表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

13/49

Act.12 眠れぬ針先

Side オリバー


久しぶりの刺繍は、思った以上に楽しかった。


レースを教えるのとは違う。

布の上に図案を置き、針を運び、色を重ねていく感覚は、どこかもっと直接的で、完成へ向かっていく手応えが大きい。


メアリーやリアン、侍女たちと一緒にハンカチへ花を散らし、小さな鳥を飛ばし、蔓草を這わせていくうちに、気づけば夜はとっくに更けていた。


本当は、あのあたりで切り上げるべきだったのだろう。


けれど、目の前にあった上質な布と糸は、どうにも手を止めさせてくれなかった。

修道院では触れることも稀だった、なめらかな布。

均一で、ほどけにくく、艶のある色糸。

針の通りがよすぎて、まるでこちらの手の方が上手くなったかのような錯覚すら覚える。


そして――つい、作ってしまった。


バントス辺境伯家の紋章。


鷹が剣を咥えるその図案は、普通に見ても難しい。

羽根の流れを乱せば鷹がただの黒い塊に見えるし、剣の形が僅かに歪めば一気に安っぽくなる。

だから本来、試しに刺すようなものではない。


けれど、気づけば針は迷いなく動いていた。

羽の一枚一枚を色の濃淡で分け、剣の銀糸を角度を変えて沈ませ、縁取りに細い金を入れる。


出来上がったものを見て、オリバーは自分でも少しだけ息を呑んだ。


――やりすぎたわ。


それが最初の感想だった。


出来は良い。

良すぎるくらいに。


朝の光が差し込む客間で、その刺繍を侍女とメイドたちがまじまじと見つめていた。

誰もすぐには声を出せない。目だけがきらきらと輝いている。


「……すごい」


最初に呟いたのはリアンだった。


「本当に、鷹が今にも飛びそう……」


「剣も、ただの線じゃないんですね……」


メアリーまで、息を詰めるように見入っている。


オリバーは小さく目を伏せた。


刺繍は、自分の特技だった。


今にして思えば、この腕だけで、そこそこの家には嫁げただろう。

刺繍の上手い令嬢は、少なくとも無能とは見なされない。

家内を整え、装いを整え、贈り物も用意できる女だと思われるからだ。


けれど、傲慢だった昔の自分は、そんなこと一つも考えなかった。

ただもっと上へ、もっと美しいものへ、もっと高い場所へと目を向けていた。


刺繍の腕が本当に上がったのは、きっと修道院へ行ってからだ。


必要に駆られて、服を直すために腕を磨いた。

孤児院の子どもが破ってしまった服を、目立たないように継いだ。

薄くなった布を裏から当てて補強し、擦り切れた袖口を飾り紐で誤魔化した。


糸と針は、高級品だった。


修道院では、一本の糸も、一本の針も、駄目にすればすぐ困る。

だから余った糸は結び、短くなっても使い、折れた針は砥石で整えてまで残した。


なのに、ある日。


母が癇癪を起こし、箱ごと糸をぶちまけて、針を踏み折った。


その時の音を、ふと思い出す。

乾いた、嫌な音だった。

怒鳴り声よりも、よほど胸に残った音。


「これは……素晴らしいですね、オリバー様」


はっとして顔を上げる。


思わず、といったふうに声をかけてきたのは執事だった。

普段は表情を動かさない彼が、珍しく刺繍を見つめたまま目を細めている。


「いやあ、うちの家紋をここまで綺麗に作られたのは初めて見たよ」


続いて声を上げたのはバルク様だった。

厳つい顔をほころばせ、感心したように何度も頷いている。


「ちょっと、誰かグルドを呼んできてくれ」


その一言に、オリバーはぎくりとした。


「い、いえ、そこまでのものでは――」


「そこまでのものだ」


バルク様はきっぱり言った。


「本人に見せない方が失礼だろう」


そう言われてしまえば、返す言葉がない。

メイドのひとりが慌てて広間の方へ駆けていく。


ほどなくして、やや足早に入ってきたのはグルドだった。


「何だ、騒がしい――」


そこまで言って、彼は卓の上の刺繍を見た。

アイスブルーの目が、はっきりと見開かれる。


「……これを、作ったのか?」


「ええ、まあ……」


出来が良いことは自分でも分かっている。

分かっているからこそ、こうして見られるのは居心地が悪い。


けれど、グルドは刺繍を見たあと、すぐにこちらへ目を戻した。

そして次の瞬間、思いもよらないことをした。


頬に、手が触れた。


ひやりとした感触に、オリバーは息を呑む。

咄嗟のことで身じろぎもできず、ただ固まった。


グルドの親指が、目の下をそっとなぞる。


「もしかして、寝ていないのか?」


低い声だった。


その一言で、ようやく意味が分かった。

彼が触れたのは、目の真下。

鏡を見なくても、何があるかは察せられる。


「クマが出来ている」


そう言われて、昨日はほとんど寝ずに刺していたことを思い出した。

最後の金糸を入れたくて、あと少しだけと続けて、気づけば空が白み始めていたのだ。


だが、そのまま触れられているのはよろしくない。


オリバーはぱしりとその手を叩いて、口元に笑みを浮かべた。


「どちらもマナー違反ですわ」


グルドが一瞬、目をしばたく。


「いきなり淑女に触れない。あと、クマだとか、直接的なことは言わない。『顔色が優れませんね、少しお休みになりますか』と椅子へ誘導するなら、まだよろしいでしょう」


言い終えると、グルドはむっとした顔をした。


その表情があまりに露骨で、オリバーは一瞬だけ目を丸くする。

この人がこういう顔をするのは珍しい。


しまった、と思ったのと、彼が動いたのは同時だった。


急に身体が浮く。


「……え?」


次の瞬間には、抱き上げられていた。


「ちょっ!?」


驚きのあまり、声が裏返る。

腕にかかる力は安定していて、まるで重さを感じさせない。

けれどそれが余計に腹立たしい。


「グルド様!?」


「今は先生ではなく、客人として扱う」


真面目な顔で、彼は言った。


「少し寝ろ」


そう言って、そのまま寝室へ向かって歩き出す。


「お、お待ちくださいませ! 下ろして! 自分で歩けますわ!」


「寝不足の人間の『歩ける』は信用できない」


「そういう問題ではありません!」


「ある」


きっぱり言い切られて、オリバーは言葉を失った。


廊下の向こうで、メイドたちの小さな悲鳴と、何故か弾んだ囁き声が聞こえる。

誰も止めない。

バルク様に至っては、後ろで「うむ」とか何とか頷いていそうな気配すらある。


寝室へ着くと、グルドはためらいなくオリバーを寝台へ下ろした。


「少し寝ろ」


それだけ言って、踵を返す。

まるで荷物でも置いたみたいな手際の良さに、呆れて物も言えない。


だが、置いていかれたままでは済まなかった。


ぱたぱたと追いついてきたメイドたちが、すぐさま寝支度に取りかかる。

上掛けを整え、靴を脱がせ、手早くドレスの紐を緩めていく。


「お、お待ちなさい、まだ昼間ですわ!」


「ですから、お休みになるのです」


「けれど――」


「クマがございます」


それを言われると弱い。


結局、オリバーは抵抗しきれず、日が高いうちから寝台に横たえられることになった。


窓から差し込む光はまだ明るい。

こんな時間にベッドへ入るなど、修道院にいた頃なら考えられなかった。

働けるうちに働き、眠れる時に眠る。そういう毎日だったのだから。


なのに、上質なシーツと静かな部屋に身体を沈めると、思っていた以上にまぶたが重かった。


少しだけ。

本当に少しだけ。


そう思って目を閉じる。


その時見た夢は、妙に鮮やかだった。


鐘の音。

白い花。

祝福のざわめき。

人々の笑い声。


そして、金の髪をした花婿が、顔の見えない女を抱き上げている。


結婚式だった。


笑っているのは、たぶんグルドだ。

腕の中にいるのは、薄い金色の髪をした、顔の見えない美しい女。


祝福されるべき光景。

誰もが幸福だと信じる、正しい婚礼の姿。


なのにどうしてか、胸の奥が、ひどく痛んだ。


夢の中でさえ、オリバーはその場に立っていない。

少し離れた場所から、それを見ているだけだった。


その女は自分ではない。

そう分かっているのに。


目が覚めた時、頬が少しだけ冷たかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ