようにはできないので、『ステファン様』と」
そう返せば、ステファンは肩を揺らして笑った。
「あはは、君らしくていいな」
そのまま彼は、まるで何でもないことのように隣の女性へ手を向ける。
「ああ、紹介するね。僕の“義姉上”である、オリバー・オクレール公爵令嬢」
その言葉に、俺は嫌な空気の飲み込み方をした。
オリバー・オクレール公爵令嬢。
その名は知っている。いや、知らない貴族の方が少ないだろう。
今の王太子妃を虐げたオクレール公爵家の長女。どんな良縁もこっぴどく断り、まるで自分が王女にでもなったかのように振る舞った傲慢な令嬢。母親譲りの艶やかな美貌と体つきで男を籠絡する毒婦。
王都では、そんな噂がいくつも飛び交っていた。
巷で『悪女』と囁かれたその女が、今、目の前にいた。
だが――。
噂とは、あまりにも違っていた。
まず服装が違う。
高価なドレスでも、宝石でもない。飾りも刺繍もほとんどないシスター服。
その袖口からのぞく手は、修道院での暮らしのせいか、公爵令嬢のものとは思えないほど荒れていた。
そして何より、本人の顔つきだ。
美しいのは確かだった。
噂どおり、目を引く顔立ちをしている。けれど、人を見下ろすような華やかさはない。むしろ、長く曇り空の下に置かれてきた花のように、ひどく静かで、影を帯びていた。
「オリバー・オクレールと申します」
シスター服の裾をつまみ、彼女はカーテシーをした。
その動きに、思わず言葉を失う。
滑らかで、無駄がなく、驚くほど美しい礼だった。
使用人たちも、バルク叔父上も、一瞬だけ息を呑んだのが分かった。
質素な服を着ていても、身体に染みついた教養までは隠せないらしい。
確かに美しい。
だが、それ以上に、その表情が妙に気になった。
何かを諦めきったようでいて、完全には折れていない顔だった。
同時に、俺は心の中で身構える。
見合いに惨敗しているからといって、問題物件を押しつける気ではないだろうな――と。
そんな俺の警戒を知ってか知らずか、ステファンは実に楽しそうに笑った。
「あまりにグルドがお見合いに惨敗するからね。助言役を連れて来たよ」
「……助言役?」
「うん。こう見えて、義姉上はセンスの良い方だからね。お見合いの助言をしてもらおうと思って」
にっこりと笑う顔が、どう見ても面白がっている。
俺は引きつりそうになる頬をどうにか押さえた。
横目でオリバー嬢を見る。
彼女は否定もしなければ、気取った素振りも見せなかった。ただ静かに立っている。まるで、自分がここに連れて来られた理由をすべて承知したうえで、その役目を果たそうとしているかのように。
ますます分からない。
噂の悪女。
王太子妃を虐げた女。
傲慢で、男を手玉に取る毒婦。
目の前にいる女は、そのどれにも見えなかった。
コツ、コツ、と軽い足音を立ててステファンが近づいてくる。
王族式の気軽な挨拶を装って肩を寄せ、抱擁の形を取ったまま、奴は小声で囁いた。
「あとでちゃんと説明するから」
その一言で、背筋に冷たいものが走った。
ああ、やはりそうか。
これはただの見合い話ではない。
この男が、わざわざ辺境まで自分で出向いてきた時点で覚悟はしていたが、どうやら想像以上に厄介な話らしい。
「……それはぜひ、最初に聞かせていただきたいところだな、ステファン様」
小さく返せば、ステファンは離れながら涼しい顔で笑う。
「大丈夫、大丈夫。君にとっても悪い話じゃないよ」
そう言う時のこいつの『大丈夫』が、まったく大丈夫ではなかった試しがない。
俺は内心で深くため息をついた。
オクレール公爵。
噂の悪女。
そして、どう考えても平穏では済まない助言役の来訪。
屋敷の前を吹き抜ける風が、妙に冷たく感じた。
たぶん――いや、間違いなく。
俺の平穏は、今日ここで終わった。




