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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.3 辺境の新事業

母が暴れる時、修道院の空気は一瞬で張り詰める。


金切り声が響き、扉が乱暴に叩かれ、物が倒れる音がする。

この六年で、シスターたちはそれに慣れてしまった。慣れたくもなかっただろうに、慣れざるを得なかったのだ。


「オリバー、下がって!」


マリエの声と同時に、数人のシスターが間に入り、クロエとオリバーを引き離すように動く。

クロエは他の者にも当たり散らすが、オリバー相手となると、とりわけ容赦がなかった。

自分に似て美しく育った娘であるはずなのに、今はその美しさすら憎いのかもしれない。


先ほど頬を掠めた爪の痛みに、オリバーは目を伏せた。


「さっさとその女をどけなさい! 私は公爵夫人なのよ!」


「何度申し上げても同じです、クロエ。ここでは皆、等しく神の御前にある者です」


静かだが揺るがぬ声で院長が告げる。

その間にも、クロエは喚き、暴れ、やがて二人がかりで奥へ連れて行かれた。


騒ぎが遠ざかると、ようやく修道院に静けさが戻る。


けれど、それは本当の静けさではない。

誰もが息を殺しているだけだ。


「オリバー、大丈夫?」


マリエが心配そうに顔を覗き込んできた。

オリバーは小さく頷き、乱れたシスター服の袖を整える。


「大丈夫よ。ごめんなさい、またご迷惑を……」


「だから、あなたが謝る必要なんてないって言ってるでしょう」


マリエは呆れたように言って、それでも最後には優しくため息をついた。


シスターたちは皆、オリバーに同情していた。

修道院へ送られたばかりの頃の彼女は、本当に何もできなかった。祈りの時間にも慣れず、洗濯では指先を傷だらけにし、床磨きひとつで熱を出した。


けれど今のオリバーは違う。


誰よりも早く起き、誰よりも黙々と働く。

頼まれたことをきちんと覚え、帳面をつけ、食料の残りを気にかけ、近くの村の女たちに手仕事を教えるまでになっていた。


そして何より、彼女は一度も自分の境遇を嘆かなかった。


その日の午後、古びた教会の一角では、近隣の主婦や少女たちが輪になって座っていた。

オリバーはその中心で、細い糸を指先に渡しながら、ゆっくりとレースを編んでいる。


「ここはきつく引かないの。少しだけ遊びを残して。そうすると、模様が綺麗に開くでしょう?」


教える声は柔らかく、仕草は流れるように美しい。

修道院暮らしで質素なシスター服をまとっていても、その所作の端々には、公爵令嬢として育った痕跡が消えずに残っていた。


少女たちは、半ばうっとりとした顔でその指先を見つめている。

主婦たちもまた、王都で流行っていたという新しい編み方に目を輝かせていた。


「オリバー様、こっちはこれで合ってますか?」


「ええ、上手よ。そこまで編めたなら、次はこの模様も覚えられるわ」


微笑むと、少女はぱっと顔を明るくした。


ここへ来てから六年。

オリバーは、失うことばかりだった人生の中で、ようやく『誰かに与えられるもの』を見つけていた。


その時だった。


「やあ、久しぶりだね、義姉上」


場違いなほど明るい声が、教会の入口から差し込んだ。


顔を上げたオリバーは、ほんの一瞬だけ息を呑む。


そこに立っていたのは、オクレール公爵ステファン。

かつて第二王子と呼ばれていた、妹の夫であり、今はオクレール公爵家を継いだ男だった。


シスター服の裾を整え、オリバーは静かに立ち上がる。


「第二王子殿下……失礼しました、オクレール公爵。お久しぶりでございます」


すっと膝を折るカーテシーは、今もなお淀みなく美しい。

六年という歳月も、その身に染みついた教養までは奪えなかった。


ステファンはその姿を見て、いつものように柔らかく笑った。


彼はわざと『義姉上』と呼ぶ。

年齢で言えば、ステファンの方が二つ上だ。本来なら、あえてそう呼ぶ必要はない。


最初は、怒らせるつもりだったのかもしれない。

高慢だった頃の私なら、年上にそう呼ばれることを皮肉と受け取り、きっと顔色を変えていた。


けれど私は怒らなかった。

怒る資格など、自分にはないと分かっていたからだ。


それを知ってからも、ステファンはその呼び方をやめない。

今は試し半分ではなく、少しだけ別の意味を込めているのだろうと、オリバーにも分かっていた。


オクレール公爵令嬢であった自分の身柄は、今や現当主であるこの男の裁量の内にある。

それが法律であり、貴族社会の理でもあった。


「今日は少し、話がしたいんだ。時間をもらえるかな?」


「……はい」


オリバーは少女たちと主婦たちに一礼し、教会の応接用の小部屋へとステファンを案内した。

古びた机と椅子があるだけの、簡素な部屋だ。王都の公爵が通されるにはあまりにも質素だが、ステファンは気にした様子もなく腰を下ろした。


「相変わらず、よく働いているみたいだね」


「身の丈に合ったことをしているだけです」


「その言い方をするあたり、やっぱり義姉上だな」


からかうように言って、彼は目を細めた。

だが、その視線は笑っていても、よく見ている。

柔らかく人の懐に入り込みながら、肝心なところは決して見落とさない。昔からそういう人だった。


ステファンはこの六年、何度か修道院を訪れていた。

表向きは様子見。だが本当は、オリバーをここから出せるかどうかを探っていたのだと、彼女にも何となく分かっていた。


そして毎回、結果は同じだった。


――私がいなくなれば、他のシスターたちが母に殴られますので。


その言葉を、彼は一度も否定しなかった。

否定できない現実だと知っていたからだろう。


「さて、義姉上。今日は様子伺いではなく、お願いをしに来た」


「お願い、ですか?」


首を傾げれば、ステファンは組んだ手の上に顎を乗せ、どこか楽しそうに笑った。


「僕の友人に、この土地ヴィネを治める辺境伯がいる」


「こちらの辺境伯というと、バントス辺境伯ですか?」


「流石、義姉上。その通り」


オリバーの脳裏に、ひとりの男の姿が浮かんだ。


王都にいた頃、王族の周囲を固める騎士の中でも、ひときわ目を引く青年がいた。

長身で、剣の腕は確かで、口数は多くなかったが、戦場に立てば誰よりも頼もしい。

そして何より、当時は多くの令嬢たちがうっとりと見つめていた、美丈夫だったはずだ。


「そのバントス辺境伯が、お見合いに惨敗しているのを知っているかい?」


「……いいえ。初めて伺いました」


思わずそう答えながらも、オリバーは小さく戸惑った。

あのバントス辺境伯が、お見合いに惨敗。どうにも結びつかない。


その表情を見て、ステファンは軽く肩をすくめる。


「だろうね。王都にいた頃を知っていたら、そういう顔にもなる」


「何があったのですか?」


「簡単に言えば、傷と辺境だよ」


その一言に、オリバーは口を閉ざした。


戦場で傷を負えば、それは男にとって勲章になる。

そう教えられてきた。

けれど実際には、こと結婚となれば話は別なのだろう。


「それで、義姉上にお願いだ」


ステファンはそこで少し身を乗り出した。


「ヴィネで新しい事業を立ち上げたい。湖を訪れる旅人向けの品を作り、土地の女たちの手で売っていく。辺境の女たちは働き者だけれど、王都の流行や、貴族の目に留まる『見せ方』を知らない」


オリバーは瞬きをした。


「……レース、ですか?」


「そう。義姉上がここで教えているそれを、きちんとした仕事にしたい」


窓の向こうでは、先ほどの少女たちがぎこちなく糸を結んでいる。

あの子たちの手仕事が、商品になる。

それはたしかに、ここにとって悪い話ではない。


ステファンはさらに続けた。


「それと、グルドのことも少し助けてほしい」


「どういう意味でしょう」


「辺境伯として、人前で損をしないようにしたいんだ」


あまりにもさらりと言われて、オリバーは思わず沈黙した。


ステファンは真面目な顔のまま、静かに続ける。


「要するに、辺境伯として人前に立つ時の整え方、見せ方、礼の取り方、そういうものを教えてほしいんだ。あの男は良くも悪くも辺境育ちでね。中身は悪くないのに、入り口で損をしている」


「……私の感性は、今や古いものです」


「それでいいんだよ」


ステファンは即答した。


「今の王都の最新流行を追う必要はない。むしろ逆だ。古き良き、きちんとした貴族の在り方を知る人間が必要なんだ。グルドに必要なのは、華美な飾りじゃない。『辺境伯らしさ』を、ちゃんと見せることだから」


オリバーは少しだけ目を伏せた。


その理屈は分かる。

確かに自分は、流行の最先端からは遠ざかっている。

けれど、基礎となる礼儀作法や、公の場での振る舞いは身体に染みついていた。


問題は、そこではない。


「……私が外へ出ることを、なぜ私が断り続けているのか、公爵もご存じでしょう」


オリバーが静かに言うと、ステファンもまた笑みを消した。


「知っているよ」


「なら――」


「だから、その問題ごと片づけに来た」


クロエの喚き声が、遠くの廊下からまた微かに響く。

オリバーの肩がぴくりと揺れたのを、ステファンは見逃さなかった。


「来年分の修道院への補助金を増やす。義姉上が教えているレースは、ロジェ商会を通して販売経路を確保する。これで、この教会の運営は少し楽になる」


「……」


ぞわり、と鳥肌が立ちそうだった。


ロジェ商会。

その名を知らぬ者はいない。王室御用達――この国で最も力を持つ商会のひとつ。

そして、私が虐げた妹の祖父が会長を務める商会。


その紹介を通して販売経路を確保する。

それはつまり、この修道院に継続的な金の流れを作るということだった。


「それと」


そこで彼は少し声を落とした。


「クロエ殿は別の療養施設へ移す。静かな場所で、専門の者を置く。ここよりずっと管理が行き届いた場所だ」


オリバーは息を呑んだ。


それは、彼女が一番断れない条件だった。


この六年で、オリバーは学んだ。

経営のこと。帳簿のこと。食料の配分。人を養うということ。

そして母がここにいることで、どれだけ修道院の負担が増しているのかも知ってしまった。


食費。衣類。治療。破損した備品。

母が暴れるたびに削られる、人の手と心。


それを、自分だけが見ないふりをして外へ出ることはできなかった。

だが逆に言えば、その問題が片づくのなら――。


「どうする、義姉上」


柔らかい声だった。

優しいようでいて、逃がさない声でもあった。


ステファンは強引に命じているわけではない。

けれど、断れないように道を整え、オリバー自身に選ばせている。


窓の外では、少女たちが拙い手つきで糸を結んでいる。

ここで覚えた技術が、外の世界に繋がるかもしれない。

修道院の助けになるかもしれない。

そして母は、ここより適した場所で管理される。


……それでも。

それでもなお、私がそこへ立つ資格があるのかと、問いが胸を離れなかった。


一度、大きく間違えた人間だ。

妹たちを傷つけ、母を止めず、弱い者を見て見ぬふりをした。

そんな自分が、誰かの役に立つ側へ戻ってよいのか。

差し伸べられた手を取ってよいのか。


答えは、まだ出ない。


けれど――。


「謹んで、お受けいたします」


絞り出すようにそう言うと、ステファンはふっと微笑んだ。


「ありがとう、義姉上」


「ただし」


オリバーは顔を上げた。


「私を頼ったことを、後悔なさらないでくださいませ。私は、一度間違えた人間です」


するとステファンは、少しだけ困ったように笑った。


「そうだね。確かに義姉上は、一度大きく間違えた」


その言葉に、オリバーの胸が静かに痛む。


けれど次の言葉は、思いがけず柔らかかった。


「でも、六年かけてやり直してきた人でもある。だから僕は、今の義姉上に頼みに来たんだよ」


オリバーはしばらく何も言えなかった。


やがて、深く、静かに頭を下げる。


シスター服の裾が床に広がる。

公爵家の長女だった頃よりも、ずっと慎ましく、ずっと重い礼だった。


こうして、オリバーは修道院を出ることになった。

辺境ヴィネの新事業のために。

そして、バントス辺境伯グルド・バントスという男と関わるために。


その先に待つものが、救いか、それとも新しい試練か。

この時の彼女は、まだ知らなかった。


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