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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.9 笑わないはずの人


Side グルド


礼儀作法の稽古が始まって五日目。

俺はようやく、椅子を引く時に相手の裾を巻き込まない程度には成長していた。


「……前回よりは、ましですわね」


目の前で、オリバー嬢が扇を閉じる。

褒めているのか、それは。

だが、この人の場合、たぶん褒めているのだろう。


「『まし』か」


「十分な進歩です」


「どっちだ」


「浮かれないようにという意味も込めております」


真顔で返されて、俺は思わず鼻で笑った。


広間の窓からは春の光が差し込み、磨き上げられた床に明るい四角を落としている。

その真ん中に立つオリバー嬢は、今日もきちんとした昼のドレス姿だった。

飾りは控えめだが、立っているだけで空気が整う。


最初に会った時の影の濃さはまだ残っている。

だが、この数日で分かった。

この人は、ただ沈んでいるだけの女ではない。


厳しい。

容赦がない。

だが、教える時だけは妙に熱心だ。


「では次、椅子を引く動作をもう一度」


「またか」


「またです」


ぴしゃりと言われて、俺は肩をすくめた。


オリバー嬢が椅子の前に立つ。

俺は後ろに回り、できるだけ静かに椅子を引いた。


「そこで止まって」


「はい」


「引きすぎです」


「どこがだ」


「ここです」


扇の先で床を示される。

さっぱり分からん。


「この距離では、私が座るまでに一歩多く歩かねばなりません」


「一歩ぐらい誤差だろ」


「礼儀において『誤差』は命取りです」


「戦場みたいに言うな」


「貴族の社交は別種の戦場でしょう」


あまりに当然の顔で言うものだから、俺は一瞬言葉を失った。

そうしているうちに、オリバー嬢がふっと目を伏せる。


「……少なくとも、私にとってはそうでした」


その声はひどく小さかった。


少し気まずくなって、俺は頭を掻く。


「悪い」


「何故、貴方が謝るのです」


「いや、何となく」


「変な方ですわね」


そう言った彼女の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。


その表情を見て、俺は妙に拍子抜けする。


笑うのか、この人。


いや、笑うには笑っていた。

社交の場での綺麗な笑みは何度も見た。

だが今のは、あれとは違う。

もっと小さくて、もっと気の抜けた、人間らしい顔だった。


「今、笑ったな」


「笑っておりません」


「いや、笑った」


「気のせいです」


即答だった。

だが耳が少し赤い。

分かりやすい。


俺がじっと見ていると、オリバー嬢はわざとらしく咳払いをした。


「……では次、褒め言葉の練習に参ります」


「逃げたな」


「逃げておりません」


「絶対逃げた」


「バントス辺境伯様」


「はい」


「これ以上余計なことを仰るなら、本日は『やり直し』を十回増やします」


「すみませんでした」


即答すると、広間の隅に控えていたメイドたちがくすくすと笑った。

最近、この笑いにも少し慣れてきた。

最初の頃は完全に見世物だったが、今はどちらかと言えば、皆で俺の成長を面白がって見ている感じだ。


「では、たとえば私が令嬢役をいたします」


「またか」


「不服ですか?」


「いや、助かる」


正直に言うと、オリバー嬢相手の方がやりやすかった。

メイド相手だと、どうにもこっちが気を遣いすぎてぎこちなくなる。


オリバー嬢は一歩引き、ゆるやかに扇を開いた。


「初対面の令嬢に対して、失礼なく、なおかつ印象に残る一言を」


「難題だな……」


「それが社交です」


ひどい世界だ。


俺は軽く息を吐き、彼女を見た。

黒髪、アメジストの瞳、白い首筋。

今日のドレスは深緑で、かえってその肌の白さが際立っている。


思ったままを言えばたぶん怒られる。

考えろ。

丁寧に。

美しく。

余計な傷を増やさないように。


「……初めまして、オリバー嬢。その瞳は、夜の光を宿したアメジストのように美しい」


言ったあとで、少し恥ずかしくなった。

なんだこれ。俺の口から出た言葉か。


だが、オリバー嬢はすぐには駄目出しをしなかった。


むしろ、わずかに目を見開いている。


「……それは」


「駄目か?」


「いえ」


そこで彼女は視線を逸らし、小さく扇を閉じた。


「悪く、ありませんわ」


「悪くない、か」


「かなり良い方です」


ぼそりと付け足されて、今度は俺の方が面食らう番だった。


褒められた。

あのオリバー嬢に。


何だか妙に落ち着かなくなって、無意味に咳払いをする。


「そうか」


「浮かれないでくださいませ」


「浮かれてない」


「少し口元が緩んでおります」


「……それはそっちだろ」


言った瞬間、オリバー嬢がぴたりと止まった。


しまった、と思ったが遅い。


だが彼女は怒らなかった。

ただ、困ったように目を伏せてから、静かに言う。


「貴方は時々、本当に不用意ですわね」


「悪い」


「……少なくとも、嫌いではありませんわ」


最後があまりにも小さくて、聞き間違いかと思った。


「今、何か言ったか?」


「いいえ」


「絶対言っただろ」


「気のせいです」


またそれか。


俺が追及しようとすると、彼女はくるりと背を向ける。


「休憩にいたしましょう。これ以上続けても、今日は頭に入りません」


「助かった」


本音が漏れると、オリバー嬢は半眼になった。


「その程度で音を上げるようでは、先が思いやられます」


「礼儀作法ってのは、もっと優雅なもんかと思ってた」


「優雅に見せるために、裏では皆これだけ積み重ねているのです」


そう言いながら、彼女は窓辺の小卓へ向かった。

俺もそのあとに続く。


卓の上には、メイドたちが気を利かせて置いていった茶器と焼き菓子が並んでいた。

オリバー嬢が手を伸ばそうとして、ほんのわずかに眉を寄せる。

立ちっぱなしで疲れたのだろう。


気づけば俺は、先に椅子を引いていた。


「座れ」


言ってから、少しだけ緊張する。

今の距離はどうだ。

引く幅は。

手を出す角度は。

変じゃないか。


オリバー嬢は驚いたように俺を見た。

それから、ゆっくりと椅子に腰を下ろす。


「……今のは、ちゃんとしておりましたわ」


その一言が、やけに嬉しかった。


「だろ」


「ですが、まだ少しだけ勢いが強いです」


「そこまで言うのか」


「言います」


きっぱり言われて、思わず笑ってしまう。


するとオリバー嬢も、今度は隠しきれなかったように小さく笑った。


その顔を見て、俺はふと思う。


ああ、この人はちゃんと笑うのだ。

作った笑みではなく、こういうふうに、自然に。


噂の悪女。

月下の真珠。

容赦のない礼儀作法教師。


どれも間違いではないのかもしれない。

けれど、それだけでもない。


俺が今見ているのは、少しずつ素顔を見せ始めた、一人の女なのだ。


そしてたぶん――。


笑わないはずの人が、ちゃんと笑うことを知ったのは、俺だけではないのかもしれない。

俺もまた、オリバー・オクレールという人間を、少しずつ知り始めていた。


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