Act.27 綺麗に笑って終わらせるな
Side グルド
あまりに真剣に問うたせいか。
それとも、もうこれ以上は綺麗に笑ってごまかせないところまで来ていたのか。
オリバーの唇が、かすかに震えた。
「私が、辺境伯夫人になれるはずがないではありませんか」
俺は何も言わずに、その先を待った。
ここで遮れば、きっとまた、あの完璧な笑みへ戻る。
そうしたら今度こそ、本音は聞けなくなる。
「除籍された身で、公爵令嬢でもなくて、悪女だの、毒婦だのと呼ばれて、修道院へ送られて……そのうえ、攫われて、あんな目に遭って」
オリバーは笑おうとした。
だがもう、口元はうまく上がっていなかった。
引きつったみたいに歪むばかりで、いつもの整った笑顔には少しも戻らない。
「そんな私が、あなたの妻になれるはずがありません」
その一言は、ひどくはっきりしていた。
何度も何度も、自分に言い聞かせてきたのだろう。
そうでなければ、ここまで淀みなく出てこない。
「……だから」
指先が、かすかに震えている。
「せめて、一夜の情けをいただいて、思い出だけ抱いて去ろうと思いました」
その言葉に、頭の中が一瞬真っ白になった。
「は?」
我ながら、間の抜けた声だった。
だが、オリバーはもう止まらなかった。
止めたら、たぶん二度と口にできないのだろう。
「北の最果ての修道院へ行こうと考えています。最初にステファン様が提示した、あの戒律の厳しい修道院です」
今度こそ、血の気が引いたのは俺の方だった。
「……なんだって?」
「馬車を用意していただけるよう、今日、ステファン様へ手紙を出しました」
そこでようやく、全部が繋がった。
不自然なほど整った声。
妙に静かな目。
俺への告白。
夜着姿。
“ものにしてください”という言葉。
全部、自分を捨てるための覚悟だったのだ。
俺を求めたんじゃない。
俺に縋ったんでもない。
最後に思い出だけ貰って、死ぬほど寒くて厳しい場所へ、自分から行こうとしていた。
「ふざけるな」
気づけば、そう言っていた。
オリバーがびくりと肩を揺らす。
「それを、俺が喜ぶと思ったのか」
「……喜ぶとは、思っておりません」
「だったら何だ」
一歩、また一歩と詰める。
オリバーは逃げない。
いや、もう逃げる先をなくした人間みたいに、ただそこに立っていた。
「お前、本気でそれが“素直”だと思ってるのか」
オリバーの目に、ようやく揺れが走る。
「思って、おりません……」
「当たり前だ」
声が低くなる。
「それはただ、自分を安く差し出して、全部諦めてるだけだ」
その言葉に、オリバーの顔がくしゃりと歪んだ。
ようやくだ。
綺麗に笑うのをやめた。
やっと、ちゃんと傷ついた顔をした。
「……だって」
今度こそ、声が震えた。
「だって、どうしたらいいのか分からないのです……!」
その一言で、胸の奥に張っていたものが切れた。
俺は思わず、その身体を抱き寄せていた。
細い。
熱い。
震えている。
さっきの誘いの気配なんて、抱き締めた瞬間にどこにもなかった。
あるのは、怯えきった女の身体だけだ。
「分からないなら、一人で決めるな」
耳元で、できるだけ静かに言う。
オリバーは最初、抵抗しなかった。
それから数拍遅れて、胸元へ額を押しつけてくる。
「でも……っ」
「でもじゃない」
「私は、あなたに相応しくなくて……」
「誰が決めた」
「私が、」
「お前が勝手に決めるな」
そこでオリバーが、小さく息を呑んだ。
俺はその背を撫でる。
攫われた夜のことを思い出させないよう、強くしすぎないよう気をつけながら。
「手紙は」
短く問う。
「もう出したのか」
腕の中で、オリバーがこくりと頷いた。
「……そうか」
ならば、止める相手はステファンだ。
今夜のうちに馬を飛ばせば、まだ間に合う。
だがそれより先に、こっちだ。
「オリバー嬢」
今度は、あえてそう呼ぶ。
彼女がゆっくり顔を上げた。
涙でぐしゃぐしゃだった。
さっきまでの完璧な淑女の笑みなど、もうどこにもない。
「思い出だけで生きていける、なんて二度と言うな」
オリバーの目が揺れる。
「俺はそんなつもりでお前を助けたんじゃない」
それだけは、はっきり言わなければならなかった。
「一夜の情けが欲しいならやる、なんて、そんな安い話にするな」
「……っ」
「俺を、お前の最後の逃げ道みたいに使うな」
その言葉に、オリバーの肩がまた震えた。
泣きそうな顔で、けれど目だけは逸らさずに俺を見ている。
「俺はお前を、ちゃんと妻にしたいと思ってる」
その言葉に、オリバーの瞳からまた涙が溢れた。
「でも、」
「でもも何もない」
俺は少しだけ息を吐く。
「お前が怖いなら待つ。考えたいなら待つ。修道院へ帰りたいなら、それも考える」
そこまで言ってから、目を逸らさずに続けた。
「けど、自分を罰するために北の果てへ行くのは、絶対に認めない」
オリバーの肩が、また震える。
今度は怯えじゃない。
ようやく、感情が表へ出てきた震えだった。
「……グルド様」
掠れた声でそう呼んで、オリバーは泣きながら笑った。
その笑いは、もう綺麗に整えられたものではなかった。
「あと、多分だが、俺の手紙の方が早く着いているはずだ」
「手紙?」
「お前、ずっと『オクレール公爵家の駒』みたいな顔をしてただろ。なら、家長から先に許可を取れば逃げられないと思ってな」
そこで、俺は一歩引いた。
そのまま彼女の前に跪き、そっと手を取る。
白くて細い指が、驚いたようにわずかに強張った。
「ステファンに『オリバー嬢を妻に望む』って手紙を出した。今朝、朝一で。少なくとも、お前がオクレール公爵家へ送った手紙よりは早く着く。何せ、こっちは早馬だ」
言われた言葉が理解できないのか、オリバーは淑女らしからぬ顔でぽかんとした。
その顔が、少しだけ可笑しくて、少しだけ愛しかった。
俺はそのまま、手を取ったまま言う。
「オリバー嬢。貴女を妻に望みたい」
言葉を選ぶのは得意じゃない。
飾るのはもっと得意じゃない。
だが、だからこそ、ここだけは誤魔化せなかった。
「悪女だ、毒婦だ、傲慢だ――そんな言葉、どうでもいい。少なくとも、俺の領地で生きて、踏ん張って、誰かを支えた君の価値を、ここにいる人間は知っている」
オリバーの睫毛が震える。
「修道院と孤児院の聖女。そう呼ぶ者すらいる。君を、この領地が知っている」
王都の声なんて知らない。
俺はここで見た。
この家の者たちも、村の女たちも、修道院も、孤児院も見た。
だからそれで十分だった。
「王都での付き合いが怖いなら、行かなくてもいい」
少しだけ肩をすくめる。
「ああ、国王陛下への挨拶だけは断れんから、そこだけは来てほしいが、あとはどうでもいい」
オリバーが、目を丸くしたままこちらを見ている。
その顔のまま、涙がまたぽろぽろ零れた。
「オリバー嬢」
手を握る。
「この領地で、俺と一緒に骨を埋めてくれ」
飾り気のない言葉だった。
辺境伯の求婚にしては、たぶんひどく不格好だ。
けれど、オリバーはその場で、堰を切ったように泣き出した。
歓喜なのか、混乱なのか、自分でも分からないまま泣いている。
そういう顔だった。
次の瞬間、そのままこちらへ飛び込んでくる。
「っ、グルド様……!」
細い腕が首へ回り、柔らかな身体が胸へぶつかった。
――やばい。
頭の中で、それしか出てこなかった。
夜着。
薄い。
近い。
近すぎる。
「ま、待て!」
反射的に両手を浮かせる。
抱き締め返したら終わると、本能が叫んでいた。
「その格好は駄目だ! 頼む、今はくっつかないでくれ!?」
自分でも情けないほど切羽詰まった声だった。
オリバーが涙の残る顔のまま、きょとんとこちらを見上げる。
それがまた駄目だ。
本当に駄目だ。
顔が熱い。
耳まで熱い。
たぶん真っ赤だ。
「お、俺だって男なんだぞ……!」
やっとそれだけ絞り出すと、オリバーが一瞬だけ瞬きをした。
それから、泣き笑いみたいな顔で、ほんの少しだけ腕の力を緩めた。
「……そういうところが、好きですわ」
「今それを言うな!」
思わず叫ぶと、オリバーはとうとう声を上げて泣きながら笑った。
ああ、もう。
本当に、どうしようもなく。
ようやく、ちゃんと戻ってきたと思った。




