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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.45 帰る場所

Side グルド


バルコニーへ出ると、ようやく息がつけた。


大広間の灯りと熱気は背後に残り、夜の空気がじわりと火照った肌を冷ましていく。

王都の夜は辺境のそれよりずっとぬるい。

それでも、あの息苦しいほどの視線の渦から離れられただけで、十分ありがたかった。


隣では、オリバーがそっと息を吐く。


張りつめていたものをほどくような、細く長い吐息だった。


その横顔を見て、俺は思わず口を開いた。


「……お疲れ様」


いきなりだったかもしれない。

だが、他にしっくりくる言葉が見つからなかった。


オリバーが少しだけ目を瞬く。

それから、ふっと笑った。


「グルド様こそ、お疲れ様です」


その返しがあまりにも自然で、俺もつられて少し笑ってしまう。


さっきまで国王陛下の前に立ち、晩餐会だの舞踏会だのと神経を削られていたはずなのに。

たったそれだけの言葉で、妙に肩の力が抜けるのだから不思議だった。


しばらく二人で並んだまま、夜気に当たる。


遠くで楽団の音が微かに響く。

笑い声も、談笑も、全部が扉一枚隔てた向こうの世界みたいだった。


「……早く辺境に帰りたい」


気づけば、そう漏らしていた。


本音だった。


王都が嫌いなわけではない。

だが、どうしたって疲れる。

言葉を選び、顔を選び、踏み込む距離まで選ばねばならないこの土地は、俺にはやはり息苦しい。


オリバーが、月を見上げたまま頷く。


「ええ」


その声音は、思っていたよりずっと柔らかかった。


「屋敷の皆が恋しいですわ」


その一言に、俺は一瞬だけ息を止めた。


屋敷の皆。


辺境の、あの屋敷。

バントス辺境伯家の侍女たち、メイドたち、執事たち、使用人たち。

雪深くて、不便で、王都みたいに華やかなものは何もない、あの土地の人間たち。


そこを、この人は今、何のためらいもなく『恋しい』と言った。


帰りたい場所として、口にした。


その瞬間、胸の奥で何かが静かに熱を持った。


ああ、と俺は思う。


この人の中で、もう辺境はただの赴任先でも、嫁ぎ先でもないのだ。

ちゃんと、帰る場所になり始めている。


バントス辺境伯家が、この人にとっての『帰る家』になっている。


そのことが、どうしようもなく嬉しかった。


だが、そこで『今のはそういう意味か?』などと茶化すほど、俺も馬鹿ではない。

そんなことを言えば、たぶんこの人は一瞬で意識して、またいつもの強情を引っ張り出す。


だから、胸の中でだけ噛みしめて、口には別のことを乗せた。


「……帰ったら、もう一回、ちゃんとした式を挙げよう」


オリバーが、ゆっくりとこちらを見る。


その瞳をまっすぐ見返して、俺は続けた。


「辺境の、修道院の教会で」


口にしていくうちに、景色が浮かんでくる。


白い石壁の、小さな教会。

雪には厳しいが、春や夏にはちゃんと花が咲く、あの辺境の土地。

修道院のシスターたち。

孤児院の子どもたち。

そして、村の人間たち。


「あそこの教会なら、孤児院の子どもたちも、修道院のシスターたちも、村の人間たちも来られるだろ」


オリバーの睫毛が、かすかに揺れた。


俺はそのまま続ける。


「で、終わったらバントス辺境伯家の庭でガーデンパーティーをして、お前をみんなに紹介させてくれ」


辺境の連中は、たぶん王都の連中よりずっと騒ぐ。

メイドどもは泣くだろうし、侍女たちは最初から最後まで着飾りがいについて語るだろう。

村の女たちは、ああでもないこうでもないとドレスの裾にまで口を出すかもしれない。


それでも、あの土地ならいいと思えた。


王都みたいな値踏みの視線ではなく、ただ『帰ってきた花嫁』を見る目がある。


「悪女ですが、よろしいですか?」


オリバーが、少しだけ口元を緩めて言った。


その言葉に、俺は鼻で笑う。


「その悪女は、辺境じゃ聖女だ」


「……またそのようなことを」


「本当だ」


そこで、ふと思い出して口にした。


「オリバーのレース、今、辺境で何て言われてるか知ってるか?」


オリバーが少しだけ首を傾げる。


「いいえ?」


「『奇跡のレース』」


その返答に、流石のオリバーも目を丸くした。


「奇跡?」


「ああ」


俺は頷く。


「あのレース、生産が追いつかないくらいに売れてる」


オリバーの顔が、目に見えて困惑に染まる。

言い過ぎだと思っている顔だ。


だが、こっちは事実を言っているだけだ。


「今は男どもまで糸を紡いでるぞ。観光地だの何だの言われても、何にもない、魔獣しかいない、作物も育ちにくいヴィネで、お前のレースが産業になった」


あの辺境に、女たちだけでなく男たちまでが残って作業する理由ができた。

冬の備えとして蓄えられる金が増えた。

娘たちが村を出ずに済む未来が、少しだけ現実になった。


全部、この人が最初に教えた糸の編み方から始まっている。


オリバーが、小さく唇を開く。


「私は……」


その先は分かった。


何もしていない。

たまたまよ。

私一人の力ではありませんわ。


そう言うつもりなのだろう。


だから、言わせる前に口を挟んだ。


「何もしていない、そう言いたいんだろうが」


オリバーが、はっとしてこちらを見る。


「言わせてくれ」


そのまま、逃がさないように言葉を重ねる。


「お前は凄い」


オリバーの瞳が揺れる。

月の光を受けたみたいに、アメジストが静かに震えていた。


こういう時、この人はずるい。

お世辞みたいに軽く言わない。

慰めみたいに曖昧にも言わない。


そんな感情の籠った目は、まだ信じ切れずに揺れている。


「修道院を支えたのも」

「孤児院を回していたのも」

「辺境に仕事を作ったのも」

「うちの使用人どもが、お前を帰ってくる場所みたいに思ってるのも」


ひとつずつ、確かめるみたいに言葉を落していく。


「全部、お前がいたからだ」


オリバーは、反射的に首を振りかけた。

けれど、その動きより早く俺が続ける。


「他の誰かの力もあっただろうさ。お前一人で世界が回るなんて、俺だって思ってない」


そこで一拍置いて、まっすぐに見据えた。


「でも、最初の一歩を踏ませたのはお前だ」


言い切ると、オリバーは唇を噛みしめた。

否定したいのではない。

ただ、受け取るには重すぎるのだ。


自分は、そんなふうに言われるような人間ではない。

そう思い続けてきた時間が長すぎて、今さら『凄い』と言われても、どこへ置けばいいのか分からないのだろう。


そんな沈黙を見て、俺はふっと息を吐いた。


「……それでも、まだ足りないか」


「グルド様」


「なら、もう一つ言う」


その声に、自然と背筋が伸びる。


夜風が吹いて、オリバーの髪をさらった。

月の光の下で、アイスブルーの瞳がまっすぐこちらを射抜いている。


「お前が過去をどう思っていようが関係ない」


その一言に、オリバーの胸が大きく揺れたのが分かった。


「悪女だったと思っていようが、

誰かを傷つけたことを忘れられなかろうが、

自分には辺境伯夫人なんて無理だと思っていようが、

そんなことは、今の俺には関係ない」


一歩だけ近づく。


逃げるほどの距離ではない。

けれど、逃げる気をなくさせるには十分な距離だった。


「今ここにいるお前が、俺の妻だ」


その言葉は、ひどく静かだった。


怒鳴るでもなく、

言い聞かせるでもなく、

ただ当然のことを告げるみたいに落ちてくる。


だからこそ、深く刺さる。


「俺が一緒に生きたいと思ったのは、今のお前だ」


オリバーの喉が、ひどく熱くなる。


今のお前。


昔の公爵令嬢でもない。

修道院で贖罪していた女だけでもない。

王都で噂を背負わされた悪女でもない。


その全部を抱えたまま、それでも今ここに立っている自分。


俺が望んでいるのは、その自分なのだと。

そう、逃げようのない形で突きつけられてしまった。


「だから」


少しだけ困ったように、それでも真っ直ぐに言う。


「もう、自分で自分を追い出すな」


その一言で、オリバーの表情が崩れた。


いや、泣いたわけではない。

叫んだわけでもない。


ただ、今まで必死に整えていたものが、ほんの少しだけ緩んだように見えた。


彼女はしばらく何も言わず、俺を見つめていた。


その紫の瞳が、月明かりの下で揺れている。


たぶん、図星だったのだろう。


誰かに拒まれる前に、自分から線を引く。

居場所になりかけた場所から、先に下がる。

そうやって自分を守ってきた女だ。


けれど、もうそれをさせる気はなかった。


「……ずるい方ですわね」


ようやく出た声は、少し震えていた。


俺は眉を動かす。


「そうか?」


「ええ」


オリバーは小さく笑った。


泣きそうなのに綺麗に笑おうとする癖は、まだ少し残っている。

それでも今の笑みは、逃げるためのものではなかった。


「そう言われたら、もう……辺境へ帰るしかないではありませんか」


その答えに、俺の口元がゆっくり緩んだ。


「最初からそのつもりだ」


「聞いておりませんわ」


「今、言った」


「本当に、強引な野獣様」


「今さらだろ」


そう返すと、オリバーはまた少しだけ笑った。


今度の笑みは、さっきよりもずっと柔らかかった。


辺境は寒い。

厳しい。

不便で、王都みたいな華やかさもない。


それでも、今の彼女はそこへ帰ると言った。


その事実だけで、胸の奥が満たされるようだった。


オリバーはそっと月を見上げる。

王都の空は辺境ほど近くない。

それでも今夜の月は、不思議とやわらかく見えた。


「……帰りましょう、グルド様」


その一言に、俺は静かに頷く。


「ああ。帰ろう」


王都から辺境へ。


花嫁としてではなく、

もう『帰る人』として。


二人でバルコニーをあとにした時、背後ではまだ舞踏会の音が続いていた。

けれどその喧騒はもう、どこか遠い場所のものみたいに思えた。


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