Act.40 妹の手
Side オリバー
結婚式の朝は、ひどく静かに始まった。
王都の屋敷で迎える朝だというのに、不思議なくらい胸は騒がなかった。
もちろん、緊張はしている。
けれど、取り乱すほどではない。
それはたぶん、今日の式が『簡素』だからだけではない。
大勢を招かないこと。
祝宴も最低限であること。
王都の社交界へ向けたお披露目ではなく、まずは身内だけで誓いを交わすこと。
その全部が、今の自分にはありがたかった。
「お姉さま、起きていらっしゃいますわね?」
控えめなノックのあと、ターシャが入ってくる。
その後ろから、侍女やメイドたちも続いた。
「ええ」
「でしたら、今日は逃がしませんわ」
「……いつも通りの台詞ね」
「今日は特別ですもの」
そう言って、ターシャは本当に嬉しそうに笑った。
花嫁ドレスは、白に近い淡い銀色だった。
純白ではない。
けれど、光を受けるたびに静かに明るさを増す、不思議な色だ。
胸元から裾にかけては細やかな刺繍が流れ、華美ではないのに、見る者が見れば一目で上質と分かる作りになっている。
袖はすっきりとしていて、手元の所作が綺麗に見えるように整えられていた。
「辺境へ行っても恥ずかしくないように、でも王都の花嫁としても見劣りしないように、ですわ」
ターシャが得意げに言う。
「簡素な式とはいえ、簡素すぎるのは認めませんもの」
「ええ、分かっているわ」
苦笑しながら答えると、侍女がそっと箱を差し出した。
「こちらを」
中に収められていたのは、アクアマリンのネックレスと、揃いのイヤリングだった。
深すぎず、浅すぎず、海の中へ光を落としたような青。
見た瞬間に、オリバーは思う。
――グルド様の目の色だわ。
「辺境伯様からでございます」
その一言に、頬が少し熱くなった。
ターシャが、すぐさまにやりと笑う。
「野獣様、分かりやすいですわね」
「ターシャ」
「でも、お綺麗ですわ。お姉さまにとてもお似合いになります」
その言葉に、オリバーはそっと宝石へ指を触れた。
ひやりと冷たい。
けれど、その冷たさが不思議と嫌ではない。
グルドが、自分の色を選んだ。
ただそれだけのことが、どうしてこんなにも胸へ残るのだろう。
侍女たちがネックレスを首にかけ、イヤリングを耳へ留めていく。
鏡の中で、その青は確かに自分へ馴染んだ。
「……領地に帰ったら、ちゃんとした結婚式を挙げような」
先日のグルドの声が、ふと耳の奥で蘇る。
その時、自分は少し笑って答えたのだ。
――屋敷の侍女もメイドも、私を着飾れなかったと知ったら拗ねてしまいますものね、と。
けれど彼は、それだけではないと続けた。
――修道院も、孤児院も、お前の花嫁姿を見たがっている。
その一言を思い出すだけで、胸の奥がまた熱くなった。
「お姉さま?」
ターシャの声に我に返る。
「何でもないわ」
「そうは見えませんわ」
「貴女、最近そういう時だけよく見ていますわね」
「妹ですもの」
言い切られて、オリバーは小さく笑った。
それから、ヴェールの箱が運ばれてくる。
箱が開いた瞬間、部屋の空気が変わった。
王家から下賜されたレース。
花嫁のヴェールにと贈られた、あまりにも美しい一点物。
細い糸が幾重にも重なり、光を受けるたびに白く柔らかな陰影を生み出している。
近くで見れば見るほど、編み目の正確さと、模様の美しさに息を呑む。
そしてやはり、そこには既視感があった。
ボビンレース。
自分が修道院で教えたものと、あまりにもよく似ている。
いや、似ているどころではない。
指先が覚えているのだ。
最初にその技法を教えてくれた手の感触まで、遡るように蘇ってくる。
――お母様。
胸が、ひどくざわついた。
「お姉さま」
ターシャが、そっとヴェールを受け取った。
白いレースは、妹の手の中でひどく繊細に揺れていた。
普段なら勢いよく何かを言いそうなターシャが、その時ばかりは妙に静かだった。
「ターシャ?」
呼びかけると、妹は一度だけ唇を引き結んだ。
それから、少しだけ困ったように笑う。
「……本来なら」
その声は、思っていたよりもずっと小さかった。
「本来なら、こういうのは花嫁の母親のお役目なのでしょうけれど」
オリバーは目を瞬く。
ターシャはヴェールを抱くように持ったまま、まっすぐ姉を見た。
「せめて、家族であるわたくしが」
その一言に、オリバーは返事ができなかった。
家族。
あまりにも静かに、あまりにも当然のように言われたその言葉が、胸の奥の柔らかなところへ落ちていく。
かつての自分なら、こんな場面でも素直にはなれなかっただろう。
照れ隠しのように皮肉を返して、
「今さらですわ」と笑って、
せっかく差し出された手を、言葉で遠ざけてしまったに違いない。
けれど今は、そんな言葉が出てこなかった。
ターシャは、震えるほど慎重な手つきでヴェールを持っている。
自分のために。
姉のために。
今日という日を、ちゃんと花嫁の日にするために。
そのことが、どうしようもなく嬉しかった。
「……ありがとう、ターシャ」
ようやく絞り出した声は、少しだけ掠れていた。
ターシャが目を見開く。
それから、今にも泣き出しそうな顔で、それでも一生懸命に笑った。
「お姉さまが、そう仰ってくださるなら……わたくし、それだけで十分ですわ」
十分なものですか、と言い返したかった。
貴女は昔から、私に対して十分以上のものばかり差し出してきたではありませんか、と。
けれど、言葉にしようとした途端、喉の奥が熱くなってしまう。
オリバーは、そっと目を伏せた。
ヴェールの白。
レースの細やかな編み目。
それを持つ妹の指先。
そのすべてが、あまりにも優しくて、
どうしてだか、胸が苦しかった。
「……本来なら」
無意識に、唇が動いた。
「本来なら、こういう時、母がいて……」
そこまで言って、言葉が途切れる。
部屋の空気が、しんと静まった。
侍女も、メイドも、誰一人として音を立てない。
ターシャだけが、まっすぐ姉を見ている。
オリバーは、自分でも驚くほど静かな声で続けた。
「私はずっと、お母様は最後まで母になれなかったのだと思っておりました」
その一言は、自分の中でも長く固まっていた棘みたいだった。
憎まれたこと。
拒まれたこと。
傷つけられたこと。
そのどれも嘘ではない。
だから、母としての温かさなど最初からなかったのだと、
そう思い込むことでしか立っていられなかった時期もあった。
けれど、今。
こうして目の前にあるヴェールに触れようとすると、その思い込みだけでは済まされない何かが、たしかにあった。
「……違ったのですね」
ぽつりと落ちた言葉に、ターシャの瞳が揺れる。
オリバーは、白いレースを見つめたまま、小さく息を吐いた。
「間違えた人ではあったのでしょう。愚かな人でもあったのでしょう。けれど……」
そこで、そっと指先を伸ばす。
触れたレースは、驚くほど繊細で、そして優しかった。
「それでも、この手は……娘のための手でしたのね」
誰に言うでもない、小さな言葉だった。
けれどその瞬間、ターシャが堪えきれなくなったように目元を押さえる。
メイドの一人も、思わず顔を伏せた。
オリバーは泣かなかった。
泣いたら、このヴェールが曇ってしまう気がしたからだ。
その代わり、まっすぐ顔を上げる。
「かけてちょうだい、ターシャ」
その一言に、妹ははっとして顔を上げた。
「はい……!」
震える声で答えて、ターシャが一歩近づく。
そして、どこまでも大切そうに、
壊れものへ触れるみたいに、
白いヴェールを姉へとかけた。
その重みは、思っていたよりもずっと軽かった。
なのに不思議と、
胸の奥には確かな重みとして落ちていく。
母の手が届かなかった場所へ、
今、妹の手が届いたのだと思った。




