Act.28 美女と野獣と妹君
Side ギルバート
私は長く執事をやっておりますが、朝の空気というものには大抵、その日の厄介事が滲むものです。
静かすぎる朝は嵐の前触れ。
騒がしすぎる朝は、たいていすでに嵐の中。
そしてこの日の朝は、後者でございました。
「ど、どういたしましょう……!」
まだ朝食の支度も整いきらぬうちから、廊下の端でメイドたちが小声の悲鳴を上げている。
それを見つけた時点で、私は深く息を吐きたくなりました。
「何事です」
できるだけ平静な声で問えば、メアリーが振り返る。
顔が赤い。
リアンも赤い。
ついでに、その場にいる若い侍女全員が、妙にきらきらした目をしている。
嫌な予感しかしません。
「ギルバート様……その……」
「旦那様が」
「オリバー様のお部屋から」
「まだ、出ていらっしゃらなくて……!」
なるほど。
私は一度だけ目を閉じました。
昨夜の件は、屋敷の人間全員が何となく察しておりました。
オリバー様が泣き崩れたことも、旦那様がそのまま客間に残ったことも、完全に秘匿できるような状況ではなかった。
とはいえ、だからといって何かがあったとは限らない。
少なくとも私は、旦那様の理性がそこまで簡単に蒸発するとも思っておりませんでした。
……ええ、思ってはおりませんでしたが。
「起こすべきでしょうか……?」
「でも、もし仲良くしておられたら……」
「で、でも朝のお支度が……!」
きゃああああ、という内心の黄色い悲鳴が、もはや廊下にまで漏れております。
若い。
大変、若い。
「静かに」
私が一言申し上げると、全員がぴたりと口を閉じた。
「旦那様がお休みでしたら起こします。そうでなければ、朝食を少し遅らせればよろしい」
「で、ですが」
メアリーが恐る恐る口を開く。
「もし、その……本当に、そういう……」
「そういう?」
問えば、彼女は耳まで真っ赤になった。
「な、仲睦まじい最中でございましたら……」
私は危うく咳き込みそうになりました。
「その場合でも、旦那様とオリバー様は朝食をお召し上がりになります」
きっぱり申し上げると、若い娘たちは何故かさらに赤くなった。
まったく、何を想像しておられるのでしょうか。
その時だった。
玄関前から、慌ただしい声が上がった。
「馬車が門の前に来ておりまして……!」
「紋章は……オクレール公爵家!?」
一瞬で空気が変わる。
私は若い者たちをその場へ残し、玄関へ向かった。
屋敷の前に止まっていたのは、たしかに豪奢な馬車だった。
オクレール公爵家の紋章を掲げた、王都仕込みの美しい車体。
だが、そこから降りてきた人物を見て、今度は別の意味で息を呑む。
オクレール公爵ステファンではない。
栗毛色の髪。
シルバーグレーの瞳。
色合いこそ違えど、顔立ちはオリバー様によく似ている。
そしてその腹は、明らかに子を宿した女のものだった。
ターシャ夫人――現オクレール公爵夫人でございます。
その夫人が、出迎えの口上も待たずに一歩前へ出た。
「バントス辺境伯を出しなさい!」
凛として響いた声に、玄関前にいた使用人たちが揃って背筋を伸ばした。
そして次の瞬間、その夫人は叫んだ。
「我が姉をポイ捨てするようなクズを、さっさとここに連れてきなさい!」
全員、察しました。
これは、完全にお怒りである、と。
しかも並の怒りではありません。
妊婦特有の不安定さまで加わっておられる顔です。
大変よろしくない。
「我が姉を弄んで、北の修道院ですって!? お姉さまはお母様が暴れるから、ずっと我慢なさっていたんです! ええ、確かに悪女だ、傲慢だと言われていましたけれども、お姉さまは反省なさいました! 貴族の色々なことも学んで、私の立場を案じて、私の子ができるまでは外へ出ないと、頑ななほどに! なのにこんなの、あんまりですわ! 毒婦だなんて妄言に騙されたのですか!? 我が姉は処女です!!」
一気に言い切った公爵夫人は、ぜえ、はあ、と肩で息をしていた。
玄関前は、水を打ったように静まり返る。
誰もが思ったことでしょう。
――オリバー様、ものすごく妹君に愛されておられるのでは?
そこへ、さらに馬の嘶きが重なった。
「ターシャ!」
駆け込んできたのはステファンその人だった。
珍しく髪まで乱れている。
かなり慌てて追ってきたらしい。
「ターシャ、落ち着くんだ!」
「ステファン様!」
夫人は振り返るや否や、涙目のまま夫へ詰め寄った。
「どの方がバントス辺境伯ですか!? 一発殴らせてくださいまし!」
「落ち着くんだ、ターシャ。あと、君がグルドを殴ったら君の手が折れる。お腹の子にもよくない。少し落ち着こう」
大変冷静な判断です。
正論でもあります。
しかしターシャ夫人は、落ち着くどころか、わあっと泣き出してしまわれた。
「落ち着いていられますか! お姉さまが、お姉さまがっ、ポイ捨てなんて許せませんわ!」
「すまないね、妻は少々気が立っていて」
そう言いつつ、ステファンも額に手を当てている。
この夫婦、片方が泣き、片方が謝っているようでいて、根本的にはどちらも大層慌てておられる。
使用人一同、どうしていいか分からず固まっていた、その時だった。
廊下の奥から足音が近づいてくる。
振り向いた先に現れたのは、グルド坊ちゃまとオリバー様だった。
そして私は、人生で何度目かの『よりによって』と思いました。
二人とも、夜着の薄着姿だったのでございます。
いや、正確には、グルド坊ちゃまは急いで上着だけ引っ掛けたような格好。
オリバー様は、少し厚手のガウンを羽織ってはおられるものの、どう見ても部屋着。
どう見ても寝起き。
どう見ても、同じ部屋から一緒に出てきたようにしか見えません。
つまり、事後にしか見えない。
「そ、そんなぁ」
ターシャ夫人が、目を見開く。
「お姉さまが……お姉さまが、野獣に食われた!!」
「な、ターシャ!?」
オリバー様が真っ青になる。
「貴女、妊娠中でしょう!? なんでここに!」
「お姉さまが『北の修道院へ馬車を出してくれ』なんて手紙を送ってくるし、エレーナから『オリバーお姉さまが傷物にされた』って手紙が来るし、もう訳が分からなくて、とにかく来ましたわ!」
この間ずっと、ターシャ夫人は泣いておられる。
修羅場です。
完全に修羅場です。
一方で、グルド坊ちゃまはというと、珍しく本気で固まっておられた。
どうやら『野獣』が自分を指すことは理解できたようですが、そこから先の情報量が多すぎて処理が追いついていないご様子。
するとオリバー様が、ゆっくりと一歩踏み出された。
昨夜泣き腫らしたはずの目で、今度はまっすぐ妹君を見つめる。
そして、そのままターシャ夫人のところまで歩いていき、泣きじゃくる彼女を、そっと抱き締めた。
「ありがとう」
その声は、ひどく柔らかかった。
「でも、誤解よ」
ターシャ夫人がしゃくり上げながら顔を上げる。
オリバー様は少しだけ頬を赤くして、それでもはっきりと言った。
「私ね、グルド様に妻に望まれたの」
静まり返る玄関。
ターシャ夫人が、ようやく泣くのを止めた。
それから、ゆっくりとグルド坊ちゃまの方を見る。
金髪。
大柄。
傷のある顔。
寝起きで上着だけ羽織った野性味。
その隣で、抱き締めたくなるほど繊細で美しいオリバー様。
ターシャ夫人は、涙の跡もそのままに、ぽつりと呟いた。
「美女と野獣」
使用人一同、何故か納得してしまいました。
ええ。
否定しづらい。
「誰が野獣だ」
ようやく復帰したグルド坊ちゃまが低く言ったが、どこか弱い。
だいぶ動揺しておられます。
それに対して、ステファンが肩をすくめた。
「残念だけど、今の格好だと君の方が分が悪いね」
「お前まで言うのか」
「妻の情緒を乱した男に遠慮する必要はないかな」
実に見事な追撃でした。
ターシャ夫人は、まだ目元を濡らしながらも、今度はしっかりした声で言った。
「……本当に、捨てたのではありませんの?」
「捨てるわけがないだろう!」
グルド坊ちゃまが反射的に返す。
その声は妙に切実で、むしろ誰より本音でした。
「お姉さまを、ちゃんと妻にするおつもりですの?」
「そのつもりだ」
即答。
それを聞いたターシャ夫人は、ようやく胸を撫で下ろした。
「でしたら、よろしいのです」
「よろしいのか」
「ええ。野獣でも」
「まだ言うのか」
バルク様が、ちょうどそのタイミングで玄関へ降りてこられた。
一連の騒ぎを途中から聞いていたらしく、口元を押さえながら肩を震わせておられる。
「いやあ、朝から賑やかだな」
「叔父上、笑うな」
「無理を言うな。美女と野獣は傑作だぞ」
オリバー様はターシャ夫人を抱き締めたまま、困ったように少し笑った。
その笑みを見て、ターシャ夫人がまた目を潤ませる。
「お姉さま……」
「心配かけてごめんなさい」
「本当にですわ!」
「ええ……本当に、ごめんなさい」
そのやり取りが、妙にあたたかかった。
愛されていないと思い込んでいた姉と、実はものすごく姉を案じていた妹。
その間に挟まれて、野獣だの何だのと言われている辺境伯。
朝からなかなか大変な構図ですが、悪くはありません。
少なくとも、昨日までよりずっと生きた空気が流れている。
私はそっと一礼して、近くのメイドへ指示を出した。
「応接間を整えなさい。温かい飲み物を多めに。ターシャ夫人には身体を冷やさぬものを」
「はい!」
若い娘たちが一斉に散る。
その顔は、先ほどまでの黄色い悲鳴とはまた別の意味で輝いていた。
ええ、分かっております。
この屋敷の使用人たちは今、ほぼ全員が思っているのでしょう。
――オリバー様、ぜひこのまま嫁いでくださいませ、と。
私もまったく同意見でございます。
もちろん、その前にいくつか片づけるべきことはある。
王都への返書。
修道院への説明。
正式な婚約の手順。
そして、野獣殿にはもう少し洗練を覚えていただかねばなりません。
先は長い。
ですがまあ。
少なくとも今朝の時点で、ポイ捨て疑惑は晴れたのです。
それだけでも大きな前進と申せましょう。
泣きながら姉へしがみつく公爵夫人。
困り顔で妹を抱きしめるオリバー様。
その傍らで、いまだ『野獣』という評価に納得していない辺境伯。
私はその光景を見ながら、静かに思いました。
――なるほど。
たしかに、美女と野獣。
ですが野獣殿。
あなたは思っている以上に、もうその美女に首輪を掛けられておりますよ。
もちろん、それを口に出すつもりはございませんが。




