Act.33 祖父たちの懺悔
Side オリバー
王家から下賜されたというレースを、オリバーは何度も見返していた。
白く、繊細で、美しい。
ヴェールに仕立てられれば、花嫁の顔をやわらかく包み込むだろう。
見れば見るほど見事な仕事だった。
けれど同時に、落ち着かなかった。
見覚えがある。
いや、ただ見覚えがあるというだけではない。
もっと手に馴染むような感覚。
自分の指先が知っているような、そんな既視感だった。
オリバーはそっとレースへ触れる。
柔らかい。
だが、ただ柔らかいだけではない。
糸の撚り、編み目の流れ、模様の抜け方。
花の輪郭を浮かび上がらせるための隙間の取り方まで、どこか見覚えがあった。
「……まさか」
思わず、小さく呟く。
これは、自分が教えた編み方に似ている。
修道院で、レース仕事を教えた時。
中でも、特に手先の器用な数人にだけ教えたものがあった。
時間も根気もいる分、仕上がれば高級品として売れる、あのレース。
ボビンレース。
何本もの糸を小さな糸巻きへ掛け、交差させ、撚り合わせて模様を作る技法。
普通の針編みよりずっと複雑で、覚えるのに時間がかかる。
だからこそ、修道院では教える相手を選んだ。
その編み目に、似ている。
完全に同じではない。
けれど、元になった理屈や手の運びが、あまりにも近い。
オリバーがレースを見つめたまま考え込んでいると、扉の外からノックが響いた。
「オリバー様」
ローランドの、落ち着いた声だった。
「ターシャ様がお呼びでございます。応接間へお越しいただきたいと」
応接間。
オリバーはわずかに目を瞬いた。
だが深く考える間もなく、「ええ」と返事をして立ち上がった。
王都へ戻ってからというもの、息をつく暇もない。
採寸、仕立て、宝石、髪飾り、靴、手袋。
ターシャの采配は恐ろしいほど淀みがなく、ぼんやりしていればそのまま次の段取りへ流される。
今回も、その一つだろうと思った。
そうして、あまり警戒もせずに応接間の扉を開けた瞬間。
オリバーは、息を呑んだ。
そこにいたのは、ターシャだけではなかった。
一人は、祖父。
ルードヴィヒ・バランド前公爵。
年を重ねた今なお、背筋は一分の隙もなく伸びている。
銀を散らした髪と、彫りの深い端正な顔立ちには、かつて“氷の公爵”と呼ばれた美貌の名残がはっきりと残っていた。
冷ややかに見えるほど整ったその姿は、老いというより、むしろ円熟と呼ぶべきものだった。
そして、もう一人。
ヴィルヘルム・ロジェ子爵。
ロジェ商会を率いる会長にして、王都でも名の知れた社交家。
柔らかな笑みを浮かべて立つ姿には、商人らしい愛想の良さと、貴族として磨かれた洒脱さが同居している。
若い頃はさぞ多くの女性の視線を攫ったのだろうと、今でも容易に想像できる華やかさがあった。
その二人が、こちらを見て立ち上がる。
それだけでも十分に場の空気は張りつめた。
なのに次の瞬間、二人はまるで示し合わせたように、揃って深く頭を下げた。
「……っ」
オリバーは本気で言葉を失った。
この二人は、弱って膝を折るような人たちではない。
今なお人の上に立つ威厳を持ったまま、ただ自分の意志で頭を下げている。
だからこそ、その光景はひどく重かった。
「お、おやめください!」
思わず声が上ずる。
「頭を上げてくださいませ!? 何をなさっているのですか!」
だが二人は、すぐには顔を上げなかった。
応接間に、重い沈黙が落ちる。
やがて先に口を開いたのは、バランド前公爵だった。
「……全て、我々が悪かった」
その声音は低く、静かだった。
責任から逃げる気配は、どこにもない。
オリバーはただ立ち尽くすしかない。
祖父はゆっくりと顔を上げる。
その眼差しには、威厳を失わぬまま、それでも隠しきれぬ苦味が差していた。
「お前たちの両親のことだ」
静かな声だった。
「クロエには、本当は好きな男がいた」
その言葉に、オリバーは小さく息を呑んだ。
知っていたような、知らなかったような話だ。
母が時折、遠くを見るような目をしていたことはあった。
けれど、それを口に出して聞いたことは一度もなかった。
「そして、お前たちの父にも、想う女がいた」
今度は、ロジェ子爵が言葉を継いだ。
「……私の娘だ」
はっきりと言い切られ、胸の奥が冷える。
父の想い人。
ロジェ子爵の娘。
それはつまり――。
「エレーナの、母君……」
「そうだ」
ロジェ子爵は苦く頷いた。
誰も、嘘はついていない。
だからこそ、余計に苦しかった。
バランド前公爵が言う。
「本来なら、情勢が落ち着いた時点で離縁させるつもりだった。クロエは好いた男のもとへ戻し、オクレール公爵もまた、想う相手と再婚させる。そのつもりで婚姻を結ばせた」
オリバーは目を見開く。
そんなこと、一度も知らなかった。
政略結婚。
それはただ、家のために結ばれるものだと思っていた。
耐え、受け入れ、役目を果たすものだと。
けれど祖父たちは、その先に別の道を用意するつもりだったのだ。
「だが、情勢は安定しなかった」
祖父が言う。
「家同士の結びつきは必要なままで、婚姻は続いた」
「そして、お前とターシャが生まれた」
ロジェ子爵の声が低く落ちる。
「それでもなお、君たちの父親は我が娘を諦めきれなかった」
そこで、言葉が止まった。
その先は、言わずとも分かる。
父は、ロジェ子爵の娘との関係を断たなかった。
契りを結び、そして、エレーナが生まれた。
それが、何を意味したのか。
あまりにもはっきりしすぎていて、オリバーは何も言えなかった。
「全て、我々が悪い」
もう一度、バランド前公爵が言う。
「家のためなどと言いながら、結局は全員を不幸にした。クロエも、オクレール公爵も、お前たちも、エレーナも」
「……っ」
胸が、痛かった。
けれど同時に、オリバーの中には奇妙な静けさもあった。
違う、と。
そう思ったのだ。
全部が祖父たちのせいではない。
たしかに始まりは政略だったのかもしれない。
だが、父も母も、その時にはもう大人だった。
政略と割り切ることもできたはずだ。
少なくとも、子を成したあとならなおさらだ。
なのに、父は裏切った。
母は、その裏切りに焼き切れた。
そこまで考えたところで、胸の奥へ、ひどく冷たい理解が落ちてきた。
だから、母はエレーナを認めなかったのだ。
ただ憎かったのではない。
ただ残酷だったのでもない。
自分だけが、好きな人を諦めて。
自分だけが、政略と割り切ろうとして。
それなのに父は、その約束を裏切った。
その裏切りが、母の理性を焼き切ったのだ。
オリバーは唇を噛む。
――私は、止めるべきだった。
その思いが、急に胸の底からせり上がった。
母は正しいと思っていた。
少なくとも、幼い頃はそう思っていた。
母に従い、エレーナを遠ざけるのが当然なのだと信じていた。
だが、デビュタントを過ぎれば分かったはずだった。
社交界を見て、婚姻を見て、貴族の家同士の思惑を知って。
あれが『母が傷ついた結果』なのだと、気づけたはずだった。
なのに何故、自分は。
何故、あそこで止めなかったのだろう。
「オリバー?」
祖父が、恐る恐るといった声で呼ぶ。
そこで初めて、自分がずいぶん長く黙っていたのだと気づいた。
オリバーはゆっくりと顔を上げた。
目の前には、二人の祖父。
どちらも、自分よりはるかに立場も力もあったはずの男たち。
その二人が、今は苦い痛みを堪えた顔でこちらを見ている。
責めてほしいのかもしれない。
怒られても仕方ないと思っているのかもしれない。
けれど、オリバーの口から出たのは別の言葉だった。
「……いいえ」
静かに首を振る。
「真実を教えてくださって、ありがとうございます」
その言葉に、二人の祖父はそろって複雑そうな顔をした。
許されたわけではない。
救われたわけでもない。
ただ、長年伏せられていたものが、ようやく形を持っただけだ。
それでも。
何も知らないままよりは、ずっとよかった。
オリバーは膝の上で、そっと指を握りしめる。
自分の罪は消えない。
母の苦しみも、父の裏切りも、エレーナの傷も、なかったことにはならない。
けれど少なくとも、今の自分はもう、何も知らない子どもではなかった。
その事実だけが、ひどく重く、けれど確かなものとして胸に残っていた。




