番外編 許さないで、幸せになって
遠くから、それを見つめる女がいた。
賑やかな声が、風に乗って届いてくる。
笑い声。
祝福の声。
子どもたちのはしゃぐ声。
大人たちの、安堵したような笑い。
バントス辺境伯家の庭は、今日ばかりは花のように明るかった。
その中心にいるのは、白い花嫁と、大きな花婿。
花嫁が纏うヴェールは、陽を受けて光り輝いていた。
ただ白いだけではない。
揺れるたびに、ひそやかに色を変える。
よく見なければ分からないほど淡く。
けれど、確かにそこにある色。
あの糸だ、と女は思った。
三本の糸を撚り合わせる時、一本だけ、光に当たると紫を帯びる糸を混ぜたのだ。
白の中に、ほんのひとかけらだけ忍ばせた紫。
遠目には見えない。
けれど、陽を受けた時だけ、確かにそこに浮かび上がる色。
あの子の瞳の色だった。
露骨に愛したことなど、一度もなかった。
優しい母であったこともない。
それでも、せめてヴェールの中にだけは、あの子の色を入れておきたかった。
花嫁となって光の中へ立つ時、
誰にも気づかれなくてもいいから、
母はちゃんと、お前を見ていたのだと、そう残したかった。
遠目に見ても分かった。
自分が編んだものだと。
自分が、娘のために編んだヴェールだと。
女の喉が震えた。
「……ごめんなさい、オリバー」
ぽろりと、涙が零れる。
謝るしかできない。
それが何より惨めだった。
許してほしいとは思わない。
許されるべきだとも思わない。
ただ、謝ることしかできない愚かな母であったことを、女は誰より知っていた。
「ごめんなさい、ターシャ」
何も贈ることのできなかった娘の名を、今度は震える唇で呼ぶ。
「ごめんなさい、エレーナ」
そして最後に、傷しか与えられなかった娘の名を。
女はもう、自分がどういう人間だったのかを言い逃れできなかった。
『母親』ではなく、ただの『女』だった。
政略結婚だと言われながら、それでも心のどこかで愛を欲しがった。
好きな人を忘れられず、愛した男の子を産めない現実に耐えられず、
なのに、自分は母になれたのに、愚かにも『愛』も『子』も得て死んでいった女を恨んだ。
恨むべきではないものを恨み、
向けるべきではない憎しみを、何の罪もない子どもへ向けた。
どこまでも、愚かだった。
「許さないでくれていいわ」
女は、涙で滲む視界の向こうにいる花嫁を見つめた。
白いヴェール。
光を受けるレース。
その下で笑う娘。
「でも、幸せになって」
その言葉と一緒に、また涙が零れた。
隣にいた男が、何も言わずにその肩を抱いた。
大きな手だった。
懐かしいぬくもりだった。
二人は、長く別たれた恋人同士だった。
彼は、あの日、教会で女が婚姻を誓う前に手を差し出してくれた。
逃げよう、と。
今ならまだ間に合う、と。
けれど女は、その手を取れなかった。
『もし、私が逃げたら国が傾くんですって』
泣きそうな顔で、けれど泣かずに笑って、女はそう言った。
『そうなったら、真っ先に戦火を被るのは貴方のお家よ。そう言われたら、私は行けないわ』
そして女は嫁いだ。
嫁いで、きっと覚悟したつもりだった。
愛ではなく義務に生きるのだと。
国のために、家のために、与えられた役目を果たすのだと。
なのに、どこかで狂った。
その瞬間を、女は今でも忘れられない。
雨の日だった。
ターシャを胸に抱いて、母乳を与えていた時。
部屋へ入ってきた夫の腕に、もう一人の赤子がいた。
金色の髪に、ブルーグレーの目。
見た瞬間に分かった。
夫の子だと。
夫が愛していた、あの女の子どもだと。
そして、自分の産んだターシャと、ほとんど同じ時期に生まれた子だと。
あの時、胸の奥で何かが決定的に壊れた。
違う。
壊れたのではない。
恨んだのだ。
『なんで私が好いた男の子を産めないのに、あの女は私の夫の子を産んだのだ』
その感情は、理不尽で、醜くて、言葉にするのも恥ずべきものだった。
けれどたしかに、あの時の自分の中にあった。
思えば、羨ましかったのだ。
愛されていたことが。
子を望まれていたことが。
自分には与えられなかったものを、あの女が持っていたことが。
でも、残ったのは後悔しかなかった。
あれほど傷つけても。
あれほど拒んでも。
あれほど自分を正当化しても。
最後に手の中に残ったのは、娘たちの涙と、自分の愚かさだけだった。
「……行こう、クロエ。これ以上は」
男が、低く静かに言った。
女は、涙を拭いきれないまま頷く。
「ええ……」
肩を抱かれ、ゆっくりと歩き出す。
後ろではまだ、賑やかな笑い声が続いていた。
シスターたちの笑顔。
孤児院の子どもたちの歓声。
辺境の人々の、あたたかな祝福。
その輪の中に、自分は入れない。
入ってはならない。
けれど、遠くから見ることは許された。
娘が幸せそうに笑っているのを、この目で見ることだけは。
それだけで十分だと、今は思うしかなかった。
女の名は、クロエ。
この先、彼女がオーウェン王国でも指折りのレース職人になることを、まだ誰も知らない。
罪と後悔と祈りを糸に込め、誰よりも美しいレースを編むようになることも。
ただ、その願いだけは最初から変わらなかった。
娘に、最高のヴェールを贈りたい。
そしてその白の中に、ほんのひそかな紫を織り込んで、誰にも言えなかった愛情の代わりにしたかった。
その願いから生まれた三つの作品が、やがて最高傑作と呼ばれることになる。
一つは王家に。
一つはオクレール公爵家に。
そして一つはバントス辺境伯家に。
いつしかそれらは、それぞれの家に嫁ぐ花嫁が婚礼で纏うヴェールとなり、
祝福のたびに受け継がれていくのだが――
それは、まだ少し先の話。
この日、ただ一つ確かなのは。
悪女と呼ばれた娘が、ようやく幸せになったこと。
そして、その幸せを、遠くから泣きながら見送る母がいたことだけであった。




