Act.32 王家からの白
Side オリバー
王都へ戻ってからというもの、時間は妙に慌ただしく流れていった。
屋敷へ着いたその日から、ターシャは一切の遠慮なく姉を振り回した。
休ませる気がないわけではない。
ないのだが、花嫁支度という大義名分を得た妹は、妊婦とは思えぬ勢いで動き回る。
「お姉さまにその生地は却下ですわ。顔色が沈みます」
「でしたらこちらは?」
「悪くありませんけれど、レースが弱いですわね」
「ターシャ、少し休みなさい」
「お姉さまが休んでくださるなら、わたくしも休みますわ!」
結局、休まない。
そうして半日ほど布と色と装飾に囲まれていた頃には、オリバーはさすがに少し疲れていた。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
誰かに何かを整えてもらうこと。
自分のために、似合うものを選ばれること。
それは昔の自分なら、居心地の悪さばかり覚えたはずなのに、今は少しだけ違っていた。
「お姉さま?」
ターシャが顔を覗き込む。
「大丈夫ですの?」
「ええ。ただ、少し……慣れないだけ」
「でしたら、今日はこのあたりで――」
そう言いかけた時だった。
廊下の向こうで、急に足音が増えた。
それも一人や二人ではない。
侍従の落ち着いた靴音に、慌てたメイドの足取りが混じる。
オリバーとターシャが同時に顔を上げた、その直後。
こんこん、と扉が叩かれる。
「ターシャ様、オリバー様」
ローランドの声だった。
「王家の馬車が到着いたしました」
部屋の空気が、一瞬で変わる。
「……王家?」
オリバーは思わず小さく声を漏らした。
ターシャが目を瞬き、それから一気に眉を上げる。
「まさか」
その『まさか』が何を指すのか、オリバーにも分かった。
いや、分かりたくないのに分かってしまった。
次の瞬間には、廊下の向こうから、少し上ずった明るい声が響いていた。
「オリバーお姉さまはご無事なの!?」
オリバーはひゅっと息を呑む。
エレーナ。
母違いの妹。
王太子妃となった少女。
かつて、自分が遠ざけ、傷つける側に回っていた相手。
まともに言葉を交わした記憶など、数えるほどしかない。
同じ屋敷にいても、いつも距離があった。
それなのに、耳に飛び込んできたその声には、ひどく切実な響きがあった。
止める間もなく、扉が勢いよく開いた。
「オリバーお姉さま!」
淡い色のドレスを翻しながら、エレーナが駆け込んでくる。
そして躊躇なく、そのままオリバーへ抱きついた。
「ご無事でしたか、オリバーお姉さま! 連れ去られたと聞きましたの! 帰られたとは聞いておりましたけれど、こうしてお顔を見るまで心配で……!」
腕の中の温かさに、オリバーの身体が一瞬固まる。
あまりに自然だった。
あまりに何のためらいもなかった。
眩しすぎて、目を逸らしたくなるほどに。
けれど次の瞬間、淑女としての感覚が勝った。
「ま、まさか勝手に王宮から出たのではないでしょうね!?」
反射的に声が上ずる。
「はい!」
「はいではないわ!?」
即答されて、余計に声が大きくなる。
「貴女の行動が近衛の方々の迷惑になるのですよ!? 下手をすれば、その方々は職を失います! 早くお帰りなさい!」
そこへ、低い声が落ちた。
「心配するな。父上と母上には了承を得ている」
部屋の入口に立っていたのは、王太子アレックス・オーウェンだった。
整えられた黒髪。
冷えたシルバーグレーの目。
感情を表へ出さぬ顔。
エレーナの隣に立つと、その静けさがなおさら際立つ男だ。
オリバーははっとして、慌ててエレーナを引き離した。
そして深くカーテシーを取る。
「王国の太陽に、」
「公式な来訪ではない」
遮るように言われ、オリバーはすぐに姿勢を戻す。
その声に怒気はない。
だが温度もなかった。
エレーナに向ける柔らかさとは明らかに違う、削ぎ落とされた声音。
許していないのだと、それだけで分かる。
「久しいな、オリバー嬢」
「……お久しぶりでございます、殿下」
返しながら、オリバーは自分の指先がわずかに冷えていくのを感じていた。
この人は、優しくしない。
当然だ。
愛しい妻を傷つけるのに手を貸した相手なのだから。
その距離の冷たさに、むしろ奇妙な安堵すらあった。
そこへ、アレックスが後ろに控えていた侍従へ手を上げた。
その指示に従って進み出た侍従が、両手に捧げ持っていた箱を卓の上へ置く。
静かに蓋が開かれた。
中にあったのは、白く繊細なレースだった。
ただの布ではない。
糸が幾重にも組まれ、花びらのような模様が立ち上がっている。
光を受けるたびに、やわらかな陰影が揺れた。
「……レース?」
思わず、そう漏らす。
アレックスは小さく頷いた。
「王家からの下賜品だ」
短い言葉だった。
それ以上は語らない声音に、オリバーはかえって息を呑む。
王家からの下賜。
それが何を意味するか、分からぬほど子どもではない。
花嫁の装いに用いられる品を、王家がわざわざ下賜する。
それはつまり――。
「父上が婚姻の許可書類に署名した」
アレックスは淡々と続ける。
「その上で、これをお前のヴェールとして下される」
オリバーは目を見開いた。
――自分の、ヴェール。
アレックスの金の目が、まっすぐこちらを射抜く。
冷たい視線だった。
認めたというより、見定めている目だった。
「バントス辺境伯家の婚姻を、王家が後押しする」
それだけ言って、彼は黙った。
余計な祝福はない。
甘い言葉もない。
けれど、その簡潔さの方が、かえって逃げ場がなかった。
「……ありがたき幸せにございます」
反射的に、そう答える。
声が少し震えたのを、自分で悟った。
エレーナが、そこでようやく待ちきれないように一歩前へ出る。
「オリバーお姉さま、とても綺麗でしょう!?」
ぱっと咲くような笑顔だった。
けれど隣に立つアレックスがわずかに視線を向けると、エレーナははっとして言葉を飲み込む。
「エレーナ」
「……はい」
やんわりとたしなめられたのだと分かったのだろう。
それでも彼女は、どうしても黙っていられないという顔で、そっとレースを見つめた。
「バランドのお祖父様が、王家へ献上なさったものですの」
その一言に、オリバーの指先がわずかに動く。
バランド前公爵。
祖父が。
そこまで考えたところで、アレックスが静かに言った。
「それ以上は後で聞け」
その声音は低く、感情を削いだものだった。
優しさではない。
今ここで余計なことを言わせるつもりがないだけだ。
オリバーはその冷たさに、かえって背筋を伸ばした。
そうだ。
この人は、エレーナの夫であり、王太子であり――そして、かつてエレーナを傷つける側に立っていた自分を、簡単に許せる人ではない。
その当然の事実が、胸の奥へ落ちる。
「ただ」
アレックスが、ごく短く続けた。
「王家は、お前が花嫁として立つことを認めた」
それだけだった。
それだけなのに、逃げ場のない言葉だった。
オリバーは、箱の中の白いレースを見つめる。
見覚えがある。
——いや。
見覚えではない。
指が、覚えている。
編み目の立ち方。
花の散らし方。
糸の締め方。
けれど、今ここでそれを口にすることはできなかった。
「……ありがたき幸せにございます」
もう一度、今度は少しだけ深く頭を下げる。
その答えに、アレックスは小さく頷いただけだった。
横で、エレーナがそっと姉の手を取る。
「オリバーお姉さま」
顔を上げると、妹は嬉しそうで、それでいて少し泣きそうな顔をしていた。
その顔に、オリバーは胸の奥がちくりと痛んだ。
昔、使い心地のよい下着や寝間着を、陰で回したことがある。
もちろん、表向きは違う形を取った。
――この下着は着心地が気に入らないわ。あの子に押し付けておきなさい。
そんなふうに言って、侍女へ渡した。
あれは気まぐれでも、施しでもない。
ただ、見て見ぬふりをしきれなかっただけだ。
あの子に向けられていた悪意のすべてを止めることはできなかった。
むしろ、自分もその中にいた。
だからせめて、目の届くところだけでも少しまともなものを、と。
そんな小さな罪悪感が、ずっと心の片隅にあったのかもしれない。
「きっと、お似合いになりますわ」
エレーナの言葉は、何の疑いもなく、まっすぐだった。
オリバーはしばらく返事ができなかった。
けれどやがて、小さく頷く。
「……そうだと、よいわね」
その返答に、エレーナの顔がぱっと明るくなる。
だがその隣で、アレックスの金の目はまだ静かだった。
祝福はしている。
けれど、許したわけではない。
そういう距離のまま、彼はこのヴェールを持ってきたのだ。
その重さを、オリバーは痛いほど感じていた。
「……王太子殿下」
不意に、ターシャが一歩前へ出た。
「このような大切な品を、ありがとうございます」
アレックスはターシャへ視線を向ける。
その瞬間だけ、ほんの少しだけ空気が和らいだ。
「礼は不要だ」
そう言ってから、エレーナをちらりと見る。
「必要なものを持ってきただけだ」
エレーナが少しだけ頬を膨らませた。
「アレックス様は、いつもそうやって仰るのです」
「余計なことを言うな」
「でも本当ではありませんか」
夫婦のそのやり取りは、あまりに自然だった。
やわらかくて、穏やかで、互いを知り尽くしている者たちの呼吸だった。
その光景を見た瞬間、オリバーの胸の奥に、言葉にしづらいものが落ちる。
羨ましいのではない。
痛いのでもない。
——ただ。
自分が壊してしまったかもしれないものだと、そう思った。
だからこそ、アレックスは自分に冷たい。
それでいい。
そうでなければならないのだろう。
「エレーナ」
アレックスが静かに呼ぶ。
「そろそろ戻るぞ」
「ええー……」
「近衛が本当に困る」
それを言われると、さすがのエレーナも引き下がるしかないらしい。
「……分かりましたわ」
けれど彼女はすぐにオリバーへ向き直る。
「オリバーお姉さま」
「……何?」
「絶対に、そのヴェールはお似合いになります」
そう言い切る声は、眩しいほど真っ直ぐだった。
オリバーは思わず小さく笑う。
「……ありがとう、エレーナ」
その一言に、妹の目が大きく開かれる。
それから、花が咲いたように笑った。
「はい!」
その笑顔を、アレックスは横目で一瞬だけ見ていた。
そして何も言わず、ただ一歩前へ出る。
「失礼する」
短く告げる。
オリバーは反射的に背筋を正した。
「本日は、ありがとうございました」
アレックスは、今度は遮らなかった。
ただ、ほんのわずかに目を細める。
「……花嫁として立つ以上、王家の面目を潰すな」
それは祝福ではない。
命令に近い言葉だった。
けれどその奥に、わずかでも王太子としての是認があるのを、オリバーは感じ取った。
「心得ております」
そう返すと、アレックスは無言で踵を返す。
その背を追って、エレーナも慌てて歩き出す。
だが扉のところで、もう一度だけ振り返った。
「オリバーお姉さま!」
「……何?」
「今度は、逃げないでくださいましね!」
その言葉だけを残して、今度こそ去っていく。
扉が閉まる。
部屋の中に静けさが戻った。
けれど、その静けさは先ほどまでとは違っていた。
卓の上に残された白いレース。
王家の許可。
アレックスの冷たい視線。
エレーナのまっすぐな声。
その全部が、目の前に現実として置かれていた。
「……お姉さま」
ターシャがそっと呼ぶ。
オリバーは、ゆっくりと箱の中の白を見つめた。
「ええ」
その返事は、自分で思っていたよりも静かだった。
「……本当に、花嫁になるのね」
それは誰へ向けた言葉でもない、ほとんど独り言のような声だった。
けれどターシャは、しっかりと頷いた。
「ええ」
そして妹は、箱の中のレースを見つめながら、どこか優しく微笑む。
「きっと、お姉さまに似合いますわ」
オリバーは答えなかった。
ただ、そこにある白を見つめ続ける。
そのレースに、何故こんなにも心がざわつくのか。
その理由を、まだこの時のオリバーは、はっきりとは知らなかった。
——けれど。
知ってしまえば、きっと後戻りはできないのだとだけは、分かっていた。




