Act.41 母のヴェール
Side オリバー
顔に出ていたのだろう。
ヴェールの形を整えていたターシャが、ふと手を止めた。
そして、ひどく優しい目で姉を見た。
「お姉さま、お気になさらないで」
オリバーは息を呑む。
「……ターシャ」
妹は、少しだけ誇らしげに笑った。
「わたくしは、恐れ多くも王妃様よりヴェールを掛けていただきました」
その一言に、オリバーは目を見開いた。
王妃様が。
驚きと、安堵と、言葉にならない何かが胸に満ちる。
それなら。
それなら、この子はちゃんと祝福されていたのだ。
自分がいなくても、誰かがきちんと送り出してくれたのだ。
その事実に、強張っていたものが少しだけほどけた。
「……そう」
ようやくそれだけを言うと、ターシャは小さく頷く。
「ええ。ですから、お姉さまは今日、何も気にせず、花嫁でいてくださいまし」
その言葉に、喉の奥が詰まる。
オリバーはヴェール越しに妹を見つめた。
この子は本当に強くなったのだ。
昔のように守られるだけの妹ではなく、自分を安心させる言葉を持つ人になった。
「……ええ」
今度の返事は、さっきより少しだけ素直に出た。
ターシャは形を整えるようにそっと肩口へ触れ、それから小さく微笑んだ。
「……きっと、お母様も見ておりますわ」
その時だった。
今まで少し離れた場所で見守っていたルードヴィヒが、静かに一歩近づいてくる。
祖父は何も言わず、オリバーの肩口へ流れるレースへ、そっと手を伸ばした。
指先が、編み目をなぞる。
その仕草はあまりに静かで、けれど、ひどく大切そうだった。
「……やはり、似ているな」
低い声が落ちる。
オリバーはヴェール越しに祖父を見た。
ルードヴィヒは、白いレースから目を離さないまま、ゆっくりと言った。
「この花の立たせ方も、糸の締め方も……妻の作品によく似ている」
祖父の指が、花の模様のひとつに触れる。
「私の妻は、こういう細かい仕事が得意だった。見事なレースを編む人だった」
静かな声だった。
けれどそこには、懐かしさと、痛みと、どうしようもない愛情が滲んでいた。
「……クロエは、母親の顔を知らん」
その一言に、オリバーは息を止めた。
ルードヴィヒはレースを見つめたまま続ける。
「妻は、クロエを産んで二日で逝った」
控え室の空気が、しんと張る。
ターシャが小さく目を伏せるのが、ヴェール越しにも分かった。
「だから、あの子は母から直接教わってはいない」
ルードヴィヒの声は低く、落ち着いていた。
感情を抑えているからこそ、その奥の重さが分かる。
「けれど……妻の遺したレース道具や、編みかけのもの、完成した作品をずっと手元に置いていた」
祖父の指が、白い編み目をそっと撫でる。
「まだ幼い頃から、何度も何度もそれを見ていた。見よう見真似で糸を触り、ほどき、また編んで……そうして、少しずつ覚えていったのだろう」
オリバーは言葉を失った。
母が。
母の姿を知らぬまま。
母の遺したものだけを手がかりにして。
「だから似ているのだ」
ルードヴィヒが静かに言う。
「教わったのではない。追いかけたのだろう。母の残した手仕事を」
その言葉に、オリバーの目の奥が熱くなる。
ずっと感じていた既視感の正体が、また別の輪郭を持って胸へ落ちてきた。
そうだ。
母だったのだ。
最初にボビンレースを教えてくれたのは、たしかに母だった。
けれど、その母自身もまた、もう会うことのできない母を追いかけて、その技を手に入れたのだ。
糸の締め方。
花の立たせ方。
繊細な模様の流れ。
それらは、母から娘へと直接手を取って渡されたものではなく、遺された品と見えない面影を辿るようにして受け継がれてきたのだ。
「クロエは……ヴェールくらいは、自分の手で作ってやりたいと、そう言っていたことがある」
ルードヴィヒはそこでようやく顔を上げた。
「おそらくあの子にとって、それは『母から娘へ』を、自分の手で繋ぐようなものだったのだろう」
その言葉に、涙が今度こそ滲んだ。
ヴェールの向こうの景色がぼやける。
けれど不思議と、苦しいだけではなかった。
母は、自分の花嫁姿を思っていた。
そしてその手には、母自身が知らないはずの『母の記憶』まで重なっていたのだ。
「屋敷に置き去りになった材料を届けたら……あれは作りきって送ってきた」
ルードヴィヒが静かに続ける。
「オリバーを嫁がせるなら、せめてこれだけは贈らせてほしい、と」
「ありがとうございます……」
ようやくそれだけを絞り出すと、ルードヴィヒは短く首を振った。
「礼は、ステファン様に言っておくれ」
「ステファン様?」
何故、と口にしようとしたところで、ルードヴィヒはレースから手を離した。
「このレースは、出来が良すぎた」
言われて見れば、確かにそうだ。
美しい、というだけではない。
下手をすれば最高級品と言わざるを得ない。
いや、ここまでの品質となれば、もはや迷いようがない。
「国で生まれた新しい技や、職人が腕によりをかけた逸品は、まず王家へ献上される。それだけ、この国では王家の威信と結びついているのだ」
ハッと、息を呑んでしまった。
そうか。
だからこそ、このヴェールは王家からの下賜という形になったのだ。
そして、そこでようやく繋がる。
ステファンが国王陛下に掛け合い、このレースを王家から正式に下賜してもらえるよう動いてくれた意味が。
そのうえで、何食わぬ顔でこのヴェールを自分のもとへ届けたのが、エレーナとアレックス王太子だったのだと。
「だからこそ、ステファン様が国王陛下に掛け合ってくださった」
その声音は、いつもの祖父らしい厳しさを残していた。
けれど、それが今はひどく優しく聞こえた。
「ふふっ、ステファン様ったら、国王陛下と謁見なさったその足で、王都の最高級品の生糸を買って、お母様のところまで行ったのですって。もう一枚、最高級品のレースを作ってもらうために」
クスっと笑うターシャは、本当に幸せそうな顔をした。
「クロエは今、二枚目を必死で作っているらしい。出来上がれば、二枚目がエレーナに贈られる」
その言葉に、どこか安堵が満ちていく。
母が嫌った継子に、母がレースを贈る。
それは少し前の自分には、到底考えられないことだった。
けれど今は、不思議とそれが救いのようにも思えた。
ターシャがそっと目元を押さえながら、それでも笑おうとする。
「お姉さま、泣いてはいけませんわ」
「……貴女もでしょう」
「わたくしは妹ですもの」
「意味が分からないわ」
そう返すと、ターシャは少しだけ笑った。
その笑い声のおかげで、張り詰めていた空気がほんの少し和らぐ。
そして、控え室の扉が静かに叩かれた。
「やあ、準備はいいかい?」
ステファンの声だった。
「時間だよ」
オリバーは小さく息を吸う。
ヴェールの重みが、今はもう怖くなかった。
それは母の想いであり、妹の手でかけられたものであり、家族に送り出される証のように思えたからだ。
「……ええ」
そう答えて、オリバーは顔を上げる。
扉の向こうに立つステファンを見て、今度ははっきりと口にした。
「ステファン様。ヴェールの下賜の件、ありがとうございます」
ステファンは一瞬だけ目を瞬かせた。
それから、いつものように肩をすくめる。
「お礼なら、バランドのお爺様に。あの人が『どうにかできないか?』って言わなければ、僕だって考えなかったよ」
「それでも、ありがとうございます」
そう言うと、ステファンは少しだけ笑った。
「どういたしまして」
ルードヴィヒが、一歩前へ出る。
そして何も飾らず、ただまっすぐに手を差し出した。
「行こう、オリバー」
その手を取った瞬間、オリバーはようやく、本当に自分が花嫁なのだと実感した。
控え室の扉が開く。
教会は、王都の大聖堂ではない。
身内だけで式を挙げるための、小ぶりで静かな教会だった。
壁は白く、窓から差し込む光は柔らかい。
磨き上げられた床と、花の香りの混ざる空気が、どこか安らかだった。
白い光の差す先に、ヴァージンロードが伸びている。
その先に、グルドが立っていた。
黒ではなく深い色の礼服。
大きな身体。
傷のある顔。
けれど今日は、そのどれもが不思議なくらい穏やかに見えた。
グルドはオリバーを見た瞬間、わずかに息を止めたようだった。
ほんの一拍、動かない。
それから、ひどく真剣な顔になる。
そその顔を見て、オリバーはほんのわずかに息を緩めた。
ああ、この人も――同じ場所に立っているのだ、と。
祖父にエスコートされ、一歩ずつ進む。
足は不思議と震えなかった。
ヴェールの重み。
首元に触れるアクアマリンの冷たさ。
耳元で揺れるイヤリング。
そして手を引く祖父の体温。
その全部が、今の自分を支えてくれている気がした。
祭壇の前で立ち止まると、ルードヴィヒはオリバーの手をグルドへ託した。
一瞬だけ、グルドの大きな手が自分の指へ触れる。
その温かさに、胸の奥がひどく静かになる。
司祭の声が響く。
誓いの言葉が交わされる。
指輪がはめられる。
簡素で、無駄のない式。
けれど、それで十分だった。
いや、十分以上だった。
すべてが終わり、祝福の言葉が落ちる頃には、オリバーはもう、自分の胸にあるものを否定できなかった。
嬉しいのだ。
こんなふうに祝われていることが。
送り出されていることが。
グルドの隣に立っていることが。
教会を出る前、ほんの少しだけ二人きりの間ができた時、グルドが低い声で言った。
「領地に帰ったら、ちゃんとした結婚式を挙げような」
その声音は前に聞いた時と同じで、まっすぐだった。
オリバーは少し笑う。
「……屋敷の侍女もメイドも、私を着飾れなかったと知ったら拗ねてしまいますものね」
「それだけじゃない」
グルドは即座に返した。
「修道院も、孤児院も、お前の花嫁姿を見たがっている」
その一言に、胸が熱くなった。
視界が少しだけ滲む。
泣くまいと思ったのに、また涙が浮かびそうになる。
グルドはそれ以上何も言わなかった。
ただ、そっと手を握る力を少しだけ強くした。
その力が、ひどくありがたかった。
――本当に、自分はここまで来てしまったのだ。
そう思うのに、もう後ろを向きたい気持ちはなかった。
自分の中が、少しずつ満ちていくような感覚がある。
空っぽだと思っていた場所へ、ひとつずつ、静かに何かが注がれていく。
愛されていた記憶。
送り出される今。
そして、この先の約束。
全部を一度には受け取れなくても、少しずつなら抱えられるかもしれない。
そう思いながら、オリバーはグルドの隣に立つ。
今日は簡素な式。
けれど、それは削られたものではない。
今の自分たちに必要な、過不足のない始まりだった。
そしてその始まりの先には、辺境での次の結婚式がある。
修道院と孤児院と、あの屋敷の侍女やメイドたちが待つ場所で。
そう思うと、不思議と足元がしっかりと地についた気がした。
ヴェールの向こう、教会の扉の先には、やわらかな光が満ちている。
オリバーはその光の中へ、今度は自分の意志で、歩いていくのだと思えた。




