Act.37 姉の顔
Side ターシャ
グルドが来た、と聞いた時。
屋敷の中が一瞬でひっくり返った。
「えっ、今!?」
「聞いておりません!」
「オリバー様をお着飾りしなければ!」
「せめて髪だけでも!」
「ドレスは!? あの薄青の昼用が――」
侍女もメイドも、さっきまでの落ち着きが嘘みたいにばたばたと動き出す。
無理もない。
ここはオクレール公爵邸。
しかも、今のお姉さまは正式に花嫁支度の最中だ。
そこへ婚約者となる男が、前触れもなくやって来たのである。
本来なら、こちらから迎える支度を整え、きちんとした装いで応接に出るべきだ。
礼儀を重んじる家ならなおさらである。
「とにかく、お姉さまを――」
そう言いかけた時だった。
「騒がしいわね」
静かな声に、部屋の空気がぴたりと止まった。
振り向けば、そこに立っていたのはお姉さまだった。
着替えていない。
花嫁用の豪奢なドレスでも、応接用の正装でもない。
淡い灰青の、普段着の昼用ドレス。
髪もきちんとは整っているけれど、わざわざ飾り立てた様子はない。
それでも、立っているだけで綺麗だった。
「お、お姉さま!?」
「グルド様がお見えになったのです!」
「ですから、すぐにお支度を――」
メイドたちが口々に訴えるのを、お姉さまは片手で静かに制した。
「構わないわ」
その声音は、妙に落ち着いていた。
「迎えるのは私でしょう?」
そう言って、お姉さまはそのまま応接間へ向かった。
その背を見て、私は思わず慌てて追いかける。
侍女やメイドたちも、ぞろぞろと後ろへ続いた。
応接間へ入ると、グルドが立ち上がった。
辺境からそのまま来たのだろう、王都の貴公子らしい華美さはない。
けれど、その大きな身体と、傷のある顔と、真っ直ぐにこちらを見るアイスブルーの目が、ひどく目を引いた。
やっぱり野獣様だわ、と私は思う。
王都の男たちみたいに綺麗に作られていない。
でもその分、誤魔化しがない。
お姉さまは、そんな彼の前でいつものように一礼した。
「ようこそお越しくださいました、バントス辺境伯様」
グルドは少しだけ困ったように眉を動かした。
「ああ。急に悪かった」
「来るのは構いませんが、お伺いは立てましょう」
ぴしゃり、と。
お姉さまは一切の容赦なく言った。
「本来であれば、私はきちんと着飾って貴方をお迎えするべきなのです。マナーをお忘れになりましたか?」
応接間にいたメイドたちが、一斉に息を呑むのが分かった。
けれどグルドは怒らなかった。
むしろ少しだけ目を細めて、困ったように頭を掻いた。
「……忘れてたわけじゃない」
「では、何ですの」
「会いたくなった」
その一言に、今度は別の意味で空気が止まる。
私は思わず目を瞬いた。
メイドたちの肩が、後ろでぴくっと震えたのが分かる。
きっと悲鳴を飲み込んだのだろう。
対するお姉さまは、一瞬だけ言葉に詰まった。
それから、ほんの少しだけ頬を赤くして、視線を逸らした。
「……だからといって、許されることと許されないことがあります」
「そうだな」
「そうだな、ではありません」
「すまん」
素直に謝るグルド。
そしてそれを、なおも厳しい顔で見つめるお姉さま。
そこで、私はふと気づいた。
――ああ。
お姉さま、今、ちゃんとお姉さまだ。
私に向ける時とも、エレーナに向ける時とも少し違う。
もっと昔、私がまだ幼かった頃。
私が失敗したらぴしゃりと言って、けれど最後にはきちんと手を引いてくれた、あの頃のお姉さまの顔だった。
怒っているのに、どこか安心している。
叱っているのに、相手が離れていかないと分かっている顔。
それは、私には向けてもらえない顔だった。
向けてもらいたかった。
ずっと。
胸の奥に、幼い頃の自分が蘇る。
お姉さまに褒めてほしかった。
叱られてもよかった。
ちゃんと妹として見てほしかった。
でも、私が見ていたお姉さまは、いつもお母様の隣にいて、私はその外側から見上げることしかできなかった。
今、その顔を、野獣様が引き出している。
悔しいわけではない。
でも、ひどく羨ましかった。
気づけば私は、お姉さまへ抱きついていた。
「ターシャ?」
驚いた声が降ってくる。
私はそのまま、お姉さまの腰へ腕を回した。
そして、じっとグルドを見上げる。
「野獣様がお姉さまを大事なのは、分かりましたわ」
グルドが目を瞬く。
「でも」
言った瞬間、自分でも、それが本音だと分かった。
「今の期間は妹に譲りなさい」
応接間が静まり返る。
けれど私は、止まれなかった。
「お姉さまは、貴方のところへ行ったら、もう帰ってこないのですから」
言ってしまった。
我ながら、なんて子どもじみたことを。
でも、胸の奥にずっとあった寂しさが、そのまま零れてしまったのだ。
もうすぐ、お姉さまは嫁ぐ。
辺境へ行く。
今みたいに、ふらりと会える距離ではなくなる。
そう思うと、たまらなかった。
グルドは何も言わなかった。
その代わり、まっすぐにこちらを見ていた。
怒っていない。
呆れてもいない。
ただ、静かに聞いていた。
その時、頭の上にそっと手が置かれた。
「ターシャ」
お姉さまの手だった。
指先が、昔みたいに優しく髪を撫でる。
「貴女が来てほしければ来るわ」
私は息を呑む。
お姉さまは、私を見ていた。
今度は逸らさず、ちゃんと。
「寂しいなら、顔を出すわ」
その声は、少しも飾っていなかった。
気休めでも、慰めでもない。
本当に、そうするつもりなのだと分かる声だった。
その瞬間、胸の奥に張りついていたものが、いきなり崩れた。
涙が出た。
「……っ、お姉さま」
母の真実を聞いた日から、ずっと申し訳なさがあった。
お姉さまは、あの家に閉じ込められていた。
お母様の怒りも、家の歪みも、全部そのまま背負っていた。
私は戻ってきてほしいと願った。
何度も、何度も。
けれどお姉さまは頑なだった。
帰らない、と。
戻れない、と。
自分にはその資格がないみたいに。
私は、あの人を引きずり戻せなかった。
でも、グルドはやった。
あの頑ななお姉さまを、ここまで連れ戻した。
自分ができなかったことを、軽々と――いいえ、きっと軽々ではないのだろうけれど、結果としてやってのけた。
だから私は、涙の向こうでグルドを見た。
「姉を……大切にしてくださいませ」
その言葉に、グルドは少しだけ目を細めた。
そして、笑った。
野獣様らしい、ぶっきらぼうで、けれど妙に安心する笑みだった。
「必ず」
たった一言。
でも、その一言に迷いはなかった。
私は泣きながら、お姉さまへしがみついたまま思う。
ああ。
この人なら、きっと大丈夫なのだろう。
悔しいけれど。
少し寂しいけれど。
それでも、託してもいいと思えたのだった。




