Act.13 届いていなかったもの
Side グルド
オリバー嬢を寝室へ運び込み、ようやく執務室へ戻った時には、妙な疲労が肩に残っていた。
魔物と戦ったわけでも、剣を振るったわけでもない。
ただ、寝不足の女を抱えて寝室まで運んだだけだ。
それだけのはずなのに、どうしてあんなにも落ち着かなかったのか、自分でもよく分からない。
執務室の扉を開けた、その瞬間だった。
最初に目に飛び込んできたのは、机の上に置かれた一枚の布だった。
白い布地の上に、バントス辺境伯家の紋章。
鷹が剣を咥えたその意匠は、窓から差し込む昼の光を受けて、静かに、けれど堂々とそこにあった。
思わず足が止まる。
「……それ、持ってきたのか」
声が自然と低くなる。
執務机の向こうには、バルク叔父上と執事がいた。
叔父上は腕を組み、執事はいつものように背筋を伸ばしている。
だが俺はしばらく、その二人よりも先に刺繍から目を離せなかった。
さっきも見た。
見たはずなのに、こうして静かな部屋で改めて見ると、受ける印象がまた違う。
ただ綺麗なだけじゃない。
これは家の紋章だ。
飾りの花や鳥とは違う。
歪めばすぐに分かる、誤魔化しの利かない図案だ。
羽根の流れは軽やかなのに力強く、咥えた剣は真っ直ぐで、いかにも辺境伯家らしい。
あの鷹は、布の上に縫い留められているのに、今にも飛び立ちそうに見えた。
「置きっぱなしもどうかと思ってな」
バルク叔父上が顎をしゃくった。
「それに、お前にも落ち着いて見せておこうと思った」
俺は机のそばまで歩み寄り、刺繍を見下ろした。
「……すげえな」
思わず、そんな言葉が漏れた。
執事が静かに頷く。
「ええ。ここまで見事なものは、そうそうございません」
「うちの紋章って、こんなに格好良かったんだな……」
本音だった。
見慣れていたはずなのに、あの刺繍の上では妙に凛々しく見える。
鷹は猛々しく、剣は鋭く、辺境の家の誇りそのものみたいだった。
あの女は、これを一晩で刺したのか。
寝ずに。
「だから寝かせたのは正解だ」
バルク叔父上がぼそりと言う。
「クマが出来ていたぞ、あれは」
「……ああ」
思い出すと、また胸の奥がざわつく。
頬に触れた時、驚いたように固まった顔。
そのあとすぐに教師の顔へ戻って、こちらの作法違反を数え上げた口ぶり。
だが、最後にはたしかに疲れていた。
俺はそっと刺繍の端に指を触れた。
布は軽い。
軽いのに、妙に重たく感じる。
「で」
ようやく顔を上げて、二人を見る。
「わざわざここで待ってたってことは、何かあるんだろ」
執事が静かに一礼した。
「旦那様、ご報告したいことがございます」
その声音が、いつもよりわずかに硬い。
俺は椅子へ向かいながら眉をひそめた。
「何だ」
執事は一冊の帳簿を机へ置いた。
次いで、何通かの紙束。
どれも軽く見ていい類のものではないと、一目で分かる。
「修道院と孤児院について、確認を進めておりました」
その一言に、俺は椅子へ腰を下ろしかけたまま止まった。
「……確認?」
「はい」
執事が淡々と続ける。
「オリバー嬢がレースの仕事を教えられていた件、また、修道院の運営状況に不審な点がございましたので、帳簿と寄付の流れを洗いました」
俺はゆっくりとバルク叔父上を見た。
叔父上も眉を寄せている。
どうやら、叔父上も細かい中身まではまだ知らないらしい。
「結論から申し上げます」
嫌な前置きだった。
「修道院にも、孤児院にも、本来バントス辺境伯家から出されているはずの寄付金が、一銭たりとも入っておりませんでした」
しばし、意味が分からなかった。
「……は?」
間の抜けた声が出る。
執事は目を伏せず、ただ事実だけを差し出すように繰り返した。
「定期寄付、冬支度の補助、備蓄補填、孤児院の衣類費。帳簿上は支出済みになっておりますが、現物も金も、どちらにも届いておりません」
「待て」
喉が乾く。
「届いていないって、どういうことだ。支出済みなんだろ」
「中抜きされております」
その一言で、空気が一気に冷えた。
バルク叔父上が低く唸る。
「誰だ」
執事は一枚の紙を差し出した。
「家中の出納と物資搬送の一部を長年任されていた、家臣筋の家です」
「家臣の家が……?」
「はい。寄付名目で下ろした金を途中で止め、帳簿だけ合わせていたようです。物資も同様です」
俺は紙を睨んだ。
数字は揃っている。
揃っているのに、修道院にも孤児院にも届いていない。
つまり、帳簿の上だけで綺麗に消していたということだ。
「……修道院は、それでどうやって回していた」
自分でも驚くほど低い声が出た。
執事が一瞬だけ目を伏せ、それから言った。
「オクレール公爵家からの寄付金です」
息が止まる。
「それと、オリバー嬢が教えたレース仕事によるわずかな収入で、辛うじて回していたようです」
今度こそ、言葉が出なかった。
俺の領地の中にある修道院と孤児院を、俺の家ではなく、ステファンたちが支えていた。
しかもその不足分を埋めていたのが、オリバー嬢だという。
糸を編み、仕事を教え、あの女が作ったわずかな金で、女たちと子どもたちが食いつないでいた。
「ふざけるな……」
思わず、そんな声が漏れた。
バルク叔父上も、今度ははっきり顔を歪めた。
「俺たちは何を見ていた」
それはたぶん、俺が言いたかったことでもある。
執事はさらに一枚、別の紙を出す。
「それだけではございません」
嫌な予感しかしなかった。
「その中抜きをしていた家の息子が、オリバー嬢に執着しておりました」
「執着?」
「はい」
執事の声はどこまでも平坦だった。
「修道院が困窮していることを承知の上で、院長へ『オリバー嬢を愛人として差し出すなら、資金援助をしてもよい』と持ちかけていたようです」
バルク叔父上が机を叩いた。
鈍い音が響く。
「何だと」
俺はもう、紙を見るどころではなかった。
「……愛人?」
「はい」
「オリバー嬢を?」
「はい」
その短い応答が、妙に残酷だった。
冗談ではない。
ただの腐った縁談話でもない。
領地の中で、俺の家臣が、修道院の窮状につけ込んで、オリバー嬢を囲おうとしていた。
「院長は、それを断り続けていたそうです」
執事が続ける。
「あの細い身体で?」
バルク叔父上の声は怒りで低かった。
「はい。何度でも」
執事はそこで、初めて少しだけ表情を曇らせた。
「我々が調査に入った際も、院長は最初、我々をその男の差し金か何かと疑ったようでございます」
「……それで?」
「玄関先まで出て来て、細い身体で詰め寄られました」
執事が、院長の言葉をそのままなぞるように言った。
「『オリバーを返しなさい』と」
執務室が静まり返る。
「『あの子を、今さら返せなんて都合のいいことを言わないでください』と。『あの子は渡しません』と」
俺はゆっくり息を吸った。
返しなさい。
その言葉の意味が、すぐには飲み込めなかった。
だが執事の説明を聞くうちに分かった。
院長は、オリバー嬢を守ろうとしていたのだ。
修道院が苦しくても。
金がなくても。
あの女がいれば助かると分かっていても。
それでも、あの男に売るくらいなら、断り続けた。
「……あの人」
気づけば呟いていた。
「オリバー嬢を、守ってたのか」
「はい」
執事が静かに答える。
「そして、オリバー嬢もまた、修道院を支えておりました」
その言葉に、頭の奥で何かが音を立てて繋がった。
パンの数を見ていたこと。
使用人の人数を見ていたこと。
衣装や部屋には困ったように笑うくせに、レースや補助金の話になると目の色が変わること。
あの刺繍を、寝ずに縫い上げたこと。
全部、同じ線の上にあった。
あの女は、自分を使って、ひたすら他人を支えていたのだ。
俺の領地の中で。
俺よりずっと早く、ずっと真面目に。
「……俺の領地の中にあるんだぞ」
声が低くなる。
「修道院も、孤児院も。全部」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
「それを、うちの金が一銭も届いていなかった? 見えていなかったで済む話じゃない」
「はい」
「代わりに公爵家が入れていた?」
「はい」
「しかも、その不足分をオリバー嬢が糸と針で埋めていた?」
「はい」
執事の答えは、いちいち容赦がなかった。
バルク叔父上が額を押さえる。
「……最低だな」
「最低ですまん」
思わずそう返してしまった。
最低なのは家臣だ。
中抜きしたあの家だ。
だが、それを気づかず通していたなら、俺たちも同罪だ。
「ふざけるなよ……」
今度ははっきりと口にした。
「あの人、うちの紋章をあんなに綺麗に縫ってたぞ」
机の上の刺繍が目に入る。
白い布の上に、鷹と剣。
あれだけ見事なものを、寝ないで作って。
それでいて、自分のための刺繍は一つも持っていないような顔をする。
「俺の家の紋章をあんなに綺麗に縫える人間に、うちは何ひとつ返していなかったのか」
怒鳴ったわけではない。
だが、自分でも驚くほど声が震えていた。
バルク叔父上は何も言わなかった。
執事もまた、黙って頭を下げた。
しばらくして、俺はゆっくりと口を開く。
「今すぐ予算を組め」
執事が顔を上げる。
「修道院も孤児院も、足りなかった分を洗い直せ。冬支度、屋根、備蓄、薬、衣類、全部だ。今後は辺境伯家の名で直接出す。間に家臣を噛ませるな」
「承知いたしました」
「中抜きしていた家は?」
執事の目が冷えた。
「証拠を固めております」
「逃がすな」
「もちろんでございます」
「その愛人話を持ちかけた男もだ」
「承知しております」
バルク叔父上が、そこで低く言った。
「……だが、オリバー嬢にはまだ言うな」
俺は眉をひそめた。
「何故だ」
「言えば、あの方は真っ先に『私のせいで』と言う」
それは、嫌になるほど想像できた。
自分がいたから揉めた。
自分がいたから金が動いた。
自分がいたから迷惑をかけた。
あの女はそう考える。
「まずはこちらで形にしろ」
バルク叔父上が続ける。
「修繕を始めて、備蓄を入れて、寄付の流れを変えて、目に見える形で安心させる。それからだ」
執事も静かに頷いた。
「今のままお伝えしても、オリバー嬢は喜ぶどころか身を引くでしょう」
俺はしばらく黙った。
それから、机の上の刺繍を手に取る。
布は軽い。
軽いのに、妙に重い。
あの女は、これをどんな気持ちで縫ったのだろう。
自分はいずれ修道院へ帰るのだと、そう思いながら。
この家のために。
俺の領地のために。
「……今度は、放らない」
気づけば、そう呟いていた。
バルク叔父上が何か言いかけたが、結局黙った。
執事もまた、何も言わない。
執務室の窓の向こうでは、春の陽が明るく差していた。
それなのに、胸の中だけが妙に冷たく、重い。
けれど、一つだけはっきりしたことがある。
俺は、オリバー嬢をただの客人だと思っていた。
噂の悪女だと疑い、助言役だと軽く考え、少しずつ知ったつもりでいた。
だが違った。
あの人はもう、俺の領地の現実の中にいる。
しかも、俺よりずっと前から、それを支えていた。
今度はもう、『知らなかった』では済ませない。




