Act.12 眠れぬ針先
Side オリバー
久しぶりの刺繍は、思った以上に楽しかった。
レースを教えるのとは違う。
布の上に図案を置き、針を運び、色を重ねていく感覚は、どこかもっと直接的で、完成へ向かっていく手応えが大きい。
メアリーやリアン、侍女たちと一緒にハンカチへ花を散らし、小さな鳥を飛ばし、蔓草を這わせていくうちに、気づけば夜はとっくに更けていた。
本当は、あのあたりで切り上げるべきだったのだろう。
けれど、目の前にあった上質な布と糸は、どうにも手を止めさせてくれなかった。
修道院では触れることも稀だった、なめらかな布。
均一で、ほどけにくく、艶のある色糸。
針の通りがよすぎて、まるでこちらの手の方が上手くなったかのような錯覚すら覚える。
そして――つい、作ってしまった。
バントス辺境伯家の紋章。
鷹が剣を咥えるその図案は、普通に見ても難しい。
羽根の流れを乱せば鷹がただの黒い塊に見えるし、剣の形が僅かに歪めば一気に安っぽくなる。
だから本来、試しに刺すようなものではない。
けれど、気づけば針は迷いなく動いていた。
羽の一枚一枚を色の濃淡で分け、剣の銀糸を角度を変えて沈ませ、縁取りに細い金を入れる。
出来上がったものを見て、オリバーは自分でも少しだけ息を呑んだ。
――やりすぎたわ。
それが最初の感想だった。
出来は良い。
良すぎるくらいに。
朝の光が差し込む客間で、その刺繍を侍女とメイドたちがまじまじと見つめていた。
誰もすぐには声を出せない。目だけがきらきらと輝いている。
「……すごい」
最初に呟いたのはリアンだった。
「本当に、鷹が今にも飛びそう……」
「剣も、ただの線じゃないんですね……」
メアリーまで、息を詰めるように見入っている。
オリバーは小さく目を伏せた。
刺繍は、自分の特技だった。
今にして思えば、この腕だけで、そこそこの家には嫁げただろう。
刺繍の上手い令嬢は、少なくとも無能とは見なされない。
家内を整え、装いを整え、贈り物も用意できる女だと思われるからだ。
けれど、傲慢だった昔の自分は、そんなこと一つも考えなかった。
ただもっと上へ、もっと美しいものへ、もっと高い場所へと目を向けていた。
刺繍の腕が本当に上がったのは、きっと修道院へ行ってからだ。
必要に駆られて、服を直すために腕を磨いた。
孤児院の子どもが破ってしまった服を、目立たないように継いだ。
薄くなった布を裏から当てて補強し、擦り切れた袖口を飾り紐で誤魔化した。
糸と針は、高級品だった。
修道院では、一本の糸も、一本の針も、駄目にすればすぐ困る。
だから余った糸は結び、短くなっても使い、折れた針は砥石で整えてまで残した。
なのに、ある日。
母が癇癪を起こし、箱ごと糸をぶちまけて、針を踏み折った。
その時の音を、ふと思い出す。
乾いた、嫌な音だった。
怒鳴り声よりも、よほど胸に残った音。
「これは……素晴らしいですね、オリバー様」
はっとして顔を上げる。
思わず、といったふうに声をかけてきたのは執事だった。
普段は表情を動かさない彼が、珍しく刺繍を見つめたまま目を細めている。
「いやあ、うちの家紋をここまで綺麗に作られたのは初めて見たよ」
続いて声を上げたのはバルク様だった。
厳つい顔をほころばせ、感心したように何度も頷いている。
「ちょっと、誰かグルドを呼んできてくれ」
その一言に、オリバーはぎくりとした。
「い、いえ、そこまでのものでは――」
「そこまでのものだ」
バルク様はきっぱり言った。
「本人に見せない方が失礼だろう」
そう言われてしまえば、返す言葉がない。
メイドのひとりが慌てて広間の方へ駆けていく。
ほどなくして、やや足早に入ってきたのはグルドだった。
「何だ、騒がしい――」
そこまで言って、彼は卓の上の刺繍を見た。
アイスブルーの目が、はっきりと見開かれる。
「……これを、作ったのか?」
「ええ、まあ……」
出来が良いことは自分でも分かっている。
分かっているからこそ、こうして見られるのは居心地が悪い。
けれど、グルドは刺繍を見たあと、すぐにこちらへ目を戻した。
そして次の瞬間、思いもよらないことをした。
頬に、手が触れた。
ひやりとした感触に、オリバーは息を呑む。
咄嗟のことで身じろぎもできず、ただ固まった。
グルドの親指が、目の下をそっとなぞる。
「もしかして、寝ていないのか?」
低い声だった。
その一言で、ようやく意味が分かった。
彼が触れたのは、目の真下。
鏡を見なくても、何があるかは察せられる。
「クマが出来ている」
そう言われて、昨日はほとんど寝ずに刺していたことを思い出した。
最後の金糸を入れたくて、あと少しだけと続けて、気づけば空が白み始めていたのだ。
だが、そのまま触れられているのはよろしくない。
オリバーはぱしりとその手を叩いて、口元に笑みを浮かべた。
「どちらもマナー違反ですわ」
グルドが一瞬、目をしばたく。
「いきなり淑女に触れない。あと、クマだとか、直接的なことは言わない。『顔色が優れませんね、少しお休みになりますか』と椅子へ誘導するなら、まだよろしいでしょう」
言い終えると、グルドはむっとした顔をした。
その表情があまりに露骨で、オリバーは一瞬だけ目を丸くする。
この人がこういう顔をするのは珍しい。
しまった、と思ったのと、彼が動いたのは同時だった。
急に身体が浮く。
「……え?」
次の瞬間には、抱き上げられていた。
「ちょっ!?」
驚きのあまり、声が裏返る。
腕にかかる力は安定していて、まるで重さを感じさせない。
けれどそれが余計に腹立たしい。
「グルド様!?」
「今は先生ではなく、客人として扱う」
真面目な顔で、彼は言った。
「少し寝ろ」
そう言って、そのまま寝室へ向かって歩き出す。
「お、お待ちくださいませ! 下ろして! 自分で歩けますわ!」
「寝不足の人間の『歩ける』は信用できない」
「そういう問題ではありません!」
「ある」
きっぱり言い切られて、オリバーは言葉を失った。
廊下の向こうで、メイドたちの小さな悲鳴と、何故か弾んだ囁き声が聞こえる。
誰も止めない。
バルク様に至っては、後ろで「うむ」とか何とか頷いていそうな気配すらある。
寝室へ着くと、グルドはためらいなくオリバーを寝台へ下ろした。
「少し寝ろ」
それだけ言って、踵を返す。
まるで荷物でも置いたみたいな手際の良さに、呆れて物も言えない。
だが、置いていかれたままでは済まなかった。
ぱたぱたと追いついてきたメイドたちが、すぐさま寝支度に取りかかる。
上掛けを整え、靴を脱がせ、手早くドレスの紐を緩めていく。
「お、お待ちなさい、まだ昼間ですわ!」
「ですから、お休みになるのです」
「けれど――」
「クマがございます」
それを言われると弱い。
結局、オリバーは抵抗しきれず、日が高いうちから寝台に横たえられることになった。
窓から差し込む光はまだ明るい。
こんな時間にベッドへ入るなど、修道院にいた頃なら考えられなかった。
働けるうちに働き、眠れる時に眠る。そういう毎日だったのだから。
なのに、上質なシーツと静かな部屋に身体を沈めると、思っていた以上にまぶたが重かった。
少しだけ。
本当に少しだけ。
そう思って目を閉じる。
その時見た夢は、妙に鮮やかだった。
鐘の音。
白い花。
祝福のざわめき。
人々の笑い声。
そして、金の髪をした花婿が、顔の見えない女を抱き上げている。
結婚式だった。
笑っているのは、たぶんグルドだ。
腕の中にいるのは、薄い金色の髪をした、顔の見えない美しい女。
祝福されるべき光景。
誰もが幸福だと信じる、正しい婚礼の姿。
なのにどうしてか、胸の奥が、ひどく痛んだ。
夢の中でさえ、オリバーはその場に立っていない。
少し離れた場所から、それを見ているだけだった。
その女は自分ではない。
そう分かっているのに。
目が覚めた時、頬が少しだけ冷たかった。




