Act.38 残る声
Side オリバー
「必ず」
たった一言だった。
なのに、その言葉は不思議なくらい胸に残った。
グルドはそれ以上、甘い言葉を重ねなかった。
気の利いた慰めも、王都の男たちが口にしそうな洒落た台詞もなかった。
ただ、短く。
当たり前みたいに。
それでいて迷いなく、そう言った。
だからこそ、余計に残るのだろう。
ターシャがようやく泣きやみ、けれどまだ名残惜しそうに姉の袖を握っていると、グルドはそれを急かすこともせず、ただ少し離れた場所で待っていた。
その距離の取り方が、オリバーには妙にありがたかった。
さきほど突然訪ねてきたのは、間違いなくマナー違反だ。
そこは叱られて当然である。
けれど、叱られたあとでむきにならず、ターシャのわがままも遮らず、こちらの空気を読んで一歩引く。
そういうところが、ずるい。
「……野獣様にしては、空気を読まれますのね」
ぽろりと本音が漏れると、グルドがわずかに片眉を上げた。
「褒めているのか、それは」
「さあ、どうかしら」
「相変わらず素直じゃないな」
その返しに、オリバーはほんの少しだけ言葉に詰まった。
最近、そればかり言われている気がする。
そして否定しきれないのが、少し悔しい。
「お姉さまは素直ではありませんわ!」
ターシャがまだ涙の残る声で言う。
「でも、そこがお姉さまですもの!」
「……慰めになっているのかしら、それ」
「なっておりますわ!」
言い切る妹に、オリバーは思わず小さく笑った。
その笑みに気づいたのか、グルドの目元がわずかに和らぐ。
ほんの少しだけ。
だが、オリバーはもう、その変化に気づくくらいには彼を見ていた。
「では」
グルドが静かに言った。
「今日はこれで帰る」
その言葉に、胸の奥がほんのわずかに落ちた。
仕方のないことだ。
ここはオクレール公爵邸で、今は花嫁支度の最中で、しかもターシャは明らかに姉との時間を欲しがっている。
分かっている。
分かっているのに、どうして少し寂しいのだろう。
「急に押しかけたのは悪かった」
グルドはそう言って、まっすぐオリバーを見る。
「次はちゃんと伺いを立てる」
「そうなさいませ」
反射的にそう返したものの、声が思ったより柔らかくなってしまっていた。
それに気づいたのか、グルドが少しだけ笑う。
「……会いたかったんだよ」
その一言に、オリバーの頬がかっと熱くなった。
ターシャが『ほら!』という顔をした。
侍女たちが後ろで息を呑んだ気配まで分かる。
やめてほしい。
そういうことは、せめて二人きりの時に言うべきではないのか。
いや、二人きりでも困るのだが。
「そ、それはもう聞きましたわ」
「なら、伝わったか」
「伝わりすぎて困っております」
「そうか」
どこか満足そうに頷く姿が腹立たしい。
それでもオリバーは、これ以上きつい言葉を返せなかった。
困る。
本当に困る。
けれど、嫌ではないのだ。
「ではな、オリバー嬢」
そう呼ばれて、オリバーはわずかに目を瞬いた。
最近は『オリバー』と呼ばれることもあった。
だからこそ、改めて公の呼び方へ戻されたのが、かえってくすぐったい。
「また来る」
「……ええ」
「今度はちゃんと知らせてから」
「そうしてくださいませ」
そこまで言って、ふと気づく。
また来る。
そう、当然のように言われたのだ。
今日だけではない。
これで終わりではない。
この人は、自分に会うためにまた来るつもりでいる。
その事実が、じんわりと胸へ広がっていく。
グルドは最後にターシャを見た。
「妹君」
「……何ですの、野獣様」
「今の期間は譲る」
ターシャが少しだけ目を丸くする。
「ですが、そのあとは返してもらいます」
真正面からそう言われて、ターシャは一瞬だけ悔しそうな顔をした。
それから、観念したようにふうと息を吐く。
「……その時は、きちんとお迎えにいらっしゃいませ」
「言われなくても」
短く返して、グルドは一礼した。
それから応接間を出ていく。
その背は王都の貴族らしい洗練とは違う。
大きくて、無骨で、どこか場違いなくらい真っ直ぐだった。
けれど、その真っ直ぐさが今はひどく頼もしく思えた。
扉が閉まる。
静かになった部屋で、ターシャがじとりと姉を見る。
「……お姉さま」
「なあに」
「今、すごく寂しそうなお顔をなさいましたわ」
「していません」
「なさいました」
即答だった。
「気のせいよ」
「いいえ」
ターシャは腕を組んだ。
「わたくし、妹ですもの。そのくらい分かりますわ」
その言葉に、オリバーはつい視線を逸らした。
そんな顔をしていただろうか。
自覚はない。
ないはずなのに、当てられると否定しきれない。
「お姉さま」
ターシャが、今度はさっきよりもずっと優しい声で呼ぶ。
「嬉しいのでしょう?」
その問いに、オリバーはすぐには答えられなかった。
嬉しい。
その言葉にしてしまえば簡単だ。
簡単なのに、口にするのはまだ難しい。
嬉しい。
会いに来てくれたことも。
叱っても怒らなかったことも。
ターシャのわがままを受け止めてくれたことも。
そしてあの「必ず」が、少しも軽く聞こえなかったことも。
全部、嬉しい。
「……困っているのよ」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
ターシャは目を細めた。
明らかに、続きを待っている。
「嬉しいのに、それを嬉しいと思ってしまう自分に戸惑っているの」
正直に口にすると、胸の奥が少しだけ軽くなった。
ターシャは黙って聞いていた。
笑わない。
茶化さない。
ただ、きちんと聞いてくれる。
「私はずっと、自分が何かを望むのはよくないことだと思ってきたわ」
オリバーはゆっくりと言葉を継ぐ。
「だから、欲しいと思う前に諦める癖がついてしまったのかもしれない」
言ってしまってから、自分でその言葉に納得した。
そうだ。
たぶん、そうだったのだ。
戻りたいと思う前に、戻れないと決めた。
愛されたいと思う前に、そんな資格はないと決めた。
幸せになりたいと思う前に、それは自分のものではないと諦めた。
その方が、傷つかずに済むから。
けれど今は違う。
違ってしまった。
グルドが、何度もこちらへ手を伸ばしてくるから。
周囲が、当然のように受け取れと言うから。
ターシャが、泣きながら戻ってこいと言ったから。
そして何より、自分が少しずつそれを欲しいと思い始めているから。
「お姉さま」
ターシャがまた、姉の手を取る。
「欲しがってもよろしいのですわ」
その一言に、オリバーは目を伏せた。
欲しがってもいい。
そんな許しを、妹からもらう日が来るとは思わなかった。
「……難しいわね」
「ええ。でも、お姉さまはもう十分難しいことをなさってきたでしょう?」
その返しに、思わず笑ってしまう。
本当に、この妹は強い。
明るくて、素直で、時々どうしようもなく眩しい。
「だから今度は、少しくらい簡単なことをなさってくださいませ」
「簡単なこと?」
「ええ」
ターシャは、悪戯っぽく笑った。
「会いたいなら、会いたいとお思いになればよろしいのです」
その言葉に、オリバーの頬がまた熱くなる。
「そ、そこまでは申していないでしょう」
「顔が申しておりましたわ」
「ターシャ」
「はい」
「少し黙りなさい」
「はいはい」
返事だけは素直だった。
けれど笑っている。
明らかに楽しんでいる。
まったく、この妹は。
それでも、不思議と腹は立たなかった。
グルドが去ったあとの部屋は、少しだけ静かだった。
けれど嫌な静けさではない。
むしろ、彼が残していったものが、まだ空気の中に残っているような気がした。
「必ず」
小さく、口の中でその言葉をなぞる。
必ず。
あの人は、そう言った。
大げさな誓いではなく、ただ当然のことみたいに。
だからこそ、胸の奥へ深く残る。
たぶん自分は、ああいう言葉に弱いのだろう。
綺麗に飾った約束よりも、無骨でまっすぐな一言に。
「お姉さま?」
「いいえ、何でもないわ」
そう答えながら、オリバーはそっと胸元へ手を当てた。
まだ、少し熱い。
困る。
本当に困る。
けれどその熱を、手放したいとは思えなかった。




