Act.31 帰る場所
Side オリバー
その後の流れは、正直、あまりよく覚えていない。
ターシャに手を取られ、ステファンに段取りを決められ、気づけば『王都へ戻って最低限の花嫁支度を整える』という話が当然のように進んでいた。
抗議する隙も、逃げる隙も、ほとんどなかった。
いや、たぶん――。
本気で逃げる気が、もう薄れていたのだと思う。
バントス辺境伯家の玄関前で、王都へ向かう馬車へ乗り込む直前。
グルドが、低い声で言った。
「必ず迎えに行くからな」
真っ直ぐな声だった。
迷いも、揺らぎもない。
あの人は、本当にそうするつもりなのだろう。
だからこそ、オリバーは少し困ったように笑うことしかできなかった。
嬉しい。
けれど、それだけでは済まない。
王都へ戻ることも。
家へ戻ることも。
花嫁支度をすることも。
どれもこれも、自分には少し眩しすぎる気がした。
「……お待ちしておりますわ」
そう答えるのが、精一杯だった。
グルドは何か言いたげにした。
けれど結局は黙って頷き、そのまま一歩下がる。
馬車が動き出す。
窓の外で、あの大きな背が少しずつ遠ざかっていった。
見えなくなってもなお、胸の奥はひどく落ち着かなかった。
王都へ近づくにつれて、景色が少しずつ見慣れたものへ変わっていく。
整えられた石畳。
手入れの行き届いた街路樹。
遠くに見える屋根の連なり。
辺境とは違う、人の手の行き届いた気配。
そして、懐かしい門が見えた時、オリバーは思わず息を止めた。
オクレール公爵家。
ずっと、戻ることはないと思っていた場所だ。
けれど馬車は迷いなくその門をくぐり、正面玄関の前で止まった。
扉が開かれる。
先に降りたターシャが、振り返って手を差し伸べた。
「お姉さま」
その呼び方に、まだ少し慣れない。
けれど今さら拒むのも違う気がして、オリバーはその手を借りて馬車を降りた。
玄関前には、見慣れた顔が立っていた。
「お帰りなさいませ、オリバー様」
ローランドだった。
白髪の混じった髪も、皺の刻まれた口元も、昔とほとんど変わらない。
背筋は真っ直ぐで、燕尾服には一分の乱れもない。
その完璧な一礼を見た瞬間、喉の奥がきゅっと痛んだ。
お帰りなさいませ。
そんな言葉を、もう自分は向けられないと思っていたのに。
「……ただいま、で、よろしいのかしら」
思わず漏れた声に、ローランドはわずかに目元を和らげた。
「もちろんにございます」
それだけで、胸の奥のどこかが静かに揺れた。
屋敷の中へ足を踏み入れる。
磨き上げられた床。
長い廊下。
飾られた絵画。
窓辺の花まで、記憶の中とほとんど変わっていなかった。
変わっていない、ということが、こんなにも苦しいとは思わなかった。
自分だけが、長い間この場所から遠ざかっていたのだと、突きつけられるようで。
「お部屋も、そのままにしてありますわ」
ターシャが少し誇らしげに言う。
案内されて入った自室も、やはりほとんど変わっていなかった。
薄い色のカーテン。
壁際の本棚。
小机。
鏡台。
ベッドの位置も、クッションの色も、何もかも、記憶のままだ。
オリバーは、しばらく入口で立ち尽くしていた。
捨てられたのだと思っていた。
もう戻ることもないのだと、そう思い込んでいた。
けれどこの部屋は、まるで昨日まで使っていたかのように整えられている。
「……変わって、いないのね」
「変える必要がありませんもの」
ターシャはあっさりと言った。
「お姉さまが戻られる時のために、そのままにしてありましたわ」
その言葉に、オリバーは返事ができなかった。
落ち着く間もなく、ターシャはすぐさま動き出した。
「とにかく時間がありませんわ! ドレスの仕立ては急がせますし、靴も手袋も合わせなければなりませんし、下着も夜会用も普段着も全部見直さなくては! レースも刺繍も候補を出して、髪飾りも揃えて――」
妊婦とは思えない勢いで、メイドたちに次々と指示を飛ばしていく。
「採寸の準備を!」
「見本帳を全部持っていらっしゃい!」
「靴職人にも今日中に連絡を!」
「あと、髪飾りの箱も!」
「ターシャ」
オリバーは思わず眉を寄せた。
「あなた、公爵夫人になったのでしょう。もう少し落ち着きなさい」
ぴたり、とターシャの動きが止まる。
部屋の中のメイドたちまで、一瞬だけ固まった。
言ってから、しまったと思った。
昔と同じ調子で窘めてしまったのだ。
けれど次の瞬間、ターシャはぱっと顔を輝かせた。
「お姉さま……!」
「な、何ですの」
「今の、昔みたいでしたわ!」
そう言って、今にも抱きついてきそうな勢いで近づいてくる。
オリバーは半歩引いた。
「だから、落ち着きなさいと申しているでしょう」
「お姉さまが私を叱ってくださるの、久しぶりですもの!」
「喜ぶところではありません!」
言い返すと、部屋の空気が少しだけ和んだ。
メイドたちまで、どこかほっとしたような顔をしている。
ターシャはそんな周囲に構わず、じっと姉を見つめた。
勢いばかりではない、真っ直ぐな目だった。
「お姉さま」
「……なあに」
「お姉さまがどれほど反省して、どれほど努力したか、わたくしは知っておりますわ」
その声は、先ほどまでの明るさとは違っていた。
強いのに、泣きそうでもある。
オリバーは、わずかに目を見開く。
ターシャは続けた。
「修道院で、何もできなかった頃のお姉さまではないことも知っております。レースを教えて、働いて、耐えて、それでも誰かの役に立とうとなさっていたことも、ちゃんと聞いておりますわ」
喉の奥が詰まった。
そんなふうに見られていたとは、思わなかった。
「でも」
ターシャの声が、少しだけ震える。
「お姉さまは、自分に厳しすぎます!」
その一言に、オリバーは反射的に何かを言い返そうとした。
けれど、うまく言葉にならなかった。
違う、とも言い切れなかった。
自分に厳しい。
その通りだった。
そうしていなければ、許されない気がしていたから。
甘えた瞬間に、何もかも崩れてしまう気がしていたから。
「お姉さまは、もっと大事にされてよいのです」
ターシャが言う。
「今までだって、そうだったのです。これからはなおさらです」
その言葉に、オリバーはほんの少しだけ頬が熱くなるのを感じた。
こういう、真正面からの言葉には慣れていない。
あまりに眩しくて、どう返してよいのか分からなくなる。
「……そういう言い方は、少し苦手だわ」
ようやく絞り出した声に、ターシャは小さく笑った。
「知っておりますわ。お姉さま、昔からそういうところ、少しもお変わりになりませんもの」
そう言われて、オリバーはますます返す言葉を失った。
ターシャはくすりと笑い、今度は少しだけ穏やかな声で言う。
「ですから、逃がしませんわ」
「……物騒ね」
「ええ。お姉さまは少し目を離すとすぐに自分を後回しになさるのですもの」
まるで子どもに言い聞かせるみたいな口調だった。
それが妙に可笑しくて、オリバーは少しだけ笑ってしまう。
その笑みに、ターシャがぱっと明るくなる。
「ほら! 今みたいに笑っていてくださいまし!」
「無茶を仰るのね」
「無茶ではありませんわ! 笑うお姉さまはとても綺麗なのですから!」
「ターシャ」
「はい!」
「落ち着きなさい」
「はい……」
返事だけはしおらしい。
けれど目はまったく諦めていない。
ローランドが、そのやり取りを見計らったように静かに一礼した。
「皆さま、採寸の準備が整いました」
それを合図に、部屋へ仕立て屋と侍女たちが入ってくる。
腕には布地見本が抱えられ、卓にはレース帳や宝石見本帳まで積まれていった。
本当に、逃げ道がない。
「お姉さま、まずは色からですわ!」
「そんなに急がなくても……」
「急ぎます!」
ぴしゃりと言われ、オリバーは思わず肩をすくめた。
だが、不思議と嫌ではなかった。
押し切られている。
振り回されている。
なのに、心のどこかが温かい。
自分のために、これほど大勢が動いている。
それがまだ少し信じられない。
けれど目の前では、メイドたちが当然のように布を広げている。
ローランドは当然のように段取りを整えている。
ターシャは当然のように姉の花嫁支度を進める気でいる。
その『当然』が、胸の奥へ少しずつ沁みていった。
「お姉さま」
ターシャが、もう一度呼ぶ。
「今度こそ、ちゃんとここで支度をいたしましょう。誰にも舐められないように。誰にも、もう勝手に値踏みされないように」
その言葉に、オリバーは静かに瞬いた。
武装だ、と。
そう言われている気がした。
贅沢ではない。
見せびらかしでもない。
花嫁として立つための、必要な支度なのだと。
「……ええ」
小さく頷く。
「お願いいたしますわ」
その返答に、ターシャがぱっと表情を明るくした。
「では次はドレスですわ! お姉さま、今度こそ逃がしませんからね!」
「逃げませんわ」
そう返した瞬間、自分でも少し驚いた。
けれどその言葉は、思ったより自然に口から出ていた。
部屋の中に、布の擦れる音と、女たちの忙しない声が広がっていく。
その中に身を置きながら、オリバーはそっと思う。
もしかしたら、自分は本当に。
戻ってきてもよい場所へ、帰ってきたのかもしれないと。




