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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.10 外堀は静かに埋められる

Side メアリー


最初に思ったのは、なんて綺麗な方なのだろう、だった。


修道院から来た公爵令嬢。

しかも、あの『悪女』と名高いオリバー・オクレール嬢。


正直に言えば、最初は少し怖かった。

王都の噂は辺境にまで届く。王太子妃殿下を虐げたとか、傲慢だとか、縁談を片っ端から潰したとか――ろくでもない話ばかりだったから、屋敷にいらっしゃると聞いた時には、古参の侍女たちまで顔を見合わせたものだ。


けれど、来てみれば全然違った。


静かで、控えめで、何より驚くほどきちんとした方だった。


私たちメイドにも丁寧に礼を言うし、紅茶を一杯お出しすれば「ありがとう」とおっしゃる。

裾を踏みそうになれば自分で持ち直し、物を落とせば真っ先に拾おうとする。


しかも、礼儀作法の指導となればあれほど容赦ないのに、普段はどこか遠慮がちで――用意した部屋や衣装にすら「私には過ぎたものです」と、困ったように微笑むのだ。


それに――。


「メアリー、そのレース、少しだけこちらへ」


窓辺の椅子に座ったオリバー様が、私の手元の布を覗き込んだ。


午後の光が、黒髪にやわらかく落ちている。

今日のドレスは薄い灰青色で、動くたびに胸元の細かな刺繍がかすかにきらめいた。派手ではないのに、目が離せない。


「ここは糸を引きすぎていますわ。ほら、少しだけ遊びを残すの。そうすると模様が綺麗に開きます」


そう言って、白く細い指がするすると糸をほどいていく。


私は思わず見惚れた。


「……やっぱり、すごいです」


ぽろりと零れた本音に、オリバー様は不思議そうに顔を上げる。


「何が?」


「全部です! お綺麗ですし、お優しいですし、礼儀も完璧ですし、レースも教えてくださいますし……」


そこまで言ってから、私は勢いのままに口にしてしまった。


「いっそ、このままお屋敷に嫁いで来てくださったらいいのにって、皆で話していたんです!」


あ、と口を押さえた時には遅かった。


隣にいたリアンが「メアリー!」と小声で悲鳴を上げる。


けれどオリバー様は怒るどころか、きょとんと目を丸くしたあと、困ったように笑った。


「まあ」


それから、少しだけ目を伏せる。


「でも、それは無理なお話ですわ」


「え?」


「グルド様には、もっとお似合いの方がいらっしゃいますもの」


穏やかな声だった。

穏やかなのに、揺るがない。


「お見合いがうまくいったら、私は修道院へ帰ります」


その言葉に、私とリアンは揃って黙った。


帰る。


どこへ――なんて、分かっているはずだったのに。


この方は、ここにいる人ではない。

いつの間にか、それを忘れていた。


ふと、胸の奥がひやりとした。


もしも本当に、お見合いが成功したら。

この方は、何でもなかったような顔で、あの質素なシスター服に戻って、教会へ帰ってしまうのではないだろうか。


リアンと目が合う。

同じことを思った顔だった。


その日の夕方。

私たちは台所脇の控えの間で、小声で相談していた。


「これはまずいと思わない?」


「思うわ」


即答だった。


「オリバー様、絶対にお嫁に来ていただくべきだと思うの」


「思う」


「でもご本人が、帰るって」


「言っていたわね……」


二人で腕を組み、ううんと唸る。


どう考えても、この方以上にグルド様に合う人などいない。

不器用で、でも真っ直ぐで。

厳しくても、ちゃんと支えられる人。


――そして、もう、分かってしまっている。


あの二人、絶対に合う。


「だったら……」


私はごくりと息を呑んだ。


「外堀を埋めてしまえばいいんじゃない?」


リアンの目が瞬く。


「……それ、名案では?」


「でしょう?」


勢いのままに、私たちは執事とバルク様のもとへ向かった。


話を聞いた二人は、案の定、渋い顔をした。


「オリバー様が素晴らしい方だと分かっていてもね」


「ええ」


「グルド様にもお似合いだと思うのです!」


「思います!」


だが二人は、ますます難しい顔になる。


「敏い方ですからな」


執事が低く言った。


「下手な囲い込み方をしたら、身投げしてしまいかねませんぞ」


「ですよねえ」


バルク様まで真顔で頷く。


私たちは固まった。


「え、っと……?」


「目標があるうちは頑張れる。だが、それがなくなった時が危ない」


バルク様の言葉に、背筋が冷えた。


「ご自分が幸せになることを拒んでおいでです」


執事の声は静かだった。


「下手に『ここがお貴女の居場所です』などと囲えば、かえって追い詰めることになります」


ぞくり、とした。


――ああ、この方はそういう人だ。


与えられる側になるのが、怖い人だ。


「では、どうすれば……」


震える声で問うと、二人は顔を見合わせた。


「まず先に潰すべきは、『帰らねばならない理由』だ」


「ええ」


「教会、ですか?」


「そうです」


修道院の運営、備蓄、人手、収支――

すべてを、あの方は気に掛けている。


「ですので、先に整えます」


執事の声は揺らがない。


「修道院が回る状態を作る。あの方がいなくても問題ない形にする」


「……そこまで」


「当然です」


バルク様が低く笑う。


「憂いが消えりゃ、自分を犠牲にする理由も減る」


その瞬間、分かった。


これは『囲い込み』ではない。


逃げ道を一つずつ、安全な方へ変えていく行為だ。


「……罠って」


リアンが呟く。


「そういう意味だったのね」


「そうだとも」


「逃げ道を塞ぐんじゃねえ。逃げてもいい先を変えるんだ」


その言葉に、鳥肌が立った。


「囲い込みは確実に、こっそりと」


「辺境らしく、仕込み罠で」


「ただし――」


執事が静かに締める。


「悟らせてはなりません」


私は息を呑んだ。


そうだ。

この方は『気づいた瞬間に逃げる』。


だから――気づかせない。


窓の外を見る。


オリバー様が歩いている。

その少し後ろを、グルド様が追う。


何かを言って、

呆れられて、

それでも少し笑われて。


その光景に、胸がきゅっと締めつけられた。


「……何だか」


リアンがぽつりと言う。


「グルド様が獲物だと思ってたけど」


「違うわね」


私は頷いた。


「たぶん、二人ともよ」


執事が満足そうに目を細める。


「うむ。悪くない」


「外堀は、静かに埋めるに限りますな」


その言葉に、私は背筋を伸ばした。


そうしてバントス辺境伯家では――


誰にも悟られぬように、

けれど着実に。


『逃げ道を塗り替えながら』


二人の外堀が、静かに埋められていくのだった。


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