Act.11 針先に触れるもの
Side オリバー
細い糸が、指先の間を滑っていく。
白に近い、やわらかな銀色。
陽の加減で淡く光を帯びるその糸は、修道院ではまず触れられない類の上質なものだった。
こんな糸で編めば、当然ながら仕上がりは良くなる。
けれど、針を動かすたびに胸の奥が少しだけざわつく。
――これは、贅沢なものだ。
そう思ってしまう自分がいる。
修道院にいた頃なら、こんな糸は祭壇布の飾りにさえ回ってこなかっただろう。
もっと粗く、もっと扱いにくい糸を工夫して使うのが当たり前だった。
けれど、せっかく頂いたものをしまい込むのも失礼だ。
そう思って編み始めたレースは、我ながら妙に出来が良かった。
模様は繊細で、隙間の開き方も美しい。
これなら、売り物にしても十分通るだろう。
「器用なものだな」
不意に聞こえた低い声に、オリバーは肩を震わせた。
針先がわずかにずれ、慌てて糸を押さえる。
顔を上げれば、扉のところにグルドが立っていた。
いつの間に入って来たのかと思ったが、すぐに眉をひそめる。
「……淑女の部屋に勝手に入るのは、マナー違反ですわ」
そう言うと、グルドは悪びれもせず肩をすくめた。
「ノックもしたし、声もかけた。返事がないから倒れてないかと思って来てみたら、集中していただけだ。家主としては、これは譲れない」
言われて、オリバーは一瞬だけ言葉に詰まった。
それは、たしかにその通りだった。
ここは客室であり、今の自分は客人だ。
もし本当に何かあったなら、気づかぬ方が問題になる。
「……それは、失礼いたしました」
素直に頭を下げると、グルドは少しだけ目を丸くした。
どうやら、ここで言い返されると思っていたらしい。
彼はそれ以上その話を引きずらず、窓辺の卓へ歩み寄る。
そして、編みかけのレースを覗き込んだ。
「それにしても綺麗だな。ただの糸が、そんな模様になるんだな」
その言葉に、オリバーはそっと視線を落とした。
「これは、糸が良いものですから」
率直な感想だった。
素材が良ければ、見栄えは何割も上がる。
それはレースに限らず、ほとんどの工芸で同じことだ。
だが、グルドはすぐに首を振った。
「違う。お前の腕がいい」
思いがけない言葉に、オリバーはほんの少し黙り込む。
こういう真っ直ぐな褒め方は、困る。
値踏みでも、お世辞でもなく、ただ思ったままを言っているだけだと分かるから、なおさら困るのだ。
「……貴族の令嬢なら、このくらい出来ますわ」
少しでも熱を逃がしたくて、そう返した。
するとグルドは興味深そうに片眉を上げる。
「ほう?」
「レースよりも、刺繍が上手い方が褒められますしね」
「ん? 刺繍もするのか?」
「……ええ、人並みには」
「なんで、やらないんだ?」
その言葉に、今度こそオリバーは詰まった。
最初は、刺繍も教会で教えようと思っていたのだ。
針の持ち方も、図案の写し方も、糸の渡し方も、体に染みついていた。
けれど、すぐに気づいた。
刺繍は、思っていた以上に金のかかる手仕事だった。
売れるほど美しいものを作ろうとすれば、上質な布が要る。
色とりどりの糸が要る。
図案に合わせて針も選ばなければならない。
そして何より、土台になるハンカチや小物が良いものでなければ意味がない。
修道院には、それがなかった。
だが、レースなら違う。
糸さえあれば編める。
毛糸があれば、もっと編める。
少ないもので形になり、人に教えやすく、仕事にも繋げやすい。
だから、レースを教えることにしたのだ。
沈黙が長くなったのを悟って、オリバーは慌てて口を開く。
「……そうですね。レースの方が好きなのです」
嘘ではない。
けれど、それだけでもない。
グルドは何も言わなかった。
ただ、じっとこちらを見ている。
そのアイスブルーの目は、昔と変わらない。
王都で、辺境伯令息として近衛の列に立っていた頃と、同じ色だ。
あの頃の彼は、今のように厚く鍛えられた身体ではなく、もっと細身で、美しい彫刻のような青年だった。
王都の令嬢たちが憧れるのも、無理はないと思えるほどに。
たしかに、金色の髪にこのアイスブルーの目は美しかった。
けれど――。
昔の、ただ綺麗だった彼よりも、
今の、傷と戦い抜いた身体を持つ彼の方が。
そこまで考えて、オリバーは思考を断ち切った。
余計なことは考えない。
彼を早く結婚させ、子を作らせなければならない。
時間は、もうあまり残っていないのだ。
三十二歳。
普通の貴族なら、十歳ほどの子がいても何もおかしくない年齢である。
「なら、俺に刺繍の物をくれないか?」
突然の言葉に、息が詰まった。
あまりにも唐突で、あまりにも無邪気な頼みだった。
そして次の瞬間、オリバーは思わず笑ってしまった。
「ご冗談を」
「冗談じゃないが」
「女性が男性に刺繍を贈るというのは、婚約者にのみ許される行為ですわ」
そこでようやくグルドの表情が止まる。
どうやら本当に知らなかったらしい。
「そんな破廉恥なことを、私にさせないでくださいませ」
ぴしゃりと言うと、グルドは珍しく言葉を失った顔をした。
それが少しだけ可笑しくて、オリバーはまた視線を落とす。
まったく、この人は時々、本当に不用意だ。
だが、そうして不用意に踏み込んでくるくせに、悪意がない。
それが余計に困るのだ。
「……そういうものなのか」
「そういうものです」
「知らなかった」
「でしょうね」
即答すると、彼は少しだけ不服そうな顔をした。
その表情が妙に年相応で、オリバーはまた笑いそうになる。
いけない、と心の中で己を戒めた。
これ以上は駄目だ。
余計な情を持てば、きっと間違う。
「では、私はこれを仕上げますので」
話を切り上げるように言うと、グルドは少しだけ名残惜しそうにレースを見た。
「……それ、出来たら見せてくれ」
「売り物になるようでしたら」
「お前はすぐそう言うな」
「当然ですわ。仕事になりますもの」
仕事。
そう言えば、何となく線が引ける気がした。
オリバーはそのまま針を手に取り直し、グルドもやがてそれ以上は何も言わずに部屋を出て行った。
静かになった部屋で、糸だけがまた指先を滑っていく。
けれど、先ほどまでより、ほんの少しだけ心が落ち着かない。
何気ないやり取りだったはずなのに、針を持つ手が妙に熱を帯びている気がした。
そして翌日。
朝の支度を終えたばかりのオリバーの部屋に、ノックの音が響いた。
「オリバー様、失礼いたします!」
入ってきたのはメアリーとリアン、それに侍女が二人。
彼女たちの手には、白いハンカチの束と、色糸を詰めた籠、刺繍枠に針箱まで抱えられている。
オリバーは目を瞬いた。
「……何事ですの?」
メアリーがきらきらと目を輝かせる。
「オリバー様、刺繍がお出来になるのでしょう!?」
「ぜひ教えていただきたくて!」
リアンまで身を乗り出す。
「上質なハンカチも、刺繍糸も用意しました!」
用意がよすぎる。
どう考えても、昨日の会話をどこかで誰かが聞いていたに違いない。
オリバーは一瞬だけ天井を仰ぎたくなった。
おそらく、グルドが何か言ったのではない。
あの人はこういう時、妙に率直すぎるが、回りくどく仕込むことはあまりしない。
だとすれば、周囲だ。
侍女たちか、メイドたちか、それとも――。
「オリバー様?」
メアリーが不安そうに呼ぶ。
その顔を見てしまえば、断れるほどオリバーは冷たくなれなかった。
そもそも、自分は教えることに慣れてしまっている。
必要だと言われて、知っていることを隠す方が難しい。
まして材料まで揃えられてしまっては、なおさらだ。
「……少しだけ、ですわよ」
そう言うと、部屋の中にぱっと花が咲いたみたいに歓声が上がった。
「ありがとうございます!」
「どうぞよろしくお願いいたします!」
勢いよく頭を下げるメイドたちに、オリバーは苦笑するしかない。
まったく、何なのだろう、この屋敷は。
礼儀作法を教えろと言われ、
レースを教え、
今度は刺繍まで教えることになる。
まるで、少しずつ、帰る理由を減らされているようだった。
そう思った瞬間、オリバーははっとする。
――気のせいだわ。
そう、自分に言い聞かせる。
これはただ、役に立てることが増えただけ。
ただ、それだけのはずだった。
そう言い聞かせるたび、胸のどこかが少しだけ痛んだ。
目の前で嬉しそうに糸を選ぶメイドたちの顔を見ていると、どうしても心のどこかが、少しだけ温かくなってしまうのだった。




