番外編 手を離した日と、取り戻した日
Side ルーカス
泣くのは、いつだって女の方だった。
そう思っていた。
泣きたいのに泣けず、笑わねばならぬ時に笑って、最後まで背筋を折らずに立っている。
そういう強さが、あの女にはあった。
だから、クロエが声もなく泣く姿を見るたびに、胸の奥を鈍い刃物で抉られるような気分になる。
「……ごめんなさい、オリバー」
隣で零れた声は、風に攫われるほど小さかった。
ルーカスは何も言わなかった。
言えなかった、と言った方が正しい。
バントス辺境伯家の庭は、今日ばかりは春そのものみたいに明るい。
白い花嫁。
大きな花婿。
子どもたちの歓声。
シスターたちの涙。
村人たちの笑い声。
そのすべてが、遠目にも幸福だった。
そして、クロエの目はそのただ一点に釘づけになっている。
白いヴェールを纏った娘に。
「ごめんなさい、ターシャ」
また一つ、謝罪が零れる。
「ごめんなさい、エレーナ」
その名を聞いた時、ルーカスは静かに目を閉じた。
そこまで謝るなら、もう十分ではないか、と喉まで出かかった。
だが、それを言ってやる資格が自分にあるとは思えなかった。
クロエが狂っていくのを止められなかったのは、自分だ。
いや、そもそも、あの子を一人であの婚姻に送り出した時点で、もう間違えていたのかもしれない。
肩を抱く手に、わずかに力を込める。
クロエの肩は昔よりずっと細かった。
「許さないでくれていいわ。でも、幸せになって」
その言葉に、ルーカスは花嫁を見た。
幸せそうだった。
それだけでよかった。
そう思えるようになるまで、ずいぶん時間がかかった。
昔の自分なら、たぶん違った。
あの頃の自分は若く、愚かで、まっすぐだった。
だから、クロエが教会で婚姻を誓う日、本気で攫うつもりでいた。
馬も用意した。
逃げ道も考えた。
国境を越えた後のあても、どうにか整えた。
ただ一言、来い、と言えばいい。
手を取ってくれれば、それで全部捨てられると思っていた。
だが、クロエはその手を取らなかった。
『もし、私が逃げたら国が傾くんですって』
あの日の声を、ルーカスはいまでも忘れられない。
涙をこらえて、けれど泣かずに笑っていた。
本当に、あの女はああいう時ほど泣かない。
『そうなったら、真っ先に戦火を被るのは貴方のお家よ。そう言われたら、私は行けないわ』
ルーカスはあの時、初めて知った。
愛だけでは女は連れて行けない。
国を、家を、人の命を、人質に取られた女を、男一人の手では救えないのだと。
だから手を放した。
いや、放さざるを得なかった。
そのあとクロエは嫁ぎ、ルーカスは残された。
ただ残されたのならまだいい。
何年も、あの婚姻の噂を聞き続けた。
オクレール公爵夫人は癇癪持ちだ。
娘に厳しい。
屋敷は息苦しい。
異母妹が引き取られた。
長女は悪女だと囁かれている。
どれもこれも、聞きたくもない話だった。
そして最後に、クロエが狂ったと知った。
あの時、ルーカスはようやく理解した。
手を放したことで救えたものもあったのだろう。
けれど、放したせいで壊れた女がいたのだと。
だからその後は、せめて自分の手の届く場所だけでも守ろうとした。
兄の悪名を利用してでも。
自分が変態と呼ばれてでも。
売られてくる娘たちを止めた。
兄の残した子を守った。
辺境伯代理の椅子に座り続けた。
全部、後付けだ。
立派な志ではない。
ただ、クロエを救えなかった男が、その先でも何も守れない人間にはなりたくなかっただけだ。
それだけだった。
「……行こう、クロエ。これ以上は」
やっとそれだけ言うと、クロエが小さく頷いた。
「ええ……」
そうして歩き出したのに、足はひどく遅い。
後ろ髪を引かれているのだと、見なくても分かる。
当然だろう。
あそこにいるのは、自分が傷つけた娘たちで、
それでもなお幸せになってほしいと願っている娘たちなのだから。
少し歩いたところで、クロエがふいに立ち止まった。
「……綺麗だったわね」
ルーカスも足を止める。
答えなくても、誰のことかは分かる。
「そうだな」
「オリバー、あんなふうに笑うのね」
その声に、ルーカスは胸が痛んだ。
クロエは知らなかったのだ。
娘の穏やかな笑顔を、まともに見る機会がほとんどなかったのだから。
「ええ」
クロエは小さく笑って、それからまた泣いた。
「本当はね、もっと早く見たかったの。あの子たちが笑う顔」
ルーカスは返事をしなかった。
代わりに、肩を抱く腕を少しだけ強くした。
責めるのは簡単だ。
もっと早くできたはずだと言うのも簡単だ。
だが今のクロエに必要なのは、正論でも断罪でもない。
ただ、立っていられるだけのぬくもりだと、もう知っている。
しばらく歩いて、バントス辺境伯家の庭が木々の向こうへ隠れかけた頃、クロエがぽつりと言った。
「私、ようやく分かったの」
「何がだ」
「母になれたのに、母になりきれなかったのではないの」
ルーカスは黙って聞いた。
「最初からずっと、母になる覚悟が足りなかったのよ」
クロエは自嘲するように笑った。
「『愛されなかった女』であることに囚われ続けて、子どもに向き合うべき時まで、『愛されたい女』のままだった」
その言葉は、あまりにも鋭く、あまりにも正しかった。
だからこそルーカスは、すぐに何も言えなかった。
クロエは強い女だ。
強いからこそ、こういうふうに自分で自分を切る。
だが、今それを肯定するわけにはいかなかった。
「……それでも」
ようやく、低く言う。
「最後に、お前は娘へヴェールを贈った」
クロエが少しだけ目を見開く。
ルーカスは続けた。
「言葉で間違えた。態度で間違えた。生き方でも、たぶんたくさん間違えた。だが、最後に残したものは、ちゃんと母親の手だった」
風が吹く。
クロエの肩が、かすかに震えた。
「……そうかしら」
「そうだ」
ルーカスは即答した。
「少なくとも俺は、あのヴェールを見てそう思った」
白の中に忍ばせた紫。
オリバーの瞳の色。
誰にも気づかれなくてもいいと隠したくせに、気づいてほしいと願っているような細工。
あれは告白だった。
不器用で、遅すぎて、みっともないほど遠回りな。
それでも、母親の告白だった。
「……俺は、お前がそんなものを編める女だと、昔から知っていたよ」
その言葉に、クロエが泣き笑いみたいな顔をした。
「また、そうやって甘やかすのね」
「今さら厳しくしても仕方ないだろう」
「それもそうね」
ようやく、ほんの少しだけ、いつものクロエらしい声音が戻る。
それが嬉しくて、ルーカスは小さく息を吐いた。
この先、クロエが王国一のレース職人と呼ばれるようになることを、いまここにいる誰もまだ知らない。
ただ、ルーカスだけはずっと知っていた。
この女の手は、本当に美しいものを生み出すのだと。
壊れたままでも。
後悔を抱えたままでも。
祈るみたいに糸を結べる女なのだと。
だから、もう遅くてもいいと思った。
若い日のように、手を引いて駆け落ちすることはできなかった。
国を捨てることも、過去を消すこともできなかった。
けれど今度は、手を放さないでいられる。
それだけで十分だ。
「帰ろう、クロエ」
そう言うと、クロエは今度こそ素直に頷いた。
「ええ、ルーカス」
その名を呼ばれて、ルーカスは少しだけ目を細める。
後ろではまだ、祝福の声が続いていた。
花嫁は笑っているだろう。
花婿も、きっとあの不器用な顔で照れている。
それでいい。
娘たちはもう、自分たちの人生を歩いていく。
ならば、自分たちもまた、自分たちの残りを生きればいい。
あの日、教会の前で離した手を。
長い長い回り道の果てに、ようやく取り戻したのだから。
ルーカスはクロエの肩を抱いたまま、振り返らずに歩き出した。
春の風はやわらかく、遠い庭園から届く笑い声は、ひどくあたたかかった。




