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悪女と呼ばれた月下の真珠は、野獣辺境伯の妻になりました  作者: まるちーるだ


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Act.39 今しかない季節

Side オリバー


花嫁支度というものは、思っていた以上に人を疲れさせる。


布を当てられ、外され、また別の布を当てられる。

髪を梳かれ、結い上げられ、ほどかれ、別の飾りを差される。

昼用、夜会用、挨拶用、移動用。

ドレスにも靴にも手袋にも、それぞれ意味があるのだと、王都へ戻ってから毎日のように思い知らされていた。


しかも、ターシャは妊婦とは思えぬ勢いである。


「お姉さま、その色はお顔が少し沈みますわ」

「でしたら、こちらの方がよろしいかしら」

「ええ、ですがレースはもう少し格を上げましょう」

「ターシャ、少し休みなさい」

「お姉さまが座ってくださるなら休みますわ!」


結局、休まない。


そんなやり取りを半日ほど繰り返した頃には、オリバーは少しばかりぐったりしていた。


ようやくひと息つける、と思ったところで、ターシャがきっぱりと言った。


「では次は日取りですわね」


「……日取り?」


「式の日取りです」


当然のように告げられ、オリバーは小さく瞬いた。


それまで、婚姻すること、花嫁支度をすること、それ自体に気を取られすぎていたのだ。

いつ式を挙げるのか、どのような形にするのか。

そこまで頭が回っていなかった。


「そうね……」


ぼんやりと答えかけたところで、扉の外から控えめなノックが響いた。


「失礼。入ってもいいかな」


この、妙に耳当たりの良い声を、オリバーはもう聞き間違えない。


「ステファン様」


扉が開いて、オクレール公爵――ステファンが、いつもの柔らかな笑みを浮かべて入ってくる。

その後ろには、当然のようにグルドもいた。


「グルド様?」


「呼ばれた」


短く答える辺境伯の顔には、あからさまに面倒そうな顔をしている。

だがそれを上回るように、ターシャの目がきらりと光った。


「ちょうどよろしいですわ! 今、式の日取りのお話をしようとしていたところでしたの!」


その言葉に、グルドがわずかに眉を動かす。


「日取り?」


「ええ」


ステファンが、するりと会話を引き取った。


「嫁がせてからまた社交界へ来て挨拶して、なんて二度手間だろう?」


その口調は、あまりにも軽い。

けれどこういう時の彼が、何も考えずに口を開いていないことを、オリバーはもう知っている。


「だったら、今シーズンで一度、簡素な式を挙げる」


ターシャが、ぴくりと反応した。


ステファンは構わず続ける。


「そのあと父上たちに挨拶をして、そのまま辺境へ行く方が気楽だ。王都での顔見せも一度で済むし、義姉上に余計な負担をかけずに済む」


言っていることは、理にかなっていた。


一度、婚姻する。

そのうえで国王夫妻へ挨拶を済ませ、そのまま辺境へ行く。

それならば、「まだ婚姻していない花嫁候補」として何度も人前へ出されることもない。

社交界の品定めに長く晒されることもない。


正直なところ――ありがたい、と思った。


だが、ターシャはそうではなかったらしい。


「お姉さまが、こっちへ来なくなるじゃないですか!」


思いきり本音だった。


オリバーが目を丸くすると、ターシャははっとした顔をした。

けれど、もう言ってしまったものは戻らない。


「……だって」


ぽつりと零れた声は、先ほどまでの勢いよりずっと小さかった。


「辺境へ行ってしまわれたら、今みたいにすぐには会えなくなりますもの」


その言葉に、オリバーは一瞬返事を失った。


そこへステファンが、やれやれと言いたげに肩をすくめる。


「君がもうすぐ臨月じゃなければ、それでもよかったんだけどね」


ターシャがむっと顔を上げる。


「何ですの、その言い方」


「事実だよ」


ステファンは涼しい顔だった。


「次のシーズンは、君がいつ産むか分からない。生まれたあともしばらくは身動きが取りにくい。義姉上の支度に本気で手を貸すなら、今のシーズンしかないんだよ」


その一言で、ターシャは言葉に詰まった。


痛いところを突かれたのだろう。

実際、それはその通りだった。


ターシャが今ここまで動けているのは、まだぎりぎり今だからだ。

この先、腹がさらに大きくなれば、花嫁支度に駆け回ることなど難しくなる。

出産後ならなおさらである。


「それに」


ステファンは穏やかに、だが一切容赦なく言葉を重ねた。


「君が今、義姉上にしてあげたいことを、全部次のシーズンまで引き延ばしたとして、その時に君が同じように動ける保証はない」


ターシャが唇を引き結ぶ。


分かっているのだ。

分かっているからこそ、反論しづらい。


部屋の中に、短い沈黙が落ちた。


その沈黙の中で、オリバーは自分の胸の内へ問いかける。


本当にそれでよいのか。

簡素な式で。

大勢を招かず、華やかな祝宴もなく、ただ必要な挨拶と誓いだけを済ませる婚姻で。


けれど、考えれば考えるほど、それはありがたい形に思えた。


盛大な式は、きっと眩しすぎる。

多くの視線も、祝福も、善意ですら、まだ今の自分には重い。


それに――。


辺境へ行きたい、と。

その思いが胸のどこかに、もう静かに根を下ろしていることも、否定できなかった。


「……簡素な式で、構いません」


気づけば、そう口にしていた。


ターシャがはっとこちらを見る。

グルドの視線も、まっすぐこちらへ向いた。


オリバーは、できるだけ静かな声で続ける。


「むしろ、その方がありがたいですわ」


その言葉に、ターシャの顔が揺れた。

引き止めたい。

けれど、姉の負担も増やしたくない。

そんな顔だった。


オリバーは、そっと妹を見る。


「ターシャ」


「……はい」


「貴女が、今のうちに一緒に整えてくださるなら、それがいちばん嬉しいわ」


その言葉に、ターシャの睫毛が震えた。


たぶん、これが本心だ。

派手な式である必要はない。

ただ、自分を送り出そうとしてくれる人たちの手で整えてもらえれば、それで十分なのだ。


「……お姉さまが、そう仰るなら」


ターシャは小さく息を吐いた。

まだ完全には納得していない顔だったが、それでも頷く。


その横で、ステファンが満足そうに微笑む。


「よし。なら決まりだね」


「勝手に決めるな」


低い声で割って入ったのは、グルドだった。


今まで黙って聞いていた辺境伯は、明らかに不服そうな顔をしている。


「簡素な式でも構わん」


そこで一度、言葉を切る。


「だが、それで終わりにする気はない」


部屋の空気が、少しだけ変わった。


ターシャが目を瞬く。

ステファンは、面白そうに片眉を上げる。


グルドは、相変わらずまっすぐだった。


「王都で必要な挨拶を済ませるために簡素にするのは分かる。だが、領地へ戻ったら改めてやる」


「改めて?」


オリバーが聞き返すと、グルドは当然のように頷いた。


「ああ。ちゃんとした結婚式を挙げる」


その言い方には、少しの躊躇もなかった。


「修道院も、孤児院も、領地の連中も、お前の花嫁姿を見たがるだろうしな」


その一言に、オリバーは言葉を失った。


修道院。

孤児院。

あの人たちが、自分の花嫁姿を見たがる。


そんな発想自体が、今までの自分にはなかった。


見せたい相手ではなく、見たがる相手がいる。

それがひどく、ひどく胸に響く。


「それに」


グルドは少しだけ口元を和らげた。


「うちの屋敷の侍女やメイドどもも、お前を着飾れなかったと知ったら拗ねる」


その言い方が妙に真面目で、オリバーは思わず小さく笑ってしまった。


「……そうでしょうね」


「だろう?」


「ええ。あの方たち、そういうところがありますもの」


辺境伯家の侍女やメイドたちの顔が、自然に浮かぶ。

きゃあきゃあと騒ぎながら、ドレスも髪も宝石も、全部自分に試したがっていた人たちの顔が。


ふと、胸の奥が熱くなった。


「……でしたら」


小さく息を整えて、オリバーは言う。


「こちらでは簡素に済ませて、辺境で改めて、というのも悪くありませんわね」


その言葉に、グルドの表情が少しだけ和らいだ。


本当に少しだけ。

けれど、そのわずかな変化に気づけるくらいには、オリバーは彼を見ていた。


「決まりだね」


ステファンが言う。


「今シーズン中に簡素な式を一度。王都で父上たちに挨拶。そのあと辺境へ。正式な披露を兼ねた式は、ヴィネに戻ってから」


「お姉さまの体調を最優先ですわよ」


ターシャがすぐさま付け加える。


「もちろん」


「あと、ドレスは『簡素』と言っても簡素すぎるのは認めません!」


「ターシャ」


「認めません!」


そこだけは一切譲る気がないらしい。


ステファンが肩を揺らして笑い、グルドはどこか呆れた顔でそのやり取りを見ていた。


オリバーはそんな二人を見つめながら、そっと胸の奥へ手を当てる。


式を挙げる。

自分が、花嫁になる。

それがもう、遠い話でも、曖昧な未来でもなくなっている。


怖くないと言えば嘘になる。

けれど、怖いばかりでもなかった。


少しずつ。

本当に少しずつだが、自分の中へ何かが積もっていく。

祝われること。

求められること。

送り出されること。

それらを受け取るだけの器が、ようやく形になり始めているような気がした。


「では、日取りを詰めましょう」


ステファンがさらりと言う。


「あまり時間はないからね」


「そうですわ!」


とたんに、ターシャの目がまた鋭くなる。


「お姉さま、ドレスも靴もヴェールも、全部急がせませんと!」


「……やはり、休めないのね」


「お姉さまが花嫁になるのですもの!」


それは休ませる気がない言い方ではないだろうか。


オリバーが苦笑すると、グルドが低く言った。


「無理はするなよ」


「……はい」


「本当に分かってるか?」


「分かっておりますわ」


「その顔は怪しい」


「何ですの、それは」


またそんなふうに自然に言葉を交わしていることが、少しだけ可笑しかった。


簡素な式。

けれど、それは削られたものではない。

今の自分たちに必要な形へ整えられたものなのだと、ようやく思えた。


今しかない季節なのだ。

ターシャが姉を送り出せるのも、自分が王都で一歩を踏み出せるのも、きっと今しかない。


そうして、オリバー・オクレールの婚礼は、今の季節のうちに執り行われることとなった。


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