Act.2 辺境伯
オーウェン王国辺境領ヴィネ。
見渡す限り草原が広がり、国内最大の湖を抱えるこの土地は、夏になれば景勝地だの避暑地だのと、王都の連中が騒ぐらしい。
もっとも、俺にとってはそんなことはどうでもいい。
ここは隣国サンチェス王国との交流の拠点であり、同時に、魔物と災害から領民を守る最前線だ。
その肥沃で雄大な大地を守るのが、我がバントス辺境伯家である。
……とはいえ、うちは平民との垣根などあってないようなものだ。
舞踏会より馬、香水より汗、刺繍より剣。
一応は貴族だが、王都の連中が思い描くような優雅な貴族ではないと、自分でも思っている。
「こらグルド!! お前はまたこんなところにいて!!」
叔父――バルク・バントスの怒号が草原に響いた。
父の弟であり、今もこのバントス辺境伯家を支えてくれている人だ。
グルド・バントス辺境伯。
それが俺だ。三十二にもなって、未だ結婚相手は見つかっていない。
まあ、それも仕方ない。
見合いの席では、俺はほとんど必ず断られる。
原因は分かっていた。
妙齢の令嬢ならまず眉をひそめるであろう頬の傷。
若い頃、帝国との抗争で負ったものだ。浅くはない。むしろ、しっかり残っている。
男同士なら勲章だなんだと言われるが、王都の令嬢方にはそうは映らないらしい。
「バルク叔父上、別にいいだろ。仕事は終わってるし、今日は休みのはずだ」
そう言いながら、草の上に寝転がったまま空を見上げる。
高い。雲がゆっくり流れている。
こうしている時間だけは、余計なことを考えずに済む。
「休み……ああ、今日は休みだ! だが明日は客人が来るのだぞ!? 少しは屋敷のことを気にしろ!」
「客人?」
「オクレール公爵だ!!」
一瞬だけ目を瞬かせて、それから鼻で笑った。
「……ステファン、か。いや、今はオクレール公爵だな」
「呼び捨てにするなよ!?」
「ところで、なんであの人がこんな辺境に?」
本気で分からなくて聞いたのに、バルク叔父上は頭を抱えたあと、ついに叫んだ。
「そんなもん知るか!! と言うか、お前の友人でしょうが!!」
「あー……」
そうだった。
バルク叔父上にとっては今でも『あの方は王家の方』であり、俺にとっては昔からの友人だった。
本来の俺は、騎士団に入り、王族を守る立場になるはずだった。
若い頃は王都にいて、騎士として鍛えられ、第二王子――今のオクレール公爵ともよく顔を合わせていた。
向こうは王子、こっちは辺境伯家の次男坊。本来なら身分差がありすぎる。
だが、あの人は妙にそういう距離を気にしなかった。
辺境のことを知りたかったらしく、よく俺に話しかけてきた。
しかも俺より六つも年下だったくせに、妙に物怖じしない。
王族らしい品の良さはちゃんとあるのに、変に気さくで、よく笑う。
押しつけがましくもないのに、気づけば自然と人の懐に入り込んでくるようなところがあった。
年下のくせに妙に食えない。
そう思ったのが最初だった。
俺は俺で、王都のきらびやかな空気より剣の方が性に合っていた。
高価な食事よりも、市場の屋台や市民の通う食堂の方が落ち着く。
そんなことを言った日には、第二王子と、その隣にいた婚約者までキラキラした目でこっちを見てきた。
気がつけば、あの王子がお忍びで王都に出かける時の用心棒として、連れ歩かれたものだ。
……もっとも、それも昔の話だ。
「まあ、友人っちゃ友人だけど」
「けどではない!」
バルク叔父上がずんずん近づいてきて、ついに俺の足を掴んだ。
「おい、ちょっ」
「いいから帰るぞ!」
そのまま草の上をずるずる引きずられる。
ひどい扱いだが、うちではよくあることだ。
領民に見られても誰も驚かない。
「バルク叔父上、少しは辺境伯を敬えよ」
「寝転がって草を噛んでおる辺境伯など敬えるか!!」
「草は噛んでない」
「態度の話だ!!」
思わずカラカラと笑ってしまう。
こうして怒鳴られている間は、バルク叔父上も少しだけ昔の調子に戻る。
父が生きていて、長男だった兄貴もいた頃の、あの頃みたいに。
だが、その二人はもういない。
父も兄も、三年前のスタンピードで死んだ。
大発生した魔物の群れが村を呑み込もうとした時、最前線に立って、領民を守って、そのまま帰ってこなかった。
その結果、次男坊だった俺に辺境伯の地位が回ってきた。
いや、回ってきたなんて軽い言葉で済ませるものではない。押しつけられた、の方が近い。
俺は本来、家を継ぐつもりなんてなかった。
兄が継げばいい。俺は剣を振るって、王族を守る側で生きていく。
そう思っていた。
けれど現実は、そうならなかった。
「……兄貴さえ死ななければ、俺は自由だったのにな」
ぽつりと漏れた言葉に、バルク叔父上の足が止まった。
さすがにまずかったかと思ったが、もう遅い。
草の擦れる音だけが耳に残る。
バルク叔父上はしばらく黙ったまま、俺の足を掴んでいた手を離した。
「グルド」
低い声だった。
「お前がそう思うのは勝手だ。だがな、兄上もクライドも、お前に地位を押しつけるために死んだわけではない」
分かっている。
そんなことは分かっている。
「分かってるよ」
「なら、少しは胸を張れ。お前はちゃんとこの領地を守っている」
そう言われると、返す言葉に困る。
守れているかどうかなんて、自分では分からない。ただ、毎日やるしかないからやっているだけだ。
俺はゆっくり起き上がり、服についた草を払った。
「胸を張ったところで、見合い相手には逃げられるけどな」
わざと軽口を叩けば、バルク叔父上は深々とため息をついた。
「本当にお前は……」
「仕方ないだろ。頬の傷ひとつで近衛から外されて、魔物専門部隊に回された時点で察したさ。結局、王都は顔なんだよ」
近衛騎士は王の顔でもある。
見栄えのいい者が選ばれる。傷のない顔、整った立ち居振る舞い、きらびやかな鎧が似合う男。
それに比べて俺はどうだ。
傷持ちの大男。確かに、華やかな場には向かない。
戦場では役に立った。魔物相手にも役に立った。
だが王都では、それだけでは足りないらしい。
「……それでも、お前は強かったから生き残ったのだ」
バルク叔父上はぼそりとそう言った。
「褒めてる?」
「褒めておらん。いいから帰るぞ。屋敷の者たちも総出で準備している。お前だけがのんびり寝転がっていい立場ではない」
「はいはい」
肩をすくめて歩き出す。
だが数歩進んだところで、ふと思い出してバルク叔父上を見る。
「で? オクレール公爵は結局、何しに来るんだ?」
「知らん」
「知らないのかよ」
「正式な書状には『私的な相談を兼ねた訪問』としか書いておらん!」
それはまた、嫌な予感のする言い方だった。
「私的な相談、ねえ……」
どうせ見合い話だろう。
王都の貴族は、三十二の辺境伯が独り身でいるのを放っておかない。
これまでも散々見合いを組まれてきたし、そのたびに令嬢たちは俺の顔を見るなり青ざめ、ひどい時は本当に倒れた。
かれこれ二十に届くほど見合いを重ねても、未だに最後まで平然と座っていた令嬢はいない。
ならばもう、結婚など諦めた方がいいのだろう。
幸い、バルク叔父上には幼い息子がいる。最悪、その子に継がせれば家は続く。
「今回はどうも違うらしいぞ」
バルク叔父上がぼそりと言った。
「何が?」
「だから、雰囲気がだ。オクレール公爵がわざわざ自分で来る時点で普通の話ではない」
たしかに、それはそうだ。
友人だからこそ分かる。
あの人は俺より六つも年下のくせに妙に落ち着いていて、柔らかく笑いながら、いつの間にか話の流れを自分の望む方へ持っていく。
押しつけるのではなく、こちらが自然と頷くように道をつけるのが上手いのだ。
昔からそうだった。人懐っこい顔をして近づいてきて、気づけばこっちの警戒を剥がし、そのまま面倒事を抱え込ませる。
そして、そういう時ほど、だいたい本人は悪びれもなく笑っている。
俺は少しだけ眉をひそめた。
面倒事か。
それとも、本当にただの見合い話か。
どちらにせよ、ろくでもない予感しかしない。
「……倒れない相手ならいいんだけどな」
半分冗談で呟いた俺に、バルク叔父上は胡乱な目を向けた。
「今からそんな奇跡を期待するな」
「じゃあ何を期待しろと」
「せめて相手を気絶させる前に、椅子くらい引け!!」
「そこかよ」
「そこだ!!」
怒鳴られながら、俺は屋敷への道を歩いていく。
夕暮れの草原を渡る風は、広く、冷たく、どこか懐かしかった。
明日、友人が来る。
そしてたぶん、俺の平穏は終わる。
そんな予感だけが、妙にはっきりと胸に残っていた。




