Act.35 穏やかな商談
Side バルク
ロジェ商会が来るとは聞いていた。
聞いてはいたのだが――。
「……なんで、本人が来るんだ?」
思わず漏れた声に、隣のギルバートが静かに視線を上げた。
「バルク様、声をお控えくださいませ」
「いや、だっておかしいだろう!?」
屋敷の玄関前。
磨き上げた石段の下に止まった馬車を見ながら、私は本気で頭を抱えたくなっていた。
まず一台目。
ロジェ商会の紋章を掲げた馬車。
ここまでは分かる。
分かるのだ。
花嫁の宝飾品を整えるために、王都でも名の知れた商会が来るというのは不自然ではない。
だが、扉が開いて降りてきたのが、ロジェ商会会長その人となると話が違う。
ヴィルヘルム・ロジェ子爵。
商人としても貴族としても抜け目のない男で、笑顔のまま会話の主導権を奪うことで有名な、国内最大の商会の長だ。
そして問題は、そこでは終わらなかった。
二台目の馬車から降りてきた人物を見た瞬間、私は本気で固まった。
「……は?」
銀を散らした髪。
彫りの深い端正な顔。
年を重ねてもなお崩れぬ威厳。
冷ややかに見えるほど整ったその姿には、今もなお“氷の公爵”の名残がある。
ルードヴィヒ・バランド前公爵。
国内最大の領地と財を持つ公爵家の前当主。
今は爵位を譲っているとはいえ、存在感だけなら現役と大差ない。
というか、普通に怖い。
「ギルバート」
「はい」
「私は何か聞き逃していたか?」
「いいえ。ロジェ商会が来るとは伺っておりましたが、バランド前公爵閣下がご同席とは、私も今、初めて存じました」
「だよな!?」
思わず声が上ずった。
なんで。
なんでわざわざ本人たちが来る。
しかも片や国内最大の商会の会長、片や国内最大級の公爵家の前当主。
うちは辺境伯家だぞ。
いや、辺境伯家だから軽んじられていないのは分かる。分かるが、それにしたって顔ぶれが重すぎる。
その時点で、今日の『商談』がただの商談ではないことは察した。
「バントス辺境伯家、バルク・バントスにございます。本日はようこそお越しくださいました」
どうにか顔を作って頭を下げると、ロジェ子爵が人好きのする笑みを浮かべた。
「急な来訪を許していただいて感謝しますよ、バルク殿」
その隣で、バランド前公爵も静かに頷く。
「こちらこそ、突然で悪かった」
穏やかだ。
穏やかなのだが、どちらも穏やかすぎて逆に怖い。
そのまま応接間へ通し、茶が出され、表面上は何事もない商談が始まった。
表面上は、だ。
卓の上にはいくつもの箱が並べられている。
開かれた中には、青、銀、白、透明――様々な色の宝石が静かに光っていた。
その向こうに座るグルドは、いつになく黙っていた。
礼装ではない。
だが領主として客を迎えるに足る、簡素で隙のない服装。
鍛え抜かれた肩と腕は布越しでも分かる。
頬の傷も隠さず、背もたれに寄りかかりもしない。
なるほど、と私は思った。
たしかにこれは、王都の連中から見れば“辺境の野獣”だ。
大きい。
強い。
怖い。
そして今のグルドは、余計な愛想まで削ぎ落としているせいで、なおさら獣じみて見えた。
ロジェ子爵が、最初の箱をこちらへ向ける。
「お求めがアイスブルーと聞きましたが、こんな感じのアクアマリンでいかがですかな?」
柔らかな声。
商談としては、何もおかしくない切り出し方だ。
だが、空気がぴりついた。
ロジェ子爵は笑っている。
バランド前公爵も、静かに座っているだけだ。
なのに応接間の空気は、魔獣の縄張りへ足を踏み入れた時みたいに張りつめていた。
これは宝石の話ではない。
値踏みだ。
グルドがどういうつもりでオリバー嬢を妻に迎えようとしているのか、それを見ている。
そう気づいて、私は余計な口を挟まぬよう黙った。
グルドは卓上のアクアマリンへ視線を落とした。
それから、まっすぐロジェ子爵を見返す。
「悪くない」
「ほう」
ロジェ子爵の口元が、ほんの少し深くなる。
「花嫁の瞳の色ではありませんな」
その言葉に、私は内心で呻いた。
攻める。
ひどく穏やかな顔で、一番面倒なところを突いてくる。
一見ただの会話だが、実際には逃げ道を潰しに来ている。
『なぜその色を選ぶ』
『誰のためだ』
『どういう意味で贈るつもりだ』
全部そこに乗っていた。
少なくとも、叔父の私の目には、グルドは少しも怯んで見えなかった。
「俺の目の色だ」
応接間がしんと静まる。
ロジェ子爵が面白そうに片眉を上げた。
「辺境伯様ご自身の?」
「ああ」
そこで、グルドは当然のことのように言った。
「俺の色をまとわせるのが悪いのか?」
私は危うく咳き込みそうになった。
真正面から行くのか、お前は。
だが、言われた側の二人は笑わなかった。
ロジェ子爵はじっとグルドを見つめたまま、やがてゆるく口元を和らげる。
「……いえ。悪くはありませんな」
だが、その隣のバランド前公爵は容赦がなかった。
「では聞こう、辺境伯」
低く、よく通る声だった。
「オリバーは悪女と呼ばれているが?」
空気が、さらに冷える。
私は息を止めた。
いきなりそこを刺すか。
しかも一切の遠慮なく。
グルドは眉一つ動かさなかった。
「知っている」
「毒婦とも、傲慢とも言われている」
「ああ」
「母親は狂い、その悪名を姉娘も背負った。父親は隠し子を作り、家は歪んだ。そういう女だぞ」
それは、わざとだ。
人が一番言われたくないことを、あえて綺麗に並べ直して叩きつけている。
本気で見極める気なのだろう。
バランド前公爵はさらに続けた。
「攫われたあとでもある」
さすがに私も顔をしかめた。
おい、それは――と口を開きかけた瞬間、ギルバートが無言でこちらを見た。
口を挟むな、という目だった。
その通りだろう。
ここで私が庇えば、安い庇い方になる。
グルドは、なおも黙って前公爵を見ていた。
「それでも、お前は欲しいと言うのか」
長い沈黙のあと、グルドが口を開いた。
「悪女と呼ばれていたのは知ってる」
低い声だった。
だが、一言ずつはっきりしている。
「毒婦だ、傲慢だとも聞いた」
「ああ」
「だが、俺が見たのは違う」
そこで、グルドの声音がわずかに硬くなった。
「修道院で働いて、技術を教えて、子どもらに慕われて、母親の暴走を一人で受けてた女だ」
ロジェ子爵も、バランド前公爵も何も言わない。
グルドはその沈黙を押し切るように続けた。
「悪女だろうが何だろうが、俺は俺が見た方を信じる」
その返答に、ロジェ子爵がわずかに笑みを消した。
「なるほど」
「それと」
グルドの目が、ほんの少し細くなる。
「あの人を『攫われたあとでもある』なんて言い方をするな」
応接間の空気が、ぴんと張った。
「責められる筋合いは、あの人には一つもない」
その声音には、獣じみた低さがあった。
怒鳴ってはいない。
むしろ静かだ。
だが、本気で牙を見せる直前の獣みたいな声だった。
ああ、と思う。
これだ。
これが王都で言う“野獣”なのだろう。
人前用の綺麗な怒りではない。
噛み砕けるものなら噛み砕く、そういう怒りだ。
ロジェ子爵がそこで、わずかに息を漏らした。
笑った、というより、感心した顔だった。
「怖いなあ」
「怖くて結構だ」
グルドは即座に返す。
「俺はあの人を、ああいう目に遭わせたことを“後でもある”で片づけるつもりはない」
「では何だ?」
バランド前公爵が問う。
「傷か?」
「違う」
「汚れか?」
「違う」
「腫れ物か?」
「違う」
そこで、グルドは一息置いた。
「俺が守り損ねた相手だ」
その一言に、今度こそ応接間が静まり返った。
私は何も言えなかった。
ロジェ子爵がじっとグルドを見つめる。
バランド前公爵の目元も、わずかに動いた。
グルドは、そこから視線を逸らさず続ける。
「次は取りこぼさない」
低く、静かな断言だった。
「だから妻にする」
ロジェ子爵が、そこでふっと息を吐いた。
「なるほど」
それから、穏やかな声音で言う。
「オリバーはね、親友の孫だ。相手を見極めたいと思うのが爺心だろう?」
その言い方に、私はほんの少しだけ肩の力を抜きかけた。
だが、まだ終わっていない。
バランド前公爵は、なおもグルドを見ていた。
氷の公爵。
なるほど、昔そう呼ばれたのも分かる。
あの人は黙って相手を見るだけで、こちらの腹まで凍らせてくる。
「一つ聞く」
「何でしょう」
「もしオリバーが、また『家のため』だの、『自分はこれでいい』だのと言い出したら?」
「止める」
「聞かなければ?」
「聞かせる」
「力ずくでか」
「必要なら」
そこでロジェ子爵が吹き出した。
「ははっ、辺境の野獣らしい!」
「笑い事か」
バランド前公爵が冷ややかに言う。
「いやいや、ルード。ここで綺麗事を言われるより、ずっと信用できるよ」
ロジェ子爵は笑いを含んだまま続けた。
「『君の幸せを尊重する』だの何だの言って、結局一人で抱え込ませる男よりはましだ」
……私には、過去に向けた皮肉にも聞こえた。
バランド前公爵は返さない。
だが、その視線はわずかに鋭さを失っていた。
そして、なおも問いを重ねる。
「王都で悪意を向けられても、お前はあの子を庇いきれるか」
「庇う」
「どうやって」
「隣に立つ」
あまりにも即答だった。
「俺が辺境伯だ。あの人に向ける言葉は、そのまま俺に向ける言葉になる」
静かに、だが一切ぶれずに続ける。
「それでも言う奴がいるなら、二度と言えないと思わせる」
その言い方に、ロジェ子爵がまた楽しそうに笑った。
「やっぱり野獣だ」
「文句あるか」
「いや、今は褒めている」
そこで、初めてバランド前公爵がわずかに口元を緩めた。
笑った、と言うほどではない。
だが、氷に細いひびが入ったみたいに、表情が和らいだ。
「少なくとも」
その声音は、先ほどまでより少しだけ低かった。
「お前が、オリバーを駒として見ていないことは分かった」
そこで初めて、バランド前公爵は卓上のアクアマリンへ視線を落とした。
「……この石では足りん」
グルドの眉がわずかに動く。
「何?」
「バランド領で今年採れた中に、もっと澄んだものがある。花嫁に纏わせるなら、そちらを出す」
ロジェ子爵が、にやりと笑った。
「おや、ルード。ずいぶん気前がいい」
「認めたわけではない」
バランド前公爵は冷ややかに返した。
「ただ、孫娘に半端な石を纏わせる気はないだけだ」
それは、ひとまずの合格と言っていいのだろう。
だが次の瞬間、バランド前公爵はぴしゃりと続けた。
「だからといって、まだ認めたわけではない」
「だろうな」
グルドも平然と返す。
「見極めると仰っていたでしょう」
「その通りだ」
その受け答えに、私は内心で少しだけ感心した。
礼儀作法だの社交だのでは散々叩き直された甥だが、こういう真正面のやり取りになると強い。
ロジェ子爵が、卓上のアクアマリンを指先で示した。
「では、こちらは押さえておきましょう。辺境伯様の色を、花嫁に纏わせるのでしたな」
「頼む」
グルドはそう答えたが、その顔には少しも照れがなかった。
いや、内心は知らない。
知らないが、少なくとも今ここで妙な照れを見せないのは偉い。
たぶん後で私のいないところで真っ赤になる。
「いやあ」
ロジェ子爵が満足そうに笑う。
「今日は来た甲斐があった」
「私はまだ半分だ」
バランド前公爵が冷静に言う。
「宝石の話は表向きにすぎん。本題は、あの子が本当にこの婚姻を望んでいるかどうかだ」
「手厳しいな」
「当然だ」
低く返しながらも、その声音には先ほどまでの鋭さが少しだけ薄れていた。
少なくとも、門前払いにするつもりはなくなったのだろう。
それだけで十分だ。
私は卓上の宝石を見ながら、ようやく小さく息を吐いた。
穏やかな商談などではなかった。
最初から最後まで、甥の腹と覚悟を値踏みする場だった。
だが、悪くない結果だったと思う。
「……バルク殿」
不意にロジェ子爵がこちらを見た。
「はい?」
「よい甥御さんだ」
その一言に、思わず間の抜けた返事になる。
「は……はあ」
「叔父としては胃が痛いだろうが」
「ええ、そりゃもう」
正直に答えると、ロジェ子爵が声を立てて笑った。
バランド前公爵も、今度は露骨に肩を揺らした。
ああ、この人、笑えるのか。
その光景を見て、少しだけ肩の力が抜ける。
国の重鎮二人がわざわざ辺境まで来た意味は、よく分かった。
ただの宝石選びではない。
孫娘の未来を託せる男かどうか、その見極めだ。
そして、今日のところは。
少なくとも叔父の私の目には、グルドは逃げなかった。
それだけで、たぶん大きな一歩だったのだろう。




